第10話:抜け荷
江戸で家基が札差相手に強権を発動していた頃、長谷川平蔵は新潟湊にいた。
浅草仙右衛門はもちろん、手を貸していた新潟商人も捕らえる為だ。
一般的な抜け荷は、越後沖ではなく九州で行われていた。
九州各地で、日本の船主が清国の唐船と密貿易を行っていた。
無人島、人のいない海岸、船が近寄らない沖合で密貿易を繰り返していた。
唐物の代償が、金銀財宝や俵物なら長谷川平蔵もむきにはならなかった。
浅草仙右衛門が抜荷の代価にしたのが、人間だったから激怒したのだ。
長谷川平蔵は、火付け盗賊改めの権限を最大限利用して、越後長岡藩に領内の取り調べを認めさせた。
取り調べの対象は、商人や船頭だけでなく長岡藩の役人にも及んでいた。
普通なら大名家の名誉にかけて強く抗議する所なのだが、長岡藩は全く抗議しなかった、いや、できなかった。
長岡藩には幕閣にも知られた名家老、山本老迂斎がいた。
江戸には山本老迂斎の盟友である高野常道がいて、主君牧野備前守を支えていた。
山本老迂斎は高野常道の手紙から、大納言家基を襲った一味の探索を邪魔する事は、主君の切腹と改易につながると判断したのだ。
だから抗議ではなく協力をしたのだが、それが長岡藩を改易から救った。
長谷川平蔵が、長岡藩の新潟湊役人が不正をしている事を次々とあばいていった。
その多くが抜荷を見逃す事で得た財貨を隠すための帳簿操作だった。
もし捜査に協力せず、邪魔するような抗議をしていたら、藩が進んで抜荷をしていたと思われ、主君の切腹や藩の改易もありえたのだ。
ただその帳簿操作は、名家老と呼ばれる山本老迂斎でも見つけられない、とても巧妙な物だった。
絶妙な細工で数字を誤魔化していたのだ。
それなのに、急に来てさっと見ただけの火付け盗賊改めの与力同心が、普通なら絶対に見つからないような細かな数字の違いを的確に見つけ出していた。
長谷川平蔵や与力同心にそのような算術の能力があった訳ではない。
先祖代々草として新潟湊に住み着いている柘植の下忍が、何所でどのような不正が行われているかを、具体的に教えてくれたのだ。
多数の有能な草が、そこまで情報を集めていたのには理由があった。
後に北前船と言われる蝦夷と大阪を結ぶ弁財船によって、新潟湊は栄えていた。
多くの商家が立ち並ぶ中に、御定法を破ってでも利益を得ようとする者がいた。
莫大な富を蓄えていただけでなく、柘植松之丞と敵対している浅草仙右衛門と、協力関係にあったのだ。
柘植松之丞は、江戸の暗黒街を完全に支配するために下忍を送り込んでいたのだ。
それと、単に殺すだけでなく、莫大な富を盗む気でいた。
だから柘植の下忍は、新潟湊の商家や豪農の家に盗みに入るのに、役人の不正を利用する事まで考えていたので、詳しく調べていたのだ。
商家や豪農を柘植松之丞の舐役が調べるだけでなく、草を兼ねた引き込みを新潟湊の商家や豪農の家に送り込んでいた。
引き込みの中には、妻や夫を持ち、子供までもうけている者がいた。
単なる盗賊の舐役ではできない、忍者の草だからできる、子々孫々に与えられた役目として、新潟湊の商家や豪農の家に入り込んでいた。
「御頭、この商家に浅草仙右衛門の手先が匿われております」
引き込みが長谷川平蔵に浅草仙右衛門の潜伏先を教えた。
抜荷商人の屋敷の前に、長谷川平蔵と二人の同心がいた。
抜荷に関係する新潟商人の店舗兼用の屋敷だった。
新潟湊では、六つもの商家が抜荷に手を染めており、一家だけ先に捕縛に入ると、他の五家が証拠を消すだけでなく、浅草仙右衛門を逃がしてしまうかもしれない。
引き込みも、十割の自信があって浅草仙右衛門だと言っているわけではない。
浅草仙右衛門を名乗っている六人の内で、一番確率が高い奴だと言っているだけだった。
「一人も逃がすな、手向かうものは斬って捨てよ!」
火付け盗賊改め方の同心が、商家の表戸を叩き壊して押し入った。
完全に不意を突く事ができたので、裏の事情を何も知らない丁稚や下男下女が、慌て騒いでいた。
人が悪事に加担している事を知っている番頭や手代は、顔面蒼白となって逃げようとしたが、与力同心に叩きのめされて身動きできなくなる。
奥にいた主人は裏口から逃げようとしたが、裏口からも、与力一人と同心二人が誰一人逃がさない覚悟で討ち入って来る。
「しゃらくせぇ、捕まえられるものなら捕まえてみやがれ!」
逃げられないと覚悟を決めた浅草仙右衛門が、大刀を中段に構えて逆襲してきた。
浅草仙右衛門を守るように四人の男が向かってくる。
五人が狙ったのは長谷川平蔵だった。
ただ一人、与力同心とは明らかに違う、身分の高い装束をしいていたからだ。
悪党の執念なのか、身分の高い武士を道連れにしようとした。
浅草仙右衛門は、それなりに剣の稽古をしたと思われる姿だった。
他の四人は、多少は道場で鍛えたように見える程度だった。
ただ、度胸だけは腑抜けた幕臣よりもあった。
誰かが斬られても構わない覚悟と勢いで、生き残った者が長谷川平蔵を斬れればいいという勢いで、襲い掛かってきた。
浅草仙右衛門も、四人の配下から僅かに遅れて突きを入れて来た。
どれほど名の知れた剣客でも、先に襲って来た四人を斬り倒した後では、浅草仙右衛門を斃せない、逆に斬られると思えた。
だが、長谷川平蔵が編み出した歩法は変幻自在で敵を幻惑する。
流れるように動いて敵を返り討ちにする。
江戸の拠点を急襲した時に比べて、浅草仙右衛門一味は人数が少な過ぎた。
もう少し人数がいれば、腕利きが十人いれば、長谷川平蔵を斬れたかもしれない。
「御頭、人相書きと違います!」
長谷川平蔵が討ち入ったのは、浅草仙右衛門が潜伏している可能性が一番高い商家だったが、残念ながら本人ではなかった。
そこにいたのは浅草仙右衛門を名乗る影武者だった。
長年商家に入り込んでいる腕利きの下忍でも、食事の時以外は常に宗十郎頭巾をかぶっているので、確認のしようがなかった。
何より、匿っている商家の主人自身が浅草仙右衛門だと信じていたのだ。
六商家の当主全員が、自分が匿っている男こそ本物の浅草仙右衛門だと、信じていたのだ。
使用人に影武者だと見抜けるわけがなかった。
残念なことに、六カ所の商家の何処にも浅草仙右衛門はいなかった。
人相書きに少し似た男もいたが、犬狩りのために赤城山にいた長谷川平蔵に知らせを届けに来た柘植松之丞の伝令が、浅草仙右衛門ではないと断言した。
柘植松之丞は、浅草仙右衛門の顔を知っている配下を平蔵につけてくれたのだ。
新潟湊に浅草仙右衛門がいると知らせを受けた柘植松之丞も、憶病かと思われるくらい慎重な仙右衛門が、何時までも新潟にいるとは思っていなかった。
長年対立してきたので、浅草仙右衛門は柘植松之丞の実力を知っている。
落ち目になった仙右衛門を、松之丞が見逃すとは思わないはずだと考えていた。
十中八九、江戸から遠く離れた場所まで逃げていると思っていた。
とはいえ、何かの事情で新潟を離れられない可能性も皆無ではなかった。
だから、仙右衛門が新潟にいるという知らせを受けて直ぐに平蔵に知らせたのだ。
それと、家基を操るのに邪魔な平蔵を江戸から遠ざけようとしたのもあった。
「知っている事は全て話せ!」
長谷川平蔵は、長岡藩の奉行所を借りて、捕らえた連中に激しい拷問を加えた。
普通なら、老中の許可を貰わなければ拷問はできない。
だが今回の事件は、大納言家基に対する暗殺未遂事件なのだ。
取り調べの邪魔をするような事があれば、家治将軍の逆鱗に触れる。
いや、その前に家基から厳しい罰を受ける事になる。
そんな家基の行動を、家治将軍が追認するのは誰の目にも明らかだった。
だからこそ、長岡藩の家老山本老迂斎は、唯々諾々と長谷川平蔵に従うのだ。
家基暗殺未遂事件の協力者が領内の商人だったのだ。
その商人から賄賂を受け取っていた藩士が、抜荷に加担していたのだ。
僅かでも庇っていると思われたら、主君が斬首される恐れがある。
山本老迂斎は、藩士全員に火付け盗賊改めに全面協力するように命じた。
武士の誇りを踏みにじられるような事があっても、唯々諾々と従えと命じた。
少しでも頭の働く者はその指示に従った。
ところが、まだ悪事が露見していない藩士が数多くいたのだ。
柘植松之丞が下忍を引き込みに入れていたのは、とても豊かな商家か豪農だけだったので、悪徳役人を全て把握している訳ではなかった。
把握していたのは、自分と敵対していた浅草仙右衛門の抜荷に関係していた商人と豪農だけだった、彼らから賄賂を受け取っていた悪徳役人だけだった。
なので、浅草仙右衛門一味から賄賂を受け取っていない、まだ捕らえられていない悪徳役人が、長谷川平蔵を恐れて逐電した。
「捕らえよ、地の果てまで追いかけてでも捕らえるのだ!」
何としてでも主君と藩を守りたい家老の山本老迂斎は、動かせる藩士を総動員して逐電した悪徳役人を追わせた。
長谷川平蔵は、山本老迂斎を始めとした長岡藩士を哀れに思った。
表向き怒り易く、安祥譜代まで平気で斬首する次期将軍の逆鱗に触れそうなのだ。
山本老迂斎を始めとした長岡藩士が慌てふためく気持ちは良く分かった。
ただ、長谷川平蔵自身は、家基を恐ろしいとは思った事は一度もない。
むしろ超箱入り息子で操り易いと思っていた。
できる事ならずっと側近くに仕えて、柳沢吉保や田沼意次のような立身出世をしたいと思っていた。
そのためには、何としてでも浅草仙右衛門を捕らえないといけない。
だから長岡藩も利用できるだけ利用する気でいた。
長岡藩が逃げた悪徳役人を追ってくれれば、自分達は浅草仙右衛門を追いかけられると割り切った。
藩への処罰を逃れたい山本老迂斎は、どのような依頼も命令も聞いてくれる。
それが例え藩士を総動員して浅草仙右衛門を追えと言うものであってもだ。
長谷川平蔵は、江戸と違って使える手先が少ないので、頭を下げる事も高飛車に命じる事もなく長岡藩士を使えるなら、山本老迂斎を利用し続ける気でいた。
話は長岡藩の奉行所に戻って、長谷川平蔵は自ら激しい拷問を行っていた。
「ギャアアアアア」
「吐け、浅草仙右衛門が何所にいるか吐くのだ!」
捕縛には最後まで抵抗していた浅草仙右衛門一味だが、中には殺される事なく力尽きて捕らえられる者がいて、もう殺してくださいと哀願するほどの拷問を繰り返されていた。
地獄の責め苦のような拷問を受けたのは、浅草仙右衛門一味だけではなかった。
新潟湊で抜荷に加担していた、大商家の主人はもちろん、手先となっていた番頭や手代も同じように拷問された。
更に賄賂を受け取っていた長岡藩新潟湊の役人も拷問された。
三下に近い浅草仙右衛門一味はほとんど何も知らなかった。
だが、新潟湊の大商人や番頭は、多くの情報を持っていた。
悪事に加担していても、大商家の主人と番頭だ。
それも、後に北前船と呼ばれる蝦夷から大阪を行き交う弁財船を何艘も使うような、商才と度胸のある者達だ。
彼らはいざという時のために、浅草仙右衛門の弱みを握っていたのだ。
江戸、新潟湊以外の隠れ家を探り、何かあったら交渉の材料としようとしていた。
他にも、浅草仙右衛門の大切な者、家族を何処に住まわせているのかまで調べさせていたのだが、その全てを、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問で白状させられた。
「浅草仙右衛門は長崎にいる。我らも長崎に行くぞ!」
長谷川平蔵は、浅草仙右衛門一味に加担していた大商人の弁財船を接収した。
多くの船は航海中だったが、偶然一艘だけ新潟湊に停泊していた。
その弁財船と長岡藩の御用船を使って、長崎に向かった。
長岡藩は唯々諾々と多くの藩士を助太刀につけてくれた。
新潟商人の弁財船と長岡藩の助太刀を手に入れた長谷川平蔵が、配下を率いて長崎についた頃、江戸では家基を巡って新たな出来事が始まっていた。
ちなみに、新潟湊の商人の家屋敷と金銀財宝も幕府に収公された。
家基が主導して行われた、、江戸の札差はもちろん商人金主と僧神官金主の裁きは、斬首となっていた。
公家金主の処分は島流しと決まり、猿屋町に旗本御家人の年貢米や凜米を担保に金を貸す、勘定奉行所の出先機関を作った頃には、夏の盛りも終わっていた。
「上様、今のままでは大納言様が危険でございます」
田沼意次が意を決して家治将軍に訴えた。
「なに、家基を襲った者は越後にいるのではないのか?」
「上様、走狗の事を申しているのではありません。大納言の御命を狙うと言う事は、将軍の座に届く所にいる者の仕業でございます。誰がやらせたのか、本当の黒幕が誰なのか、御分かりのはずです!」
「……凡その見当はついているが、確証はない」
「このまま座して手を打たないでいると、万寿姫様のように殺されてしまいますぞ」
「なに、万寿が民部卿に殺されたと申すのか?!」
「上様と我らが有徳院殿公の御遺言に従い、田安と一橋を明屋形のしようとしているのを逆恨みしただけでなく、至高の座を狙っているとしか思えません!万寿姫様が尾張家に輿入れしてしまったら、大納言様を弑い奉っても至高の座は手に入らなくなります、だから先に弑逆されたとしか思えません」
「確かに疑わしいが、だからといって、疑わしいだけでは民部卿を処罰できん。それに、家基の力は日々強くなっているぞ」
「それが危険なのでございます。大納言様は安祥譜代を含む多くの譜代旗本を斬首にされてしまわれました。民部卿様が名門譜代と手を結んでしまったら、大納言様の身辺を守り切れなくなってしまいます」
「ならば余にどうしろと申すのだ?」
「大納言様の盾となる者を西之丸に増やしてください。大納言様の御下知で浅草仙右衛門を追っている、長谷川平蔵を呼び戻してください。大納言様を説得して、西之丸に御庭番を送り込んでください」
「う~む、そうしたい気持ちはあるが、平蔵を呼び戻すのも御庭番を側に置くのも、家基が素直に聞くとは思えぬ」
「ではせめて柳生玄馬を側衆にして、常に大納言様を守れるようにしてください!」
「あれもなぁ、犬狩りの検分をさせているからなぁ」
「上様は本当に大納言様を大切に思っておられるのですか?!」
「なに、余の家基への愛情を疑うのか?!」
「甘やかすだけが愛情ではございません!甘やかしたために殺されてしまったらどうなされるお心算ですか!?その時に民部卿を殺されても遅いのですよ!」
「分かった、従うかどうかは分からぬが、厳しく命じる。何なら余の名代としてお前が家基を説得すればいい」
「説得くらい何時でも何度でもやらせていただきますが、まずは上様が愛情から説得してください、お願いいたします」
「分かった、余の家基に対する愛情に嘘偽りはない。父親として説得する。だがそれでも家基が言う事を聞かなかったらどうする?」
「では、大納言様も喜んで側に置いてくださる、柳生播磨守を西之丸付きにしてください。播磨守の次男高尾孫兵衛と三男の美濃部内膳も西之丸付きにしてください!それと臣が推薦した者を大奥と中奥に送ってください!」
田沼意次は、最近の家基の言動を見て心配で仕方がなかった。
実は、心の中では家基の事を自分の子供のように可愛く思っていたのだ。
それだけの曰く因縁が家基と田沼意次の間には有った。
家基は、意次が家治将軍に厳しく諫言して、ようやく側室を置いてもらったから生まれたのだ。
その側室も、田沼意次が大奥で権力を持つ松島局と相談して決めた娘だ。
田沼意次自身も、家治将軍から『意次も同じように側室を持て』と言われて五男と七女に恵まれていた。
流石にこのような事情で因縁のできた五男と七女を、実子として育てる訳にはいかなかったが、心から愛していた。
曰く因縁を言い立てれば、将軍の子供と魂の兄弟姉妹と取られかねないから、泣く泣く家臣に預けただけだ。
五男の松三郎は幼いうちに亡くなったから、実子として表に出して弔ったが、すくすくと元気に育った七女の深雪は、表向きは家臣の子供としていた。
深雪は田沼意次の家老、倉見金太夫の娘として育てられていた。
倉見金太夫の正室は、主君田沼意次の側室の姉になる。
順を追って言えば、倉見金太夫が主君田沼意次の縁を使って、紀伊徳川家江戸詰め八〇石片桐市太夫の長女、早霧を正室に迎えたのだ。
それから二年経った頃、家治将軍に後継者を作れと諫言した田沼意次が、家治将軍の逆襲で自分も新しい側室を迎えて子供を作らなければいけなくなった。
その話を倉見金太夫から聞いた片桐市太夫は、この好機を生かして田沼意次と縁続きになろうと、次女陽炎を側室に送り込んだのだ。
結局生まれた子供、田沼意次の七女深雪は倉見金太夫の娘にされた。
娘達から真実を知らされっていない片桐市太夫は、酷い親だったのだろう。
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