第7話:犬狩り
町奉行所と寺社奉行所の汚濁役人を囮に使うと決めてから二十日後、家治将軍から許可を取った家基が指示を出し、捕り方が一斉に動いた。
当分加役を加えて三つになった火付け盗賊改め方だけでなく、西之丸付きの御先手鉄砲組が三組、御先手弓組が二組、小十人組が一組、書院番が一組、新番が一組、小姓組番が一組、更に非番の番方に一味を捕らえるように命じていた。
西之丸付の番方は、僅かな期間に数多くの流鏑馬と犬追を行って競い合い、互いを知る機会があった。
特に御先手組同士では、将軍家の親衛隊と言える両番や新番小十人組への対抗意識が強くなっており、自分達だけで一味を捕らえると強く決意していた。
一方、両番や新番の番衆は、半数以上がやる気のない連中だった。
名門旗本の自分達が、不浄な罪人を捕らえるなど、恥だと思っている者が半数以上もいたのだ。
ただ、同じ親衛隊でも一番不遇な小十人組の番衆は、この機会を利用して出世したいと心から思っていた。
両番に比べて出世の機会が少ない小十人組の番衆には、降って湧いたような功名の機会で、再びこのような機会が訪れるとは思えなかったのだ。
千住宿に近い浅草にある金龍山浅草寺、板橋宿近くの巣鴨にある王子稲荷社、新宿近くの大久保にある自證院瘤寺、品川宿近くの芝高輪辺にある万松院東海寺、それぞれの門前町にある旅籠が浅草仙右衛門一味の拠点だった。
実際に拠点に攻め込むのは、火付け盗賊改め方を命じられた三組と、家基から特別に声をかけられた御頭がいる御先手組だ。
将軍家の親衛隊である四つの番方には、拠点を遠巻きにして逃げて来る一味を捕らえる役目が与えられていた。
「火付け盗賊改め方である、神妙にせよ」
歌舞伎のように見栄を張った訳ではないが、火付け盗賊改め方の長官が浅草仙右衛門一味に降伏を勧告する。
四つの拠点の何所に浅草仙右衛門と日吉権十郎がいるか分からないので、できるだけ生きたまま捕らえる事になっていた。
家基は、抜け荷の首謀者がオランダなのか清国なのか確かめたかったのだ。
もし首謀者がオランダなら、長崎での交易を取り止めても良いと思っていた。
有利な交易ができるなら、イギリスやスペインに変えても良いと思っていた。
そのためにも、できる事なら生きて浅草仙右衛門を捕らえたかった。
「やっちまえ!」
「「「「「おう!」」」」」
降伏勧告は完全に無視された。
浅草仙右衛門一味は何の躊躇いもなく一斉に斬りかかって来た。
江戸の裏社会、暗黒街で命懸けの切った張ったを繰り返してきた者達だ。
腑抜けた幕臣が、犬猫すら殺した事がないのに比べて、何人もの人間を殺して生き延びてきた、殺人を躊躇わない者達だ。
火付け盗賊改め方として、何度も命懸けの現場に立ち会った同心なら、躊躇わずに人間を斬れる者もいるが、多くの幕臣は、実際に人を斬る時には一瞬の迷いが出る。
その遅れが、常在戦場のような暗黒街の連中にとっては十分な時間になる。
家基の命で、長谷川平蔵が検分している金龍山浅草寺と、柳生玄馬が検分している王子稲荷社は、威令が行き届いているので一味を逃がさなかった。
だが、自證院瘤寺と万松院東海寺の拠点は違った。
実際に拠点に飛び込む火付け盗賊改め方と、逃げ出した一味を捕らえるために包囲する親衛隊の連携が取れていなかった。
頭と与頭は、家基直々に命令を受けているのでやる気になっていたが、番士の半数以上は全くやる気がなかった。
家基がやらせたと思っていた、試し切りと犬追物も、何かと理由をつけてさぼっていた、どうしようもない連中だった。
そんな連中に、人殺しを躊躇わない悪党を捕らえられるわけがなかったのだ。
浅草仙右衛門一味の多くが、火付け盗賊改め方と先手組の捕り方を抜け、拠点の旅籠から通りに出て暴れ出す。
「ギャアアアアア」
そこにいる腑抜けた親衛隊の番士を、瞬きするほどの間で斬り殺す。
徒士の新番と小十人組の番衆は、何とか斬り結ぶ事ができたが、馬上で余裕を見せていた両番の連中は、脚を斬られたり手綱を斬られたりした。
町民の犯罪者など相手にもならないと舐め切っていた番衆には、脚を斬られて落馬する者、手綱を斬られて落馬する者、恐怖の余り馬首を返して逃げる者がいた。
そんな情けない姿を見た浅草仙右衛門一味は、最初から示し合わせていたかのように、一目散に包囲の輪から抜け出して散り散りに逃げる。
幕臣達は大混乱して、とても一味を追いかけられる状況ではなかった。
「やっちまえ!」
「「「「「おう!」」」」」
金竜山浅草寺でも、浅草仙右衛門一味が逃げようと暴れ回った。
浅草仙右衛門がいると思われていたのが、仙右衛門の通り名にもなっている金龍山浅草寺だった。
だから家基は、最も信頼する長谷川平蔵を検分役として送っていた。
「また大男かよ」
その長谷川平蔵があきれて声を出してしまうような敵が現れた。
瓢箪屋事件の熊五郎ほどではないが、六尺五寸はありそうな男が手向かってきた。
それも、熊五郎のような丸太が獲物ではなかった。
武士でも携帯するのを禁止されている、戦道具を縦横無尽に振り回しているのだ。
幕府は、平民が携帯して良い刀を、二尺未満と定めた大脇差までとしている。
武士に対しても、大刀で二尺三寸五分、小刀で一尺六寸と定めていた。
それ以上の薙刀や野太刀の携帯を厳しく禁じていた。
今暴れている大男が振りまわしているのは、武士でも禁止されている戦道具、大薙刀だった。
「俺様は浅草仙右衛門の子分。虎三郎様だ!」
自分を大物に見せたいのか、何度も名乗りを上げながら大薙刀を振り回す。
刀身が六尺、柄が一丈という非常識極まりない大薙刀を振り回している。
同心の一人が、脛を狙った一撃を刀で受けたが、刀をへし折られてしまった。
そのまま脛当てを払われ、脛がくの字に折れ曲がってしまった。
「長谷川平蔵だ、素直にお縄を受けるなら命だけは助けてやる」
長谷川平蔵は、虎三郎に狙われている同心を助けようと声をかけた。
「しゃらくせぇ、そんな言葉は俺様を斃してから言いやがれ!」
同心を殺す寸前まで追い込んでいた虎三郎が、怒りに燃えて襲いかかって来た。
大薙刀をビュウ、ビュウと唸りを上げるくらいの勢いで振り回している。
普通に刀で受けてしまったら、間違いなく刀の方がへし折られてしまう。
それが分かっている長谷川平蔵は、大薙刀を避ける事だけに集中していた。
一度二度三度、必殺の一撃を避けられた虎三郎はどんどん興奮していった。
それでなくても急に襲撃されて心が動転していたのだ。
何人もの与力同心を大薙刀で斬って気分が高揚して来ていたのだ。
自分は無敵だと思っていたところに邪魔が入り、必殺の一撃を躱され続ける。
冷静に考えられなくなるのもしかたがなかった。
何としてでも目の前にいる小癪な役人を斬る。
そう決意して大きく踏み込んだのが間違いだった。
相手が並みの武士なら苦も無く斬り殺せただろう。
だが、長谷川平蔵は並の武士ではなかった。
家基の剣術指南役に選ばれた柳生玄馬を凌ぐほどの使い手だった。
独自に編み出した歩法、長谷川流歩法は初見殺しに最適だった。
しかも家基の側で柳生新陰流を見取り、無刀取りの極意まで会得していた。
深く踏み込んで来た虎三郎の懐に入り込み、一振で喉を斬り裂いた。
陰圧になってしまった虎三郎の肺から、呼子笛のような音を鳴り響かせて空気が抜けていく。
それでもしばらくは大薙刀を振り回していたが、致命的な一撃を受けた後では、正確に狙う事などできない。
直ぐにどっと地響きをたてて倒れた。
虎三郎が一刀で斬り殺されるのを見たのに、一味の連中は降伏しなかった。
浅草仙右衛門の処罰が恐ろしかったのだ。
降伏すれば、奉行所の牢に入っていても必ず殺されると分かっていたのだ。
奉行所の与力同心が、浅草仙右衛門の手先になっているのを知っていたのだ。
賄賂を受け取っていた事を証言されないように、殺そうとすると分かっていた。
だから浅草仙右衛門の手先は、どれほど叩きのめされても、動けなくなるまで逃げようとあがき続け、ほっぼ全員が捕らえられる事無く死んだ。
「全員召し放て!馬鹿にしていた罪人を逃がすような者は幕臣ではない!まして罪人を恐れて泣いて逃げ出すなど武士とはいえぬ、幕府の威信を地に落とした者の首を刎ねよ!」
名門旗本の醜態を聞かされた家基が激怒してから一月が経っていた。
武士は相見互いと言って、病だと言って布団に寝ている当主が死んでいるのを知っていても、誰を養子にして家を継がせるか遺言した事にするのが旗本だった。
どれほど酷い失敗をしても、悪事を働いても、家は潰さずに半知召し上げ程度にするのが旗本だった。
或いは責任を取って自害した事にすれば、家族が腹を切って自害に見せかけた物であっても、家自体には御咎めなしにするのが旗本だった。
だが今回の件は余りにも無様過ぎた。
武士が町人を恐れて逃げ出したのだから、庇える者など誰もいない。
町人から逃げるという醜態をさらした当人は、切腹も許されず斬首となった。
家は御取り潰しとなり、一族も連座が適用されて重追放となった。
町人に負けて死傷した連中も、逃げた連中よりはましだが厳しく処分された。
その全員が、家基が命じた試し切りをしていなことが分かったのも大きかった。
主命に背くような者に情けをかけてくれとは、誰にも言えない。
町人に死傷させられた者は切腹させられた。
主命に背いて試し切りをしていなかった者の家は、連座の適用だけは免れたが、召し放ちにされた。
一族の中には名門を笠に着て温情を願い出る者がいたが、その者は安祥譜代であったが許されず、召し放ちされた。
五千石を超える大身旗本だったが『主よりも一族が大切なら禄などいらないだろう』と家基に言われて、徳川家から召し放ちにされた。
召し放ち処分を受けたのは、浅草仙右衛門一味を逃がした番方だけではなかった。
金竜山浅草寺と王子稲荷社を囲んでいた番方だけでもなかった。
その日は当番で西之丸を警備していた番方でも、試し切りを逃げていた番衆の家が召し放ちされた。
理由は簡単で、主命に背いたからだった。
例え理不尽な主命であっても、従うのが武士だとされているのだ。
しかも今回の主命は、いざという時のために試し切りを経験しておけという、武士としては当たり前の真っ当な主命だった。
それを拒んだのだから、家基に仕える気がない、叛意を持っているとしか思えない行動だった。
叛意はないにしても、家基を軽く見ている事だけは確かだった。
召し放ちされた番士の一族は、誰も庇おうとはしなかった。
先に安祥譜代と呼ばれる名門の大身旗本が庇おうとして、連座にされている。
誰もが同じように処分されたくないと思ったのだ。
家基が幕臣を叩き直す処分をしていると、あっという間に一カ月もの刻が過ぎてしまっていた。
逃がした浅草仙右衛門を探したかったが、それよりも幕臣の性根を叩き直す事が優先されたので、しかたがなかったのだ。
「大納言様、新たに西之丸に番入りした者達の試し切りを早々に終わらせて、本丸の番方と入れ変えなければなりません」
西之丸の剣道場で柳生玄馬を相手に組稽古をしている家基に、平蔵が話しかけた。
「そうだな、このままでは幕臣の半分も鍛えられない。上様に申し上げて、定期的に本丸と西之丸の番方を入れ変えていただこう」
「入れ変えなくても、本丸でも試し切りをさせれば良いのではありませんか?」
家基の打ち込みに押されている柳生玄馬が、疑問に思った事を平蔵に聞いた。
「山田浅右衛門殿が確認してくれるから間違いはないと思うが、賄賂を払ってやってもいない試し切りをやった事にする者が現れるかもしれない。何より、本丸と西之丸の試し切りを同時にやらせたら、死骸の数が足らなくなる」
「なるほど、そういう事か」
柳生玄馬は長谷川平蔵の言葉に納得した。
「単に度胸をつける為なら、試し切りの終った死骸を何度も縫い直して斬ればいい」
長谷川平蔵の割り切った言葉に柳生玄馬が顔をしかめる。
家基は表情を変えることなく黙って聞いている。
「問題は生きている者を殺す経験だ。何の罪もない人を斬らせる訳にはいかない。やれるとすれば犬猫牛馬だが、人の役に立つ牛馬を斬らせるのも駄目だ」
「平蔵、以前犬追物に使う犬が足らないと言ってなかったか?」
黙って聞いていた家基が平蔵に確認した。
「はい、射貫けないようにした犬射引目とはいえ、毎日何度も射られるのです。多くの犬が死に、新たに集めるのが間に合いません」
「百姓が野犬に困っているとも言っていたな?」
「はい、野犬なのか狼なのかは断言できませんが、困っております」
「番方に犬狩りをさせるのはどうだ?」
「良いお考えでございます」
長谷川平蔵の目論見通りに話が進んだ。
超箱入り育ちの家基を誘導するなど、海千山千の長谷川平蔵には簡単な事だった。
だが悪意や野心があって誘導したわけではない。
長谷川平蔵も腑抜けた幕臣を何とかしたいと思っていたのだ。
そのためには、権力を握る必要があった。
四〇〇石の旗本では出世にも限界があるので、権力者を上手く操る必要があった。
老中田沼意次に取り入ったのも、家基の御機嫌を取るのもその為だった。
運が良い事に、家基は長谷川平蔵と同じ考えだった。
だから忠義を尽くしながら自分の目的を叶える事ができる。
それと、長谷川平蔵の実母は、知行地から行儀見習いに来ていた庄屋の娘だった。
幼い頃は、部屋住みだった父親がその庄屋の家に世話になっていた。
だから百姓の苦しさは、どの旗本御家人よりも知っていると自負していた。
その平蔵から見て、野犬と狼は出来るだけ駆除しなければいけない害獣だった。
愛玩用に変われている小さな犬は別にして、野犬や放し飼いの犬には狂犬病の恐れがあったのだ。
狂犬病、発症してしまったらほぼ間違いなく死んでしまう不治の病だ。
前駆期には、風邪に似た症状と痒みやチカチカするような違和感や熱感がある。
急性期には不安感、恐水症状、恐風症、麻痺、精神錯乱、異常な興奮がある。
どのような薬や祈祷呪いも効果がなく、確実な死が待っている。
狂犬病がなかったとしても、幼い子供が喰い殺される事が度々ある。
大切な家族を埋葬した墓を荒らされ、亡骸を喰われてしまう事もある。
長谷川平蔵は、家基を誘導して犬狩りをさせたいと思っていたのだ。
だからこそ、好機を逃さずに犬狩りを献策したのだ。
「西之丸付きの番方を総動員して犬狩りをやらせる」
平蔵の誘導が上手く行って、将軍家が決めた鷹狩用の御鷹場だけでなく、関八州全域で犬狩りを行う事になった。
普通なら勢子に百姓を使うのだが、今回は合戦に備えた鍛錬だと家基に言わせた。
そのため百姓を利用する事ができず、幕臣が駆けずり回る事になる。
家基は小姓から検分役を選んで、全ての犬狩りを見張らせた。
そのため、手を抜くような番士は一人もいなかった。
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