第15話:母性愛と権力
「上様、たっての御願いに参りました」
家治将軍はとても驚いていた。
これまでは表向きも内々も全く何のお願いもした事がなかった知保が、初めて正式に願い事があると頼んで来たからだ。
大奥の定めでは、正室であろうと側室であろうと関係なく、将軍に願い事をしてはいけない事になっている。
床入りの時に見張りの女官が付くのはその為だが、実際には色々な願いをしているし、代々の将軍も願いを叶えている。
大奥の上臈御年寄や御年寄が、表の老中が憚るほどの権力を持っているのも、将軍の威光があるからで、将軍が大奥の願いを聞き届けるからだ。
だから、将軍家に仕える女官として最大の手柄、世継ぎを生んだ知保には、家治将軍も田沼意次も、できる範囲の願いなら叶えなければいけない。
それなのに全く何も願い出ないから、家治将軍と田沼意次の方が気を使って、知保の実家である津田家の知行を五〇〇〇石まで引き上げ、西之丸付きの小姓番組頭に抜擢したくらいだ。
そんな知保が、正式な手続きを使って願いを届けて来た。
誰にも知られる形で、他に人がいる所で堂々と願い事をする。
よほどの無理難題を、絶対に断らせないようにするために、衆人の前で願い出る手法を使ったのかもしれないと、家治将軍と田沼意次が身構えるのも当然だった。
「私はこれまで実家の事で何もお願いをしてきませんでした。大奥に勤める女官として、定めを守らなければいけないと思っていたからでございます」
その言葉を聞いた田沼意次は、家基の生真面目で融通の利かない性格は、家治将軍からだけでなく、お知保の方の影響も大きいのだと思った。
「大納言様が身内を依怙贔屓するのを嫌がっておられたので、弟や甥を取立ててくれとは申しませんでした」
そうなのだ、生真面目な家基は、母の実家が五〇〇〇石の旗本に取立てられただけでも依怙贔屓をしたと考えていた。
そのせいか、叔父の津田日向守信之とは極力話をしないようにしていた。
小姓となった従弟の津田能登守信久とは親しくしないようにしていた。
旗本五〇〇〇石土井家に養嗣子として入った、津田日向守の次男、豊前守利國も西之丸の小姓となっているのに、親しく口を利く事がなかった。
「今回の件で、何があっても大納言様を守ってくれるのは、血のつながった親族だけなのだと思い知りました。名門譜代達が大納言様の事を蔑ろにしているのは、大納言様の命令を無視した事でも明らかでございます」
知保は、幕臣達が試し切りの命令を無視していた事を言った。
名門譜代が無視していた事を、誰も家基の耳に入れなかった事を言った。
次期将軍の命令よりも幕臣同士の繋がりを優先した事に、強い恐怖を感じたと、切々と訴えた。
「私が外様、それも豊臣に仕えた者の血が流れていると、蔑んでいるのです」
知保は、自分の血筋では、名門譜代が忠誠を尽くしてくれないと思い込んでしまっていた。
津田家は、知保の曾祖父の代みなって、ようやく将軍家に仕えた新参だった。
しかも高祖父は豊臣秀頼公に仕えていたのだ。
その高祖父は、大阪の役で討ち死にしていた。
残された高祖母は、徳川秀忠の正室、崇源院に仕えて家族を養った。
後に、徳川秀忠と崇源院の間に生まれた三女、勝姫に付けられた。
勝姫が松平越前守光長に嫁いだ時に、一緒に越前に向かった。
曾祖父の津田宇右衛門一英も、高祖母と一緒に越前に向かった。
幸いな事に、曾祖父は松平越前守に取立てられ、勝姫付きの家老に成れた。
勝姫付きの家老となれば、その知行や凜米は姫の化粧領か幕府から賄われる。
高祖母と曾祖父は、勝姫様に殉じて亡くなった。
残された祖父、津田内記可敬は幕府に戻る事になった。
徳川家綱に拝謁を賜り、凜米三〇〇俵の大番として幕臣に成れたのだ。
父親の津田宇右衛門信成の代になって、ようやく名門譜代が選ばれる書院番に成れたのだが、名門譜代からは蔑まれていた。
こんな血筋、外様では、名門譜代が家基に忠誠を尽くしてくれるはずがないと思い、家基が見殺しにされるのを想像してしまい、恐怖を感じていたのだ。
「大納言様の事を命懸けで守ってくれるのは、わずかな忠臣だけでした。津田家と土井家の力を強くしなければいけません」
知保は、家基と血の繋がる者、弟と二人の甥に加増してくれと頼んだ。
家治将軍も知保の願いは当然の事だと思ったので、即答した。
「分かった、今直ぐとはいかないが、出来るだけ早く大名に取立てよう」
家治将軍がそう言ったが、息子が殺されてしまうかもしれないと言う悪夢にうなされるようになった知保は、出来るだけ早くでは納得できなかった。
「今直ぐお願い致します。今なら大納言は大奥に入り浸っていて、上様が何をなされても気が付きません。どうか今の内に大納言様の親族に力をお与えください」
精神的にぎりぎりまで追い詰められている知保に、ほんの少しの時間であっても、待つ心の余裕などなく、必死の形相で訴えを重ねた。
そんな知保の初めての願いに、家治将軍も心を動かされた。
田沼意次もお知保の方の必死の願いを叶えてあげたくなった。
それに、大納言を守るためとは言え、田沼意次はお知保の方にお願いを聞いてもらっているから、礼を返さなければいけない立場だった。
「上様、大納言様が大奥に入り浸っておられるのなら良い機会でございます。奥はお知保の方と別式女が守ってくれます。表の警護は柳生親子が完璧に勤めてくれます」
田沼意次は、津田日向守、津田能登守、土井豊前守の三人が揃って大手柄を立てられる方法を献策した。
三人を、浅草仙右衛門を追っている長谷川平蔵の応援に送るのだ。
津田日向守は、西之丸小姓組番頭のまま西之丸大目付を兼帯させて、権力と兵力を与えて長崎に送るのだ。
西之丸小姓の津田能登守と土井豊前守は、小姓のまま西之丸目付を兼帯させる。
大目付にした津田日向守には長崎周辺の大名を調べさせる。
長谷川平蔵が必要だと言えば九州の大名を処分させる。
目付にした津田能登守と土井豊前守に、長崎奉行所の幕臣と地方役人を調べさせ、
長谷川平蔵が必要だと言えば、斬首刑を含む処罰をさせる。
必要な兵力と人材は、津田日向守配下の小姓組番衆を使う。
ただ、どんな場合でも自分の力を確保する事を忘れないのが田沼意次だ。
田沼意次は、力がなければ何もできない事を良く知っているのだ。
家治将軍を守り、家治将軍の願いを叶えるためには、自分が剣となり盾とならなければいけない事を、田沼意次は誰よりも知っていた。
「上様、小姓組番衆だけでは勘定の吟味が不十分になります、我が家臣には勘定に優れた者が数多くおります。愚息も御側御用取次のまま西之丸大目付を兼帯させ、長崎に送ってください」
田沼意次はこの機会を利用して、愛息に経験を積ませ手柄を立てさせようとした。
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