第17話:厳罰
「火付け盗賊改方の長官として全権を預かっている。誰であろうと関係ない。生き残っている者は全員江戸に連れて行く」
長谷川平蔵が、抵抗して斬り棄てられた者以外、幕臣、藩士、平民の別なく、生き残っている全員を前にして言った。
その目は、相手を人間とは見ていないが、それも当然だった。
人間を奴隷にして異国に売っているのは、浅草仙右衛門だけではなかった。
長崎に拠点を持つ商人の半数が、奴隷売買にかかわっていた。
長崎の地方役人の半数以上が、奴隷売買に手を貸して賄賂を受け取っていたのだ。
長崎奉行所に単身赴任して来ている幕臣も、恥知らずに奴隷売買を黙認して賄賂を受け取っていた。
更に、幕府から長崎警備を申し付けられている諸藩の藩士の中にも、悪事を黙認して賄賂を受け取っている者がいた。
その全員が目の前にいるのだから、人を見る目にならないも当然だった。
「大目付としてはっきりと申しておく。親藩名門譜代の家臣であろうと関係ない。これまで重ねてきた悪事を正直に白状しなければ、主家が御取り潰しになるだけではすまない、九族皆殺しにされると思え!」
大目付津田日向守の言葉に、抜荷に協力していた九州諸藩の藩士が蒼白になる。
先に大納言家基の叔父だと名乗っていたのは、ただの血族自慢ではなかったのだと、今の言葉でようやく理解した。
この捕り物が、将軍家の強い意向で行われたのが理解できたのだ。
それでなくても、家基の前例を無視する過酷な処罰が長崎でも噂となっていた。
その過酷な処罰が自分の身に降りかかっているのだと、ようやく理解できたのだ。
家治将軍による恩赦も全く期待できない。
家治将軍が家基を後押ししている事は、田沼意次の嫡男である意知が、同じ大目付として同行している事でも明らかだった。
「幕臣と地方役人は、これ以上の抵抗を止めて、これまで行ってきた悪事を正直に申せ。連座が九族になるのか血族だけになるのかは、正直に罪を白状して、まだ捕まっていない者の居場所を教えるかどうかにかかっている。浅草仙右衛門の居場所を教えた者は、罪一等を減じて直接悪事に係わっていない家族を追放刑に止めてやる」
津田能登守の言葉に、もっと大きな減刑を期待していた罪人達が、がくりと肩を落とした。
どれほどの秘密を白状しても、当人たちの斬首刑は変わらないと言われたからだ。
通詞に内容を伝えられた清国船の乗員達が騒いだが、直ぐに何も言えなくなった。
全員歯が折れ飛ぶほど殴り倒されて、ぴくりとも動かなくなった。
殴り殺しても構わないと言うやり方に、他の罪人達が震え上がった。
もう自分達が人間扱いされていないのを思い知った。
自分達が今までやっていた事、奴隷にした連中にやっていた事を、される立場なった事を、長谷川平蔵の目を見て理解した。
今床に這っている清国船員達は『水夫手廻り』と呼ばれる、貿易で長崎の町に入る際に手荷物として唐物を持ち込む抜け荷を繰り返してい。
これまでは、正義感の有る長崎奉行所の者や長崎の町を守る大村藩の藩士、長崎湊口を警備する福岡藩士が取り押さえても、今後の貿易に悪影響が起きないように無罪放免にするしかなかった。
ところが、今回は全員殺しても構わないような手荒い捕り物である。
幕府、いや、将軍家が長崎での貿易を取り止めても構わないと思っているのだ。
今後の見せしめに、磔獄門にされるのだと、ここにいる罪人全員が理解した。
だが長谷川平蔵達の捕り物はこれで終わりではなかった。
肝心の浅草仙右衛門を捕らえる事ができなかったのだ。
今回は八ケ所の隠れ家を急襲したが、その全てが影武者だった。
腐敗した幕臣と地方役人を全て捕らえた後で、長崎奉行所、大村藩の長崎役宅、福岡藩の長崎役宅、佐賀藩の長崎役宅を使って徹底した取り調べが行われた。
家治将軍と幕閣から全権を預けられた二人の大目付、津田能登守と田沼大和守が普段は禁止されている拷問を許可した。
結果は越後長岡藩で行われた取り調べと同じだった。
長谷川平蔵の行う地獄の責め苦に等しい拷問に耐えられる者は誰一人いなかった。
浅草仙右衛門の配下は、最後の拠点が薩摩藩の坊津にある事を白状した。
中国の明代には、坊津は安濃津と博多津に並んで日本三津と呼ばれるほど、明国では著名で良く利用された湊だった。
それは今でも同じで、薩摩藩が清国との密貿易に使っていたのだ。
浅草仙右衛門が江戸の暗黒街で力を発揮できたのも、薩摩藩という強力な後ろ盾があったからだった。
「大目付として命じる、我らと共に坊津に行って浅草仙右衛門を捕らえよ」
大目付津田日向守が、長崎に駐屯している薩摩藩の責任者に命じる。
「恐れながら何かの間違いでございます。抜荷を行うような卑怯下劣な平民の言葉を信じてはなりません。主、薩摩守は将軍家に忠誠を尽くしております。木曽三川の治水でも、多くの藩士が死ぬほど忠誠を尽くさせていただきました。主の祖父は、常憲院殿と有徳院殿、二人の将軍家の養女となられた浄岸院殿を後室に迎えられました。主、薩摩守の正室は一橋家から嫁がれた慈照院殿でございます。一橋家の御世継ぎには、主の三女が婚約者となっております。主の将軍家への忠節は明らかでございます!密貿易などに係わりはありません」
薩摩藩の責任者は必死で訴えたが、全くの逆効果だった。
長谷川平蔵達が一番問題としていたのは抜荷ではない、大納言家基の暗殺未遂だ!
責任者もその事は分かっているが、知っているとは口が裂けても言えない。
将軍家と島津家の近さを訴え続けるしかない。
だがその訴えが、家基暗殺に加担していると白状しているのと同じだった。
「大目付として命じる、薩摩藩を取り調べるための兵力を用意しろ」
これ以上薩摩藩の言い訳を聞いていても時間の無駄。
そう判断した大目付田沼大和守が、長崎に駐屯している九州諸藩の責任者に厳しく命じた。
だが九州諸藩は、薩摩藩との合戦を恐れたのか中々準備を始めなかった。
「合戦を恐れて城に籠っているような、憶病で下劣な者に用はない!そのような者は婦女子の裾に隠れておれ、我こそ本当の武士だと思う者は、牢人であろうと平民であろうと関係なく陣借りさせてやるから、今直ぐ集まれ!薩摩藩をはじめとした九州諸藩が改易となれば、立身出世は思いのままだぞ!」
このままでは薩摩藩に証拠を隠滅されると判断した長谷川平蔵は、九州諸藩に危機感を持たせるために、牢人者や無頼の者を集めながら坊津に向けて行軍した。
津田日向守と田沼大和守も一緒で、長崎と福岡にいた牢人をどんどん召し抱えた。
牢人を召し抱えなくても、千を超える兵力はそれなりの戦力で、四万石の大名に匹敵する兵数だ。
だが、九州全土を支配していた時の家臣をそのまま召し抱えている島津家は、遠征に使える兵力だけで五万もいる。
領内での防衛戦なら、更に戦える人数が増える。
家臣領民の全てが、家族を守るために死力を尽くして戦うだろう。
島津家がその気になれば、長谷川平蔵達千人は鎧袖一触で皆殺しにされる。
だが、殺される事で幕府が薩摩を滅ぼす理由を作れる。
正々堂々と合戦を始める事ができる。
全員が討ち死にを覚悟して坊津に進軍した。
途中に領地を持つ、大村藩の大村家と佐賀藩の鍋島家は、通行の邪魔はしなかったが、直ぐには援軍の用意ができないと、愚にもつかない言い訳をしていた。
長谷川平蔵達はまともに相手をせずに急いで坊津を目指した。
これで大村藩と佐賀藩を取り潰す大義名分ができたと、内心では喜んでいた。
久留米藩有馬家は、勝手向きが火の車にもかかわらず、急いで集めた藩士を、江戸にい藩主に代わって、城代家老が率いてやってきた。
久留米藩は莫大な借金に苦しんでいるから、経費が掛かる領地をもらうよりも報奨金を渡した方が喜ぶ。
長谷川平蔵はそのように判断して、随時継飛脚を使って江戸に知らせた。
幕府の九州橋頭堡、小倉藩小笠原家と中津藩奥平家も援軍を送ると急使を送ってきたが、長谷川平蔵達の進軍には間に合わないと思われた。
長崎奉行所に置いてあった軍需物資を全て持ち出して来た長谷川平蔵達だが、領地で待ち構える薩摩藩と戦うには心許ない量だった。
だが、柳川藩領の手前で、名君と評判の立花左近将監鑑通が待っていた。
「御役目御苦労に存ずる。これより先は我が先導させていただきます」
立花左近将監は、銀札を発行したり戸籍を調べさせたりして、柳川藩の勝手向きを良くした名君だ。
役人が汚職をしないように、官制も改革していた。
更に藩兵の調練所を作り、怠惰となっていた藩士を戦う武士に戻していた。
次に、柳川藩立花家と熊本藩細川家の領境で、細川家の使者が待ってくれていた。
完全武装で坊津に急ぐ長谷川平蔵達よりも、武装をせずに急いで領地に駆けた細川家の伝令の方が早かったのだ。
細川家は常に薩摩藩島津家の脅威を感じていたのだ。
何時攻め込まれるか分からない恐怖と共に生きてきたのだ。
この好機に薩摩藩を改易にできれば良いと考えて、藩の総力を挙げて長谷川平蔵達に協力しようとしていた。
薩摩藩を改易までは追い詰められなかったとしても、確実に家治将軍と次期将軍の細川家に対する心証は良くなる。
絶大な権力を持つ田沼意次の歓心を買う事もできる。
援軍は利益しかないと、熊本藩の城代家老達は考えていた。
一方一度は日和見した佐賀藩鍋島家だったが、長崎警備をしていた藩士が、抜荷を黙認して賄賂を受け取っていたとの報告を受けて、慌てて失態を取り戻そうとした。
更に家老の勝手な判断で長崎警備の数を半減させていたのが藩主に伝わった。
鍋島肥前守治茂は、改易されないように全力で戦う事にした。
佐賀藩鍋島家には、薩摩藩島津家に味方して幕府と戦う方法もあった。
だが島津家と協力しても、幕府に勝てるとは思えなかったので、家を守るために、形振り構わず長谷川平蔵達に従う覚悟をしていた。
その佐賀藩鍋島家は、徳川家の親藩譜代とは違う特色を持っていた。
どちらかと言えば薩摩藩島津家に近い特徴があった。
龍造寺隆信時代には、五州二島の太守と呼ばれるくらい広大に領地を支配し、その領地に相応しい家臣を持っていた。
島津に敗れ、鍋島に下剋上されてからも、龍造寺隆信時代からの家臣が、三五万七〇〇〇石とは思えないくらいいたし、準武士的な階層も数多くいて、その兵力は三万を超えていた。
それだけの兵力を維持できていたのは、兵農が分離されていなかったからだ。
切米がたった一石の武士や無給の足軽までいた。
彼らは年貢が免除された、半分農民の武士や足軽で、年貢が免除される家臣用の田畑を持ち、普段は百姓と同じように田畑を耕して暮らしていた。
家臣として年貢が免除されるのは軍役を勤めるからだ。
徳川幕府の御代になっても、戦国の地侍が残っているのだ。
長谷川平蔵達は、そんな佐賀藩鍋島家の兵力を待つことなく、熊本藩細川家と薩摩藩島津家の領境に辿り着いた。
幕府大目付と目付の権限で、抜荷を行っていた浅草仙右衛門と捕えたいから領内に入れろと、薩摩藩の関所役人に厳しく命じた。
だが薩摩藩の関所役人に、怨敵徳川幕府の役人を領内に入れる気はない。
藩の重役以外は正式に知らされていないが、藩士も領民も抜荷の事は知っていた。
絶対に坊津には行かせられないと、強い決意をしていた。
そもそも坊津は薩摩半島の先にある。
そんな奥深くまで幕府軍を入らせてしまうと、見られてはいけない物を数多く見られてしまう。
「例え幕府の大目付であろうと、主君の許しもなく関所を超えさせる訳にはいきません!どうしても領内に入ると申されるのでしたら、我らを殺してからにされよ」
薩摩藩の関所役人は強気に出た。
関ケ原の合戦後も強気で交渉したから本領が安堵された。
平身低頭で詫びた毛利家が、一二〇万五〇〇〇石から二九万八〇〇〇石の大減封をされているのと比べれば、その差は歴然だった。
その後の薩摩飛脚と呼ばれた忍者の侵入も、強気で暗殺してきた。
それで何の咎めもなかったので、今回も強気で追い返せると判断していた。
「関所役人を全員捕えろ!」
薩摩藩の役人は完全に判断を誤った。
長谷川平蔵達は、自分達が攻撃される事を望んでいたのだ。
今回の件は、表沙汰にできない忍者の密入国ではないのだ。
薩摩藩が平民を使って抜荷をしているかを調べるために、徳川幕府が大目付と目付を堂々と送った、表沙汰出来る取り調べなのだ。
しかも、大目付は次期将軍である大納言家基の叔父で、目付は従弟達だ。
更に幕府で絶大な権力を持っている、老中田沼意次の嫡男までが大目付に任じられて同行しているのだから、開戦の権限を持っていると判断しなければいけなかった。
関所を守っていた薩摩藩の役人は、幕府に対する謀叛の証人として捕らえられた。
捕らえたのは長谷川平蔵達の配下ではなく、熊本藩細川家の藩士達だった。
熊本藩に入ってからは、先導する道案内が細川軍に変わっていたのだ。
熊本藩細川家は五四万石で、軍役を考えれば、本家だけで一万一五四五兵を動員しなければいけない。
肥後新田藩細川家は三万五〇〇〇石で七一二兵。
宇土藩細川家は三万石で六一〇兵。
合わせて一万二八六七兵を出陣させなければならないのだ
それだけの兵が薩摩藩領内に攻め込もうと領境に集結していた。
長谷川平蔵達は、続々と集まる牢人を加えて三〇〇〇人にまで膨れ上がっていた。
その三〇〇〇兵が中軍となり、熊本藩細川家の兵を先頭に、柳川藩立花家の兵を後ろ備えに、着々と薩摩藩内を進んでいた。
薩摩藩は外城制を取っており、壕や石垣を備えた本格的な城ほどではないが、それに近い防御力を備えた、麓と呼ばれる拠点が領内に一二〇ケ所もあった。
更に藩士が本城の城下に集中するのではなく、麓に常駐する防衛体制だった。
幕府軍が攻めて来たら、一二〇ケ所の麓に籠城して領地を守り切る計画だった。
何といっても、薩摩藩は人口の二割六分が武士なのだ。
七七万石で八七万人もの人間が住んでいて、二二万人以上が武士階級なのだ。
いや、領民全員が敵だから、老若男女の内、戦える成人男女が二九万人はいる。
領内に入り込んで根切りを行うなら、それくらいの人数は殺す覚悟がいる。
江戸にいる島津重濠に、領境で大目付と戦いになったと報告が伝わる前に、長谷川平蔵達は出水麓に駐屯している薩摩藩士達と戦闘になった。
出水麓は、多くの武家屋敷を中心に川や用水路を濠代わりに使い、各屋敷の石垣を城壁代わりに使い、戦国時代の小城を遥かに超える防御力を持っていた。
しかも麓の中央にあるのは、戦国時代の活躍した廃城なのだ。
戦国時代ほどの防御力はなくても、砦としてなら十分以上の防御力がある
とはいえ、そんな麓を無理に落とす必要はない。
前を素通りして次の麓、高尾野麓に向かった。
薩摩藩士が出水麓を出て攻撃してくれれば、城攻めをしなくてすむのだ。
それに、佐賀藩を始めとした九州諸藩が援軍を出してくれているので、ここで長谷川平蔵達が負けても何の問題もない。
出水麓から出て来た薩摩軍を、長谷川平蔵達が率いる先発軍、後続の九州諸藩軍で挟み撃ちにできる。
案の定、血の気の多い薩摩藩士が火の玉のような勢いで攻めかかって来た。
後続の九州諸藩軍が来る前に、長谷川平蔵達の軍、幕府軍の横腹を襲って来た。
太平の世に堕落した藩の軍だった、総崩れになったかもしれない。
そう思うくらい薩摩隼人の突撃は激しかった。
だが、熊本藩士は常に薩摩藩と戦う事を想定していた。
薩摩藩士がどれほど強いか、どの藩よりも良く知っていた。
だからこそ、薩摩藩士の激しい突撃を喰らっても崩れなかった。
崩れるどころか、薩摩藩が戦国時代に得意としていた釣り野伏せを逆に仕掛けた。
勢い余った薩摩藩出水軍は、簡単に釣り野伏せに引っかかった。
突出した気性の激しい薩摩藩士が取り囲まれ、次々と討ち取られていく。
薩摩軍は、動揺している所を、迂回して背後に出た立花軍に襲われる。
前後から攻撃された薩摩藩出水軍は、一瞬で軍の体裁を失った。
その場に止まって戦う者と逃げ出す者に分かれてしまった。
先を急ぐ長谷川平蔵達は、出水麓に閉じ籠った敗残兵を見逃した。
抑えの兵を置いて高尾野麓に向かった。
高尾野麓では、藩士の総意で籠城する事に決まっていた。
麓に幕府軍を張り付けておいて、島津軍主力が背後から襲い掛かって殲滅させるのが、薩摩藩島津家の基本的な戦略だった。
ところが、長谷川平蔵達もその程度の戦術は理解している。
シラス台地に築かれた廃城を囲むように武家屋敷を集めたのが麓だ。
損害を出しながら麓を占領したとしても、最後には廃城に籠られてしまう。
シラス台地独特の、最大一〇〇メートルの崖をよじ登って廃城を攻め落とそうとしたら、死傷する兵士が膨大な数になってしまう。
そんな無理などしなくても、無視して先に進めば、気性の激しい者が多い薩摩藩は、麓を出て攻めかかって来る。
それを迎え討って大きな損害を与えて、討って出る戦力も勇気も大きく削ってから、抑えの兵を置いて先に進んだ方が良いと考え、実際その通りになった。
高尾野麓が思っていた通りになったので、長谷川平蔵達は野田麓に向かった。
進軍の途中で陽が暮れたら、農民の家を接収して夜営した。
熊本藩領から野田麓に続く侵攻路にある農村は、行軍用に接収した。
幕府軍に抵抗する気概のある者は、武士農民に関わらず麓に籠城している。
幕府軍を恐れる女子供も、身を守るために麓に籠城している。
食料を含むあらゆる物資を持てるだけ持って麓に籠城している。
つまり、麓以外の家は空き家になっていたのだ。
そのお陰で、長谷川平蔵達は平民から直接奪う事なく家を接収できた。
軍令が行き届かず、陣借りの牢人や無頼の者、諸藩の悪人が女子供に乱暴狼藉を働くといった、家基に恥をかかせる悪行なく進軍できた。
家臣領民関係なく徳川幕府に強い敵愾心を持っている薩摩藩の御陰で、長谷川平蔵達は嫌な思いをしないですんだ。
「大目付津田日向守様、薩摩藩の正使が謁見を求めて参っております。いかがいたしましょうか?」
長谷川平蔵達を守ろうと、熊本藩細川家と柳川藩立花家の兵は、平蔵達の夜営地を中心に十重二十重の陣を敷いていた。
薩摩藩の優秀な忍者でも、その陣を全て突破する事はできない。
薩摩藩は、想定していたよりも簡単に麓を突破され、驚き慌てていた。
もっと幕府軍を翻弄できると思い込んでいた。
頑強に抵抗して、関ヶ原の時のように、本領安堵を手に入れられると思っていた。
自分達は日ノ本最強、幕府軍など、どれほど数がいても蹴散らせると思っていた。
思っていたからこそ、家基暗殺に力を貸していたし、抜荷にも手を出せた。
いずれ江戸に攻め込むと考えていたから、暗黒街に影響力を持とうとしていた。
だが、薩摩藩日ノ本最強の思い込みが、脆くも崩れ去ってしまった。
惰弱軟弱と誹っていた幕府軍に、立て続けに敗れてしまっていた。
幕府の大目付たちがいる軍だけでなく、大隅方面と日向方面からも、九州諸藩が領境を伺っているのだ。
家老達は、このままでは薩摩藩島津家が本当に滅んでしまうと恐怖した。
「良いぞ、会おう」
津田日向守は、長谷川平蔵と田沼大和守に目で合図して確認を取ってから答えた。
長谷川平蔵達がしばらく待っていると、立派な身なりの者達が、緊張に顔を引きつらせながら夜営地の庄屋屋敷にやって来た。
「この度の宣戦布告のない攻撃はどういう事でございますか!?」
薩摩藩の使者は、幕府の大目付に対する礼を取らなかった。
下手にでたら厳しい処分を受けると強気に出た。
ある程度の処罰は覚悟していたが、出来るだけ軽くするためには、強気に出た方が良いと間違った判断をしていた。
だからこそ、自分達がやって来た悪事を知りながら、それを惚けて長谷川平蔵達を攻める言葉を吐いた。
勝てないと判断して和議を求めたのに、先祖の成功体験を捨てられなかったのだ。
それが自分達の命を失う事になるとは毛頭思っていなかった。
次々と野戦で負け麓を無力化されている現実を、頭では理解していた。
だから和平交渉に来たのだが、心が納得していなかったのだ。
だから、ここまで来ているのに下手を打ってしまった。
「先に宣戦布告もなしに大納言様を殺そうとしたのはお前らだ!江戸の暗黒街を支配しようとして使っていた、浅草仙右衛門に大納言様を暗殺さようとしたのはどこのどいつだ!?武士の情けで言い訳を聞いてやろうと思ったが、そんな温情の必要のない恥知らず達だった。斬れ!斬って捨てよ!」
「なっ!おま、ぎゃあああああ」
薩摩藩の正使達は、その場を守っていた小姓組番衆に膾切りにされた。
犬狩りと試し切りを重ねていた番衆は、人殺しに対する畏れも躊躇いもなかった。
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