第12話:反省と愛情
若い家基は、どうしても反抗的な言動をしてしまう。
本当は心から愛している父親にすら、素直に頷けない。
長谷川平蔵と柳生玄馬は、これまで通りの役目を続けさせると言ってしまった。
口にしてしまってから深く反省して、後の提案は全て受け入れた。
まだ完全には認めていない田沼意次、その長男を御側御用取次として受け入れたのも、心から愛し心配してくれる父親に反抗的な言動を取ってしまった御詫びだった。
一番尊敬する徳川家康が、徳川秀忠との関係が上手くいくように、本多親子を使った事を言われたら、断りようがなかった事もある。
それに、家基も田沼意次を見直していたのだ。
家基が心から信頼できると思うようになった、長谷川平蔵を見出して西之丸書院番にしたのが田沼意次なので、意次にも良い所があるのだと思えるようになっていた。
ただ流石に、田沼意次の家老を勤める男の娘を、中臈をして迎えろと言われたのには文句を言いかけた。
文句を言いかけたが、家治将軍から本丸大奥に一橋と島津から送り込まれた女中がいる事を話されたのだ。
家治将軍が心から愛していた倫子女王、信頼していた上臈御年寄の松島局、慈しんでいた次女の万寿姫が次々と亡くなり、この夏には亡き弟貞次郎の実母まで亡くなった事を切々と話されたのだ。
その全てに、一橋と島津が送り込んだ玉沢が係わっているかもしれないと、怒りを滲ませて言われたのだ。
そこまで言われると、家基も深雪の西之丸大奥入りを拒否できなかった。
深雪はただの娘ではなく、家基が大奥に入った時の護衛だと言われたからだ。
最初は、女なんかに守られなければいけない自分ではないと言った。
ところが、即座に柳生播磨守の弟子でかなりの使い手だと聞かされてしまった。
しかも家基の姉弟子にあたり、嫁に行かずに剣一筋に生きていきたいから、大奥に入りたいという願いまで聞かされると、無碍に断る事ができなくなった。
女が結婚もせずに生きていく道は、とても少なく限られている。
その限られた道の中でも、剣の道で生きて行くのは、特に狭く険しい。
女が剣で生きて行こうと思うと、別式女とか刀腰婦、帯剣と呼ばれる、幕府や諸藩の大奥で武芸指南をする道しかなかった。
師匠の柳生播磨守にそう言われると、受け入れるしかなかった。
家基はため息をつきたい気分で深雪の西之丸大奥入りを認めた。
深雪が西之丸大奥に入ってからは、大奥に近づかないようにした。
若さからの意地があって、田沼意次の思い通りにはなりたくなかった。
いや、家基が気にしていたのは田沼意次だけではなかった。
田沼意次以外にも、諸大名や幕臣、大奥女官の目も気にしていた。
新しい中臈が入ったからと、顔を見に行ったと思われたくなかった。
何よりも、只一人の女性と決めている。閑院宮家の孝宮に対する想いがあった。
毎日京の閑院宮家に送っている孝宮への恋文が、家基の想いを支えていた。
毎日ではないが、孝宮から届く文も家基に勇気を与えてくれていた。
だが、ほぼ毎日顔を見せていた実の母に、ずっと会わないのも問題があった。
色んな思いに悩みながら、七日間は大奥に近づかなかったのだが、実母から会いたいと使者が来ては、何時までも意地を張る事もできなくなり大奥に渡る事になった。
家基が実母の部屋に挨拶に行くと、そこには田沼意次が送り込んだ深雪がいた。
お知保の方は、田沼意次と松島局の御陰で家治将軍の中臈に成れた。
家治将軍に愛されず、子供を産むためだけに抱かれたが、世継ぎを生む事ができて、御腹様という高い身分と成れたばかりか、実家の兄弟姉妹も立身出世できた。
だから田沼意次には、心から恩を感じていた。
しかもそれだけではなく、もう一人の恩人である松島局が、家基を狙った敵に殺されたかもしれないと言うのだ。
どちらが世継ぎを生むか競争していた養蓮院まで殺されたかもしれないと言う。
それどころか、倫子女王殿下がお産みになられた、万寿姫様まで一橋治済一派に殺されたかもしれないと言うのだ。
確証はないが、黒幕は一橋と島津で、西之丸大奥にも刺客いるかもしれないと言われたのだ。
お知保の方は、弟の養女を大奥に入れたりして家基の守りを固めていたが、このままでは掌中の珠である家基が殺されてしまうかもしれないという不安が強くなった。
そんな状況で、危険だから信頼できる守り手を送ると田沼意次が言ってくれたのだ、喜んで迎えるのは当然だった。
しかも愛息を守ってくれた長谷川平蔵の養女になってから来ると聞いていたので、心待ちにするくらい期待していた。
実際に会って詳しく話を聞くと、女ながら幼い頃から剣の修業に励み、柳生播磨守から新陰流を学んでいると言う。
だからといって鬼のような容姿ではなく、匂い立つような美女だった。
しかも内々に打ち明けてくれた話では、田沼意次の隠し子で、家治将軍がお知保の方を側室にするかわり、田沼意次も新しい側室を持った時にできた娘だという。
そんな深い縁を聞いて、一気に愛情が膨れ上がったお知保の方は、生まれて初めて娘を得たような気がした。
弟の津田日向守信之の養女となった子を大奥に迎えた時も、実の娘のように可愛いと思ったが、その時とは比較にならないくらい愛おしく感じた。
血のつながらない弟の養女と、魂の繋がった娘とでは比べようがなかった
だからなかなか会いに来ない愛息に苛立たしさを感じた。
愛しているからこそ、これだけ周りから大切にされているのを理解していない息子を腹立たしく感じた。
とは言えそんな苛立ちは愛情の裏返し、直ぐに愛情の方が勝る。
だからこそ、切々を心からの愛情を訴えて家基を西之丸大奥に呼べたのだ。
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