第4話:犬追物
瓢箪屋の騒動があった翌日。
「先の件はどうなっている?」
大納言徳川家基が長谷川平蔵に聞いた。
「逃げられたようでございます」
「情けない、それでも幕臣か?!」
「どうやら町奉行所や寺社奉行所に内通者がいるようでございます」
「何だと?!許せん、捕まえて斬首にせよ!」
「もうしばらくお待ちください。浅草仙右衛門と日吉権十郎の隠れ家を探しだすには、裏切り者どもを泳がせる必要がございます」
「……そこまでしなければ隠れ家が分からないのか?」
「城下の暗黒街を束ねている者でございます。戦国の気風を無くした、軟弱な幕臣ではとても太刀打ちできません」
「何と情けない、こんな事では合戦になった時に何の役にも立たんぞ!」
「大納言様の申される通りでございます。このままでは幕府が立ち枯れてしまいます」
「何か良い方法はないか?」
「大納言様付きの西之丸番方だけでも、山田浅右衛門の屋敷で試し切りをさせる事しか思い浮かびません。後は、有徳院殿が復活させられた、小笠原流の犬追物をやらせるかです」
長谷川平蔵の献策が気にいったのか、家基が満足げに頷いた。
幕府に仕える小笠原縫殿助家と小笠原平兵衛家が伝える弓馬術礼法の一つとして、騎乗した状態で生きた犬を弓で射る、武士の技を競う犬追物があった。
徳川綱吉の生類憐みの令によって途絶えていたが、徳川吉宗が復活させていた。
犬射引目と言う特殊な鏑矢を使うので、犬を射殺す事はないが、追い回して傷つけるので死んでしまう事もあった。
四十間四方の広大な馬場と、十二騎三組合計三十六騎の射手と、作法を習熟した二騎の検見役、二人の喚次、喚次が知らせる射手の名と成績を日記付けに知らせる幣振、射手の名と成績を記録する日記付、射手の場所を公平に決めるために䰗を振る䰗振、順番に犬を放つ犬放がそれぞれ一人、百五十匹の犬、犬を管理したり雑用をしたりする河原者二百人が必要な大掛かりな競技だった。
正式な礼法に従って犬追物を行うのは可成り大掛かりで大変だった。
それなりの大名家でなければとても一人で開けるものではなかった。
「そうか、だったら浅右衛門に試し切りができるように話をつけよ」
「はっ、直ちに。犬追物はどうなされますか?」
「上様に許可をもらう。良き成績を収めた者には時服を褒美に渡さねばならん」
「承りました。臣は交代時間になり次第浅右衛門の所に参ります」
大納言徳川家基と長谷川平蔵が、浅草仙右衛門と日吉権十郎を追い込む話と、腑抜けた幕臣を叩き直す話しをしている所に、取次役の小姓が慌ててやって来た。
「大変でございます。寺社奉行、土岐美濃守の家臣が五人も殺されました?!」
「なに、どのような役職の者だ?!」
「寺社奉行所の仕事を任されていた者達と聞いております」
大納言徳川家基が大男の熊五郎に襲われた後、直ぐに寺社奉行所と町奉行所に使いを送り、浅草仙右衛門と日吉権十郎を捕らえようとした。
ところが、両名とも影も形もなかった。
月番の南町奉行、曲淵甲斐守景漸は素早く与力同心と捕り方を動員して、両名を捕らえようとしたが、相手は支配地違いの門前町に拠点を設けていた。
ところが月番の寺社奉行、牧野豊前守惟成は中々藩士をまとめられず、捕り方を組織できなかった。
最初は単なる無能が原因と思われていたが、後に家基が家治将軍の許可をもらって御庭番に調べさせたところ、奉行所内部に賄賂を受け取っている内通者がいた。
だから、寺社奉行は捕り方を集めるのに時間がかかったのだ。
寺社奉行の役人は、浅草仙右衛門と日吉権十郎の両名を逃がす時間を稼ごうと、態ともたもたしたのだ。
町奉行所は、曲淵甲斐守が時間稼ぎを許さなかったから素早く動けただけだった。
だがその町奉行所がどれだけ素早く門前町を包囲しても、寺社奉行の重臣が手引きすれば、逃げられるのは仕方がなかった。
本来なら賄賂を受け取っていた者全員を処刑すべきところだったが、それでは手掛かりが無くなってしまう。
だから仕方なく寺社奉行を叱責する事もなく、賄賂を受け取っていた家臣を泳がしていたのだが、消されてしまった。
汚職家臣は御庭番に見張らせていたのだが、徳川吉宗から二代も世代が経ってしまうと、豊かな幕臣となり紀州時代の鋭敏さが失われていた。
「くっ、御庭番も地に落ちたか」
その言葉を聞いて、本丸広屋敷から西之丸広屋敷は派遣されていた、御庭番の川村弥左衛門は恥ずかしさの余り顔を伏せるしかなかった。
御庭番など何の役にも立たないと、次期将軍に見放されたのだから当然だった。
「大納言様、誰にも失敗する事はございます」
「そうか、だが町民に後れを取るような密偵など、役立たず以外の何者でもない」
「挽回の機会を与えてやるのも大将の器量でございます」
「そうか、川村弥左衛門、浅草仙右衛門と日吉権十郎の居所を探し出せ」
「この命に変えましても必ず見つけ出して御覧に入れます」
川村弥左衛門は、名誉を取り戻すために急ぎ本丸に戻って行った。
だがそんな川村弥左衛門の背中を見る家基の目はとても冷たかった。
「平蔵、幕臣ではなく本所の鉄として応えよ。御庭番に連中を探し出せるか?」
「腑抜けた御庭番に探し出せるような連中では御座いません。探し出せるとしたら、捕らえた盗賊を放免して手先に使っている、火付け盗賊改め方くらいでしょう」
「町奉行所では無理なのか?」
「南町奉行の牧野大隅守殿は人格者ですが、切れ者ではありません」
「北の甲斐守はどうだ?」
「北町奉行の曲淵甲斐守殿は切れ者ではありますが、町奉行所の役目が多岐に渡るだけでなく、与力同心の中に賄賂を受け取っている者がおります」
「くっ、何と情けない事だ。不浄役人とはよく言ったものだ」
「大納言様、それは少々お考え違いをなされております」
「何だと、余が間違っておると申すのか?」
家基の顔は怒りと疑問で引きつっているが、長谷川平蔵は平気な顔をしている。
「江戸八百八町を取り締まるには、与力同心の数が少な過ぎます。まして与力同心の微禄では、探索に使う密偵を召し抱える事もできません。それに、不浄役人と呼ばれるのは、罪人を斬首するからで、同じ様に罪人で試し切りをされようとしている大納言様が、口にされて良い事ではありません」
「なに、罪人を斬首するから不浄役人と呼ばれているだと?武士なら良き経験ではないか!幕臣はどれほど腑抜けておるのだ!」
「その点は先ほども申しました通り、大納言様の御力で変えられれば良いのです」
「うむ、そうしよう。それは良いとして、浅草仙右衛門と日吉権十郎だ、両名を捕らえるには、火付け盗賊改め方に命じなければならないのだな?」
「臣はそのように思います」
「だったら上様の許可を得て帯刀に探索を命じよう」
だが今は、浅草仙右衛門と日吉権十郎を捕らえるには季節が悪かった。
火事の少ない時期で、火付け盗賊改め方は土屋帯刀守直の一組しかいなかった。
だが、家基の話を聞いた家治将軍が直ぐに動いた。
たった一人残った子供を殺されかけたのだ。
その黒幕を、寺社奉行の家臣の裏切りで捕らえる事ができなかったのだ。
信じていた御庭番が何の役にも立たず、裏切者を黒幕に殺されてしまったのだ。
将軍という至高の地位に就いているのに、愛息を殺そうとした下手人一人捕らえられないのだから、表面上は平気な顔をしていても内心では腸が煮えくり返っていた。
「市之丞と大和守に加役を命じよ。大納言の指図に従うように命じよ」
家治将軍は、西之丸付き御先手鉄砲組頭、贄市之丞正寿と建部大和守広般に火付け盗賊改め方長官を命じて、家基を殺そうとした連中を探し出そうとした。
その間、家基も何もしなかった訳ではない。
幕臣を叩き直すためにやれる事をやっていた。
具体的には、長谷川平蔵に献策された犬追物を大々的にやるべく、小笠原縫殿助家と小笠原平兵衛家に準備を命じた。
参加するのは西之丸付きの番方だった。
役高四〇〇〇石の頭一騎と役高一〇〇〇石の与頭一騎に率いられた、役高三〇〇俵の番衆五〇騎の小姓組番が六組。
役高四〇〇〇石の頭一騎と役高一〇〇〇石の与頭一騎に率いられた、役高三〇〇俵の番衆五〇騎、与力一〇騎同心二〇人の書院番が五組。
役高二〇〇〇石の頭一騎と役高六〇〇石の与頭一騎に率いられた、役高二五〇俵の番衆二〇人の新番組四組は徒士なので、馬を飼う義務はないが騎乗資格はあった。
だから彼らにも幕府の馬を貸し与えて犬追物に参加させた。
流石に騎乗資格のない小十人組までは参加させなかったが、騎乗資格のある頭一騎と与頭二騎は個人で参加させた。
更には西之丸付きの御先手鉄砲組や御先手弓組には、役高一五〇〇俵の頭だけでなく、騎乗資格のある一〇騎の与力にまで参加するように強く命じた。
書院番の頭には、付けられている与力一〇騎を、番衆とは別に犬追物に参加させるように強く命じた。
家基自身は、山田浅右衛門の屋敷に行く事を自重していた。
内心では試し切りをしたくて仕方がなかったが、父親である家治将軍を哀しませる訳にはいかないと我慢していた。
その分、剣術や弓術の鍛錬は激しく行っていた。
西之丸内にある道場に、連日指南役を呼び出して猛稽古に励んでいた。
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