第11話:魔の手

 話は戻って家治将軍の家基説得だが、家治将軍は家基を溺愛していたから、涙を流さんばかりに切々と愛情を訴えて説得した。


「家基、お前まで余を残して死ぬつもりか?!」


 家基も、次姉の万寿姫が亡くなった時に父がどれほど嘆き悲しんだか知っていた。

 表面上は涙を流さなかった、心の中で慟哭しているのを知っていた。

 だから、本当は父の願いを全て受け入れたかった。


 どれほど『全て父上の言う通りにします』と言いかけたか分からない。

 それなのに、若さが故に反発してしまう。

 良い将軍に成りたい思い、理想に執着してしまう気持ちを優先してしまった。


「それはできません。浅草仙右衛門を追い詰めている長谷川平蔵は戻せません。柳生玄馬にも幕臣を叩き直させています。とても戻す事はできません。ですが……」


 田沼意次の想像していた通りになった。

 柳生播磨守が西之丸留守居二〇〇〇石となり、常に家基の側にいる事になった。


 とはいえ、柳生新陰流の天才柳生播磨守といえども、朝も昼も夜も飲まず食わずで、眠る間もなく家基を守る事などできない。


 だから交代要員として、八〇〇石の旗本、高尾家に養子に入った次男の孫兵衛信喜を、西之丸留守居番五〇〇石を新設して就任させた。


 五一〇石の旗本、美濃部家に養子に入った三男の内膳茂孫も、次男と同じ西之丸留守居番となり、父を助けて家基の警護をする事になった。


 ただ、男だけでは家基が西之丸の大奥に入った時について行けない。

 家治将軍は、西之丸大奥は家基の実母であるお知保の方が権力を握っているから、大丈夫だと油断しているようだった。


 だが、田沼意次と共に家治将軍を支えていた、本丸大奥上臈御年寄の松島局が安永二年に亡くなっているのだが、同じ年に万寿姫も亡くなっている。


 その前年、安永元年には家治将軍の正室である倫子女王が亡くなっている。

 これまでは偶然だと思っていた田沼意次も、家基が直接狙われて気が付いたのだ。


 余りにも都合よく家治将軍の子供が絶えるように動いていると思い直した。

 大奥には一橋と島津の後押しを受けている者がいる、そう疑って調べた。

 明らかに疑わしい奥女中が幾人もいた。


 特に疑わしかったのが、どう考えても将軍の座を狙っているとし思えない一橋治済と、徳川吉宗の養女として島津継豊に嫁いだ浄岸院が手を組んで送り込んだ、玉沢という奥女中だった。


 田沼意次は家治将軍に献策して、疑わしい本丸奥女中を全て召し放った。

 西之丸大奥でも、一橋と島津の手先を見つけ出しては召し放ちたかった。

 娘の深雪を西之丸大奥に入れて家基を直接守りたかった。


 ここまでは純粋に家基を心配しての事だが、欲と抱き合わせた推薦もあった。

 長男である意知を家基の側近として西之丸に送り込んだのだ。


 大名の嫡男、それも現役老中の嫡男が役に就く事は珍しい。

 親子で幕府の役職に就くと、その分誰かが役に就けなくなるので敵視されるのだ。


 だからよほどの事がないと、見習以外での親子同時出仕は減っていた。

 だが、本丸と西之丸に分かれての出仕なら何の問題もない。


 本多正信と本多正純の親子のように、大御所と将軍、将軍と世継ぎの間が上手くいくように、親子で仕える前例があった。


 以前は家基が田沼意次を嫌っていたので、やりたくてもできなかった。

 もしやるとしたら、批判を覚悟しいて意知を本丸の役に就けるしかなかった。


 だが親子で高い役目に就くと、それでなくとも敵視されている名門譜代に増悪されるのが分かっていた。


 数多くの幕臣を敵に回すからやりたくはないが、少しでも先の見える者には、やらなければいけない理由があった。


 若い時から幕府の役に就いておかないと、経験が積めず実力がつかないのだ。

 無能な名門譜代の増悪を買ってでも、幕府のために意知を役に就けるか悩んでいた時に、絶好の機会が巡て来たのだ。


 家基が意知を受け入れてくれれば、言い訳の立つ親子同時出仕ができる。

 次代の幕閣を成す者達に、少しずつ権力を移譲する事ができる。


 代々行われてきたように、西之丸の大御所と本丸の将軍、或いは本丸の将軍と西之丸の次期将軍、そんな二重体制で盤石な統治ができる。

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