第5話:柘植忍軍
長谷川平蔵も別に動いていた。
当番の時間が終わると、家基の許可を取って直ぐに千代田の城から下がった。
そのまま両国にある国豊山回向院の門前町に向かった。
そこには長谷川平蔵が本所の鉄と呼ばれていた時に知り合った旧知の人間がいた。
その男は元幕臣で、明和二年(一七六五)八月に大番組の番衆として大阪城にいた際に、逐電して家を潰した男、柘植松之丞政房だった。
ただ、放蕩の限りを尽くして頚が回らなくなり逐電したわけではなかった。
武士の魂、伊賀者の魂を持っていたからこそ、腑抜けた幕府に愛想が尽きたのだ。
伊賀者や甲賀者が、忍術を伝えず下級役人になってしまう中、忍術を伝え続けていたからこそ、幕府と幕臣の堕落腐敗が許せなかったのだ。
腐った幕府の飼い犬のままでいたら、何時か自分の子孫も堕落腐敗してしまう。
それを恐れた柘植松之丞政房は、忍術を伝えながら草として各地に潜んでくれている忠義の下忍と共に、裏社会、暗黒街で生きる決断を下したのだ。
とはいえ、誰よりも武士の誇りを大切にしている柘植松之丞政房だ。
裏社会の人間以外には非道な手段を使わなかった。
殺さず、犯さず、貧しきからは盗らずの三カ条を守り抜く、本格の盗賊となり、江戸の暗黒街で一大勢力となっていた。
そこまで自分と配下の柘植忍軍に枷をかけた状態で、江戸の暗黒街を二分する大勢力となっていた。
直接支配している縄張りだけで常在山霊山寺、平河山法恩寺、亀戸天満宮、金剛神院永代寺、法花山浄心寺、霊巌寺、羅漢寺、富ヶ丘八幡宮などの門前町がある。
昔は草と呼んでいた下忍の密偵、今では嘗役や引き込み呼ぶようになった者がいる場所を加えれば、拠点は御府内だけでなく日本六〇余州に及んでいる。
これは、上忍としての心構えを失った者達が使っていた下忍を全て受け入れ、膨れ上がったが忍者軍団を持てたからこその結果だった。
「昔馴染みの本所の鉄が相談に来たと、御頭に伝えてくれないか?」
長谷川平蔵は、本所で暴れていた頃に柘植松之丞が本拠としていた、平河山法恩寺の門前町にある岡場所で聞いた。
「本所の鉄様でございますか?」
「ああ、今では西之丸書院番の番士となっているが、一五年前には御頭にお世話になっていた。その頃の縁を頼りに、御頭に頼みたい事があって来たのだが、ここにはおられないのか?」
「申し訳ありませんが、昔馴染みの方と言われましても、頭から信じる訳にはいかないのでございます」
「そうだな、急に現れた者を御頭には会わせられないな。分かった、御頭に伝言だけでも頼めないか?また訪ねても良いし、そちらから使いを寄こしてくれても良い」
「分かりました、御頭がどんな返事をされるか約束できませんが、今お聞きした事だけは確かに伝えさせていただきます」
明らかに何度も修羅場を潜った事が分かる雰囲気を纏った、三十半ばの蟹の甲羅のような顔をした男が約束してくれた。
柘植松之丞の配下なら、一度約束した事は絶対たがえないと知っている長谷川平蔵は、そのまま屋敷に戻る事にした。
もちろん、蟹顔が配下に尾行させる事は分かっていた。
いきなり御頭に会いたいとやってきた男の素性を調べるのは当然の事だった。
本当に名乗った通り本所の鉄なのか、西之丸の書院番士なのか、確かめてからでないと、配下としても御頭には伝えられない。
長谷川平蔵は、細心の注意を払って尾行の有無を確かめた。
今の自分に柘植忍者の尾行を見抜く力があるのか確かめたかったからだ。
物凄く目立つ、忍者でも何でもない三下二人が跡を付けているのが分かった。
長谷川平蔵が荒れていた頃に知り合った手練れの盗賊、そんな連中と同じくらい目立たない所作で跡をつける女が一人いるのが分かった。
尾行なのかはっきりしない、最初から尾行される覚悟で気を張っていなければ、絶対に気付けないくらい何気ない動きでついてくる男が一人いる。
忍者か盗賊か分からないが、柘植松之丞には今でも凄腕の仲間がいる。
とりあえずそれだけは確認できて、長谷川平蔵は安心した。
それと、これほどの腕前の忍者なら、長谷川平蔵がわざと尾行させている事くらい見抜いているはずだから、確認のために変な動きをするだけ無駄だった。
下手に動いて柘植松之丞や配下の者に誤解される方が怖いので、真直ぐに本所三之橋通り菊川にある屋敷に戻った。
長谷川平蔵は、今日はこのまま終わると思ったのだが、そうはならなかった。
戻って四半時も経たないうちに、男が訪ねて来たのだ。
「先ほど御当家の殿様が我が主人の所に来られたのですが、生憎主人が留守にしておりまして、申し訳なくも門前払いのような仕儀になってしまいました。入れ違いに戻った主人から、御用を伺って参れと申し付けられたのです」
長谷川家の門番中間を上手く騙して、平蔵まで話を届けて来た。
門番中間から話を聞いた用人まで騙されて、平蔵に取り次いだのだ。
「分かった、直接話が聞きたいから庭先に案内しろ」
平蔵の言葉を聞いた用人が、柘植松之丞の配下を庭先に案内してきた。
神妙な態度でやってきたのは、全く表情の読めない何の特徴もない二十半ばの男だった。
長谷川平蔵は、僅かに気配を読めた手練れの男なのだろうと思った。
「俺の用を柘植松之丞殿に伝えてくれると言うのは本当か?」
「はい、御頭の昔馴染みなのかは分かりませんが、名乗られた通り西之丸書院番の番士、長谷川平蔵様だと確認できましたので、二度手間にならないように御用だけは伝えさせていただきますんで、安心してください」
話し方にも声にも、何の特徴も癖もなかった。
密偵、草としても何処にでも入り込めるように、態と全ての特徴を消しているのなら、見事としか言いようがなかった。
「大納言家基様が浅草仙右衛門に襲われた件は知っているか?」
「存じております」
「だったら話は早い。大納言様の面目にかけて、浅草仙右衛門は討ち取らないといけないのだが、今の腑抜けた幕臣では居場所すら見つけられない」
長谷川平蔵は、言葉を止めて男の反応を見たが、全く何の反応も示さなかった。
「そこで、昔馴染みの柘植松之丞殿に、浅草仙右衛門の居場所を探し出してもらいたいのだ」
そう言った長谷川平蔵は男の目を真直ぐに見た。
「それだけでございますか?使い走りになる気はないのですが?」
「こちらが物を頼むのだ、使い走りをさせる気はない。やってもらえる可能性があるのなら、俺がまた法恩寺の門前町を訪ねさせてもらう。礼については大納言様に確認してから約束しよう」
本来なら、裏社会、暗黒街に生きる者に何かを頼む時は、先に具体的な礼を決めなければいけないのだが、今回は世間知らずの家基の許可を貰わなければいけないので、勝手には決められなかった。
そもそも、柘植松之丞が今も両国一帯を支配下に置いているかも、長谷川平蔵には分かっていなかった。
柘植松之丞が未だに両国一帯に力を持ち、浅草仙右衛門探しを受けてくれる可能性があると確かめるまでは、家基に話ができなかった。
まして相手はただの裏家業ではなく、幕府を見限って逐電した元幕臣なのだ。
超箱入り育ちの家基が、幕府を見限った者を受け入れるかどうかも分からない。
柘植松之丞に悪意を持たれることなく、家基の機嫌を損ねず、両者が争うような事がないように考えた末に、このような言動で接触する事にした平蔵だった。
「御頭がどのような答えを出されるかは分かりませんが、今聞いた事をひと言一句変えることなく、伝えさせていただく事は約束させていただきます」
「そうか、頼んだぞ」
男は最後まで何の感情も見せずに屋敷を去って行った。
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