第6話:婚約者
「大納言様、城下の暗黒街に力を持つ者と話をする事ができました」
「ほう、流石本所の鉄だな」
「ただ、少々の礼では引き受けてもらえません」
「ほう、千両箱を三つ四つ積めとでも申すのか?」
「大納言様の御命を狙った相手を探し出すのです」
「……なるほど、余の命の値段に匹敵する礼金が欲しいと申すのか?」
「今の幕府の勝手向きでは、大納言様の命に相応しい礼金は用意できません」
「それが分かっていて、余の命に相当する礼を用意しろというのは、どういう意味があるのだ?」
「相手は暗黒街に生きる者ではございますが、一廉の漢でございます」
「余が直々に頭を下げて頼めばいいのか?」
「大納言様の直臣として召し抱えていただきたいのでございます」
長谷川平蔵は、柘植松之丞と膝詰めで話し合った条件を家基に伝えた。
柘植松之丞は、幕府を武断な状態に戻したかった。
少なくとも、諸大名に向けて優秀な隠密を送れる状態にしたかった。
伊賀も甲賀も根来も普通の足軽に堕し、御庭番まで役立たずになっている。
そんな状況に嫌気がさして逐電したが、次期将軍である家基が、御庭番だけでも吉宗将軍の時代に戻してくれるのなら、自分達を使ってくれるのなら、戻っても良いと言ったのだ。
「……盗賊に身を落とした者を再び召し抱えろと申すのか?」
「大納言様、今の武士が腑抜けだと嘆いておられたのは誰でございますか?」
「余である」
「大納言様は武士らしくあろうと試し切りを望まれました。己の技に誇りを持つ忍が、腑抜けた幕府に愛想が尽きて、盗賊になるのと何が違うと申されるのですか?」
「幕府は、庶民が安心して生きて行けるように法を定め、禁を犯す者を捕らえ処罰しなければならない」
「はい、その通りでございます」
「余は、試し切りをすると言ったが、それは罪人の死骸に限った事だ。幕府が定めた法を犯すような事をしようとしている訳ではない」
「では、臣が探して来た者を西之丸の御庭番にはできないと申されるのですね?」
家基は少し考えてから返事をした。
「残念だができない。これまで幕府の法を犯していない者なら召し抱えられるが、犯した事のある者は召し抱えられない」
「町奉行所や火付け盗賊改め方では、見所のある罪人を目溢しして密偵として使っていますが、それは許されるのですか?」
「それを言われると余も答えに窮するな。分かった、その者達にも罪を犯していない家族がおろう。その者を御庭番として召し抱える。当人達は……余が知らぬ事だ」
「御庭番となった家族が、罪を犯した者を密偵として使うのを、許してくださるのですね?」
「平蔵、お前が使っても構わないのだぞ?」
★★★★★★
西之丸中奥の御休息之間上段には、墨を磨る僅かな音だけがしている。
惚れ惚れするほど良い姿勢で墨をするのは大納言家基だ。
普段は小姓が磨った墨を使うのだが、婚約者の孝宮に書く手紙の墨は、自分で磨る事にしている家基だった。
家基の婚約者である孝宮は、閑院宮典仁親王の次女でまだ十歳だった。
叔母で家治将軍の正室であった、倫子女王の前例に倣うのなら、二年後には京を下向して江戸に入る事になる。
家治将軍に似て女性にとても誠実な家基は、正室となる孝宮以外の女性に手を付ける気はなかった。
長谷川平蔵を始めとした側近達が、孝宮が下向する前に世継ぎをもうけて欲しいと思っている事は、家基も重々承知していた。
それでも、家基は孝宮以外の女に手を付ける気はなかった。
家基自身が、父である家治将軍を見倣うと公言していたし、持って生まれた生真面目な性格の影響なのも確かだが、実はそれだけでもなかったのだ。
家基は、自分の実の母親が父に愛されていなかった事を知っている。
世継ぎが必要な父が、愛など一切なく、しかたなく抱いた女が自分の母親なのを知っている。
将軍の世継ぎなら当たり前の事だが、正室である倫子女王の養子にされた事も、その手で育てられた事も、その側近達に養育された事も、大きな影響を与えていた。
家基の近くには、知りたくない事を吹き込む輩が数多くいたのだ。
愛されることなく子供を産まされる女を、自分の手で作りたくなかった。
世継ぎ、後継者が必要な将軍家の責任は重々理解している。
理解はしているが、避けられるものなら避けたいと思っていた。
同時に、唯一の妻と決めている孝宮には、自分に与えられる精一杯に愛情を与えたいと思っているので、手紙の墨すら自分の手で磨るようにしていた。
何度も手紙の内容を吟味して、自分の愛情が誤解なく伝わるように頭を悩ます。
幕府の御用飛脚を使い、毎日手紙を届けるようにしていた。
孝宮の負担にならないように、とりとめもない日々の内容を書いて送る事も多い。
孝宮からの返信は、幕府が費用を負担して閑院宮家から家基の所に届けられる。
「大納言様、宜しいでしょうか?」
家基が手紙を書き終えたのを見て小姓が声をかけてきた。
家基の予定を知っている長谷川平蔵が、孝宮に送る手紙を書き終えたら『話がしたい』と小姓に伝えてもらう事にしていたのだ。
柘植松之丞との連絡を長谷川平蔵に任せている家基は、浅草仙右衛門の居場所が分かったと思い、直ぐに会う事にした。
「吉報が入ったのか?」
家基が御休息之間下段に控える長谷川平蔵に聞いた。
「申し訳ございません。潜伏先の候補は四つにまで絞れましたが、まだ確実にここだと言い切る事ができないそうでございます」
「大口を叩いた割には時間がかかっているな。いや、違うな、寺社奉行所はともかく、町奉行所も火付け盗賊改め方も見つけられない凶賊の隠れ家を、四ケ所も見つけたのだったな」
「はい、十分優秀でございます。それはそうと、とんでもない事が分かりました」
「なんだ、平蔵とも思えない慌てようだな?」
「慌ても致します。浅草仙右衛門一味は、事もあろうに、異国に女子供を売っていると分かったのでございます」
「……抜け荷か、それも人を売るだと。幕府の御定法を何だと思っている」
「大納言様、最近江戸では女子供を狙った神隠しが増えております。町奉行所も、神隠しに見せかけた人攫いだと目星をつけていたようでございますが、未だに手がかり一つ見つけられておりません。黒幕が浅草仙右衛門だったら、賄賂を受け取っている与力同心がぐるとなり、探索の邪魔をしていると思われます」
「ぐる、ぐるとはなんだ?」
下城に通じた長谷川平蔵は、つい人形浄瑠璃で使われた言葉を口にしてしまった。
「共謀していると言う事でございます」
「そうか、隠れ家を見つけるために見逃したが、これ以上は我慢ならん。裏切者を捕らえても平蔵の手先が一味の隠れ家を探せるのなら、早々に捕らえて厳罰に処せ」
「承りました。確認して問題がないのなら捕らえて処罰させていただきます。ただ、隠れ家を探し当てるのに必要なら、これまで通り泳がせても宜しいですね?」
「仕方があるまい、余を狙った黒幕を捕らえる為だ、我慢する」
「はっ、有難き幸せでございます」
長谷川平蔵が確認したところ、柘植松之丞配下は、浅草仙右衛門一味と共謀している与力同心を利用して隠れ家を探していた。
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