第16話:縁と急襲
「養父上、ここが手柄のたて時でございます。我が家の家臣だけでは手が回りません。相手は御老中の嫡男、本家を始めとした土井一門に協力を仰ぎましょう」
津田日向守の次男土井豊前守は、養父土井利峯を説得して本家の下総古河藩七万石、同じ土井家の分家である三河刈谷藩二万三〇〇〇石、越前大野藩四万石に助太刀を出してもらおうとした。
津田日向守の言葉は、名門譜代が持っている、田沼意次への嫌悪感と対抗意識を煽っているように見えるが、実際には全て田沼意次の知恵だった。
名門譜代の中でも特に由緒のある土井家を、家基の母系津田家に近づけるためだったが、そう簡単には行かなかった。
三河刈谷藩の土井山城守利徳、越前大野藩の土井能登守利貞は喜んで協力すると言ってくれたが、肝心の本家下総古河藩の土井美濃守利見が病に倒れてしまった。
全く回復の気配がなく、最悪このまま死んでしまうかと思われた。
古河藩は後継者問題で何度も問題が起きていた。
先代藩主の土井大炊頭利里は子供に恵まれず、最初に五〇〇〇石の大身旗本久世広武の四男、遠江守利剛を養嗣子に迎えていたが、大炊頭利里よりも先に亡くなってしまっていた。
次に、武蔵川越藩主松平朝矩の長男、因幡守利建を養嗣子迎えたが、余りに出来が悪く廃嫡にするしかなかった。
三度目に迎えた三河西尾藩主松平乗祐の十男、土井美濃守利見はとても優秀で、京都所司代として領地を離れている養父に変わって、日光東照宮社参を行なった家治将軍を領地に迎え、見事な歓迎を行った。
養父はもちろん家臣領民からもとても期待されていた。
そんな美濃守利見が、養父の跡を継いで僅か二カ月で病に倒れてしまったのだ。
跡継ぎも定まっておらず、最悪の場合は無嗣改易にされてしまう。
家臣達は、最悪を回避しようと幕閣に相談を持ちかけていた。
養嗣子を決めようと走り回っており、とても分家への協力などできなかった。
土井豊前守は、予定していた助太刀の半分しか手に入れられなかった。
ただ、無嗣改易を避けようと走り回っている下総古河藩の家老達を、実父津田能登守が田沼意次と家治将軍に取り次ぐことで、津田家は古河藩の家老達に貸しを作る事に成功した。
もし万が一、土井美濃守利見が死ぬような事があれば、家基が家治将軍に口添えすると約束したのだ。
家治将軍と老中田沼意次から、末期養子を許可する書付を手に入れて渡したのだ。
家基は、家治将軍と田沼意次から絶大な信頼と愛情を得ている。
津田家は家基の母系でとても大切にされていて、少々の無理は通る。
それを強く印象付ける事で、土井家を守るためには家基と津田家を助けた方が良い、と思わせる事に成功した。
名門譜代の一角を切り崩して、家基と津田家に協力するとの言質が取れた。
★★★★★★
「長谷川殿、急いで助太刀に来たが、こちらの事は全く分からない。大目付の地位が利用できるなら、何でも言ってくれ」
津田日向守は、格下の長谷川平蔵が相手でも丁寧な言葉を使う。
姉の御陰で急に大目付に大抜擢され、手柄を立てる機会を得た津田日向守は、配下の小姓組番を率いて長崎まで駆けてきた。
番士全員が騎乗資格のある名門旗本だが、一行は彼らだけではない。
各番士が、知行高と凜米に応じて陪臣を率いているのだ。
五〇〇〇石の津田日向守だと、馬上五騎、徒士侍九人、押足軽四人、若党五人、数弓三張、立弓一張、鉄砲五丁、薙刀一人、甲冑持四人、槍持八人、馬印三人、小者三人、馬口取九人、手替三人、旗指六人、雨具持一人、草履取一人、鋏箱持四人、沓箱持二人、箭箱持二人、玉箱持二人、長持四人、小荷駄五人、具足持五人、小者五人、茶弁当一人、坊主一人、合計一〇二兵を率いて長崎まで行かなければいけない。
小姓組番与頭の最低基準一〇〇〇石高だと、徒士侍一人、押足軽一人、立弓一張、鉄砲一丁、甲冑持二人、槍持二人、馬口取二人、草履取一人、鋏箱持二人、沓箱持一人、小荷駄二人の合計二一兵が必要になる。
小姓組番士の最低基準凜米三〇〇俵だと、徒士侍一人、甲冑持一人、槍持一人、草履取り一人、小荷駄一人、鋏箱持一人、馬口取一人の合計七兵が必要になる。
頭、与頭、番衆五〇騎で最低でも五七三兵になる。
今回は、番士の中に知行高や凜米が標準凜米を超える大身旗本が数多くいたので、七三六兵もの兵力になっていた。
参勤交代する薩摩藩は、薩摩から江戸までの行程を四七泊四八日標準としていた。
天候にも左右されるので、四〇日から六〇日で到着できれば良いとしていた。
それなのに津田日向守は、江戸と長崎の間を二五日でやって来た。
もちろん目付を兼帯する事になった津田能登守と土井豊前守も一緒だ。
津田能登守は、父である津田日向守の直臣に守られていた。
土井豊前守は、五〇〇〇石旗本土井家の家臣一〇二人と、二藩の親戚が助人に出してくれた一〇二兵に守られていた。
助人は、土井一門の腕利き江戸詰め藩士、東海道を登る際に三河刈谷で合流した腕自慢の藩士、長崎で合流した越前大野藩の腕自慢だった。
そして田沼大和守意知は、江戸詰めの優秀な藩士を数多く率いていた。
更に遠江相良で領地にいた優秀な藩士を合流させていた。
御側御用取次と大目付を兼帯する者として、一〇二兵を率いていた。
「そういう事でしたら遠慮なく使わせていただきます」
長谷川平蔵は四人の話を聞いて、直ぐに田沼意次の意図を察した。
四人にも十分な手柄をたてさせろと言う事だと察した。
単に手柄を横取りするのではなく、不足する権威と兵力と送ってくれるところが、田沼意次らしいと思っていた。
田沼意次が権力を握っている間は、安心して幕府に奉公できると思った。
「日向守殿と大和守殿のお二人には、長崎警備の諸藩に圧力をかけていただきたい。それがしも圧力をかけましたが、大目付の御両所がかけてくださると、改易に現実味を帯びますので、それこそ死力を尽くしてくれるでしょう」
長谷川平蔵にそう言われた津田日向守と田沼大和守は、直ぐに配下を率いて九州諸藩が長崎警備に詰めている屋敷に向かった。
「能登守殿と豊前守殿には、某と一緒に長崎奉行所に行っていただきます。浅草仙右衛門だけでなく、他の抜荷一味に手を貸している幕臣と地方役人も全て捕らえていただきます」
長谷川平蔵は、長崎に来てから、数少ない配下と助太刀の越後長岡藩士を駆使して、地縁も血縁もなく、全く手掛かりのない長崎で探索をしていた。
火付け盗賊改め方長官の役目を前面に押し立て、自らを囮にして必死の探索を行い、闇討ちを何度も返り討ちにして、浅草仙右衛門だけでなく他の抜け荷一味まで調べ上げていた。
だが、手勢が少なくて全員を捕らえるのは諦めていた。
浅草仙右衛門を最優先にしなければいけないが、そうすると幕臣や地方役人は抜荷の証拠を隠滅してしまい、清国の船員は母国に逃げてしまうと諦めていた。
ところが、千近い強力な援軍が現れたら状況が一変する。
全ての御定法破りを一度に捕らえる事ができる。
これほどの援軍が来たら、日を空けずに一気に召し捕らないといけない。
これまで幕府を舐めた態度を取っていた清国船員も、江戸から千兵の援軍が来たと知ったら、母国に逃げ出してしまう。
不忠の幕臣も性根の腐った地方役人も、証拠を隠滅してしまう。
証拠を隠しきれない連中が、清国の船に乗って国を逃げ出す可能性もある。
国を捨てて逃げ出さなければいけないくらい、悪事を重ねていた幕臣や地方役人が多かったのだ。
「一人も逃がすな、手向かう者は斬り殺せ!」
長谷川平蔵の下知で千を超える兵が数十の拠点に攻め込んだ。
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