第3話:刺客

「瓢箪屋に寄って帰るぞ」


 鼻の奥にある異臭が取れない家基が言った。


「誰が作ったか分からない物を食べるのは危険でございます!」


 何時ものように柳生玄馬が止める。


「玄馬殿、瓢箪屋は御用御麺類所だ、それに毒見役がいる、大丈夫だ」


 これもまた何時ものように、長谷川平蔵が家基に助け舟を出す。

 よほど危険なら別だが、平蔵はできるだけ家基の機嫌を損ねないようにしている。


 田沼意次に近づいて出世を目指しているが、本気で出世を目指すなら、意次の機嫌さえ取れば良い訳ではない。


 意次よりも家基の方が遥かに若いのだ。

 意次が死んだときに家基に嫌われていたら、どれほど出世していても排除されてしまうのは目に見えている。


 家治将軍が死んで田沼意次が失脚した時も同じだ。

 だから意次の利益を確保しつつ、家基にも気に入られるようにしていた。


 柳生玄馬配下の西之丸小十人組の先導で、麹町四丁目にある瓢箪屋に向かう。

 だが、いくら幕府の御用を承っていると言っても、瓢箪屋から見ればこれほど迷惑な事はない。


 次期将軍の大納言家基が、一〇〇人以上に守られて押しかけて来るのだ。

 他の客は追い出されるし、瓢箪屋の主人佐右衛門も使用人も、何か粗相があったら殺されるかもしれないという恐怖の中で、蕎麦切りを作らなければいけない。


 瓢箪屋の名物は、紅柄で紅く塗られた器に盛られた蕎麦切りで、徳利に入れられた汁をかけて食べるのだが、家基が頼むのはそれだけではない。


 長谷川平蔵に連れられて、お忍びで来た時に好きになった物があった。

 少数の護衛に守られて来た時に食べた、蕎麦掻きと蕎麦湯をいたく気に入って、極稀に来られた時には必ず蕎麦切りと一緒に頼んでいる。


 家基の立場からすれば、蕎麦掻きと蕎麦湯を食べたくなるのは仕方がない。

 何度も毒見を繰り返されてから家基の前に出される料理は、常に冷めているのだ。


 家基から見れば、まだ温かい状態で出される蕎麦掻きと、舌が焼けるほど熱い蕎麦湯ほど贅沢な食べ物はない。


 今回は大人数なので、毒見はされるだろうが、直ぐ側の台所で作られるから、冷めるとしても冷め切った状態にはならない。


「世話になるぞ」


 町家での買い食いに慣れた平蔵が、恐怖で顔をひきつらせた瓢箪屋主従を安心させるように、普段通りに挨拶する。


 家基の小姓達が、先にいた客を追い出した後なので誰もいない。

 町民から見れば傲慢極まりないが、家基の立場ならしかたがない事だった。


「我が主が、瓢箪屋の評判を聞いてどうしても食べたいと言われたのだ。悪いようにはしないから、三〇人前に蕎麦切りと蕎麦掻き、熱々の蕎麦湯を頼む」


 流石に長谷川平蔵も、主人が家基とは口にできない。

 まして、身分を明かさず来た事があるとは口が裂けても言えない。

 大身の旗本が、我儘を言ってやってきたという体裁をとる。


「それと、蕎麦の前に酒とあてになる物を出してくれ」


 瓢箪屋に断れるはずもなく、できるだけ早く出て行ってもらおうと、急いで作る。

 身分のある武士に粗相があってはならないと、瓢箪屋佐右衛門自ら蕎麦を打つ。


 店の者が、急いで酒を入れた銚釐を燗銅壺に入れて、湯煎して温める。

 熱燗にされる酒は、瓢箪屋に置いてある中で一番良い酒だ。


 多くの庶民は、一番安い一合四文の地廻り酒を飲むが、瓢箪屋くらいの店になると、一合三〇文の下り酒を飲む客もそれなりにいる。


 それほど水で薄められておらず、酒精が強いので、燗をすると銘酒独特の馥郁とした香りが立ち込め、何とも言えない好い気分になる。


 麹町に鱧御蒲焼の名店丹波屋があるからなのか、急ぎの酒の当てには鱧の蒲鉾を山葵と醤油で食べるようにして出していた。


 山葵は徳川家康が気に入って、有東木村に門外不出の御法度品とするように命じたが、有東木村に椎茸栽培を指導した御礼に、板垣勘四郎が苗を譲られ栽培法を教わったのだ。


 板垣勘四郎は、天城山御料地の山守だったので、幕府は天領に限り山葵の栽培を認めるようになり、町人も徐々に美味しい山葵が食べられるようになっていた。


 とはいえ、山葵は船を使わず陸路で運ばれているので、少々値が張る。

 瓢箪屋も金払いの良い上客にしか山葵を使わない。


 普段から給仕をしている、男の使用人が鱧の蒲鉾と熱燗を運んでくる。

 気の荒い町人の男しか外で飲み食いしない時代だ。

 料亭以外の酒を出す場所では、気の荒い町民同士でよく喧嘩になる。


 だから居酒屋と呼ばれるようになった酒を置く店は、男の使用人しかいないのが普通で、陰で色を売る店しか女の使用人はいない。


 そんな喧嘩三昧に慣れた男の使用人でも、身分のある侍に給仕するのは怖いのか、少し震えながら家基が座る床几の右横に熱燗と板わさを置く。


 素早く小姓の一人が毒見をする。

 この小姓は、以前にも家基の微行に同行していた。


 熱い物を飲み食いできた家基が、珍しく喜びを表に表したのを覚えていたので、できるだけ早く毒見を終えようとする。


 素早く銚釐から朱塗りの木杯に熱燗を注ぎ毒見をすませる。

 もう一人の小姓が板わさの毒見をする。


 家基は表情を変えないようにしているが、ずっと側に仕えている小姓から見れば、早く飲み食いしたいのを我慢しているのが分かる。


 毒見を終えた二人が、黙って床几の前から離れる。

 少し冷めてしまって、舌を焼くほどではないものの、普段家基が飲んでいる酒よりは十分熱く、燗冷ましの酒とは比べ物にならない良い香りが鼻から抜けていく。


 山田浅右衛門の屋敷でこびりついてしまった、死臭と怨念が洗い流されていくようで、家基は板わさを食べることなく立て続けに杯を重ねる。


 家基が酒を飲んでいる間に、熱々の蕎麦掻きが一つずつ持ってこられる。

 使用人が追加の熱燗と板わさを運んでくる。


 家基の前に控える長谷川平蔵が、その度に銚釐から朱塗りの木杯に酒を注ぐ。

 毒見役の小姓が素早く安全を確認していく。


 柳生玄馬は、家基の背後に立って不意を突かれないようにしている。

 もちろん小姓達も要所に立って警備をしている。


 柳生玄馬配下の小十人組番士が、瓢箪屋の外に立って誰も中に入らないようにしていたのだが……


「やい、やい、やい、さんぴん、俺様を誰だと思っていやがる」


 瓢箪屋の表で警備をしている小十人組番士に難癖をつける声がした。

 浪人や勤番者ならともかく、出仕中の小十番の者に難癖をつけるなど、普通では考えられない命知らずな言動だ。


「止めよ、下郎。高貴な方が食事中だ」


「はぁ、高貴な方だぁ、てめぇらのような、町の衆に迷惑をかけるさんぴんが、高貴もへったくれもねぇんだよ」


 酒焼けしているのか、大声を出し過ぎたのか、あるいは酒に溺れて常軌を逸しているのか、胴間声を張り上げるのが聞こえてくる。


「「「「「そうだ、そうだ、町の衆に迷惑かけやがって!」」」」」


 胴間声に合わせて騒ぐ連中が一〇人以上いるのが、声の数で分かる。

 家基が眉を顰めるのを見て長谷川平蔵が動いた。


「瓢箪屋佐右衛門、外から聞こえる声に覚えがあるか」


 平蔵が台所に控えている瓢箪屋佐右衛門に聞いた。


「はい、ございます。星野山日吉山王大権現社の門前町を縄張りにしている、日吉権十郎一家の熊五郎でございます」


「熊五郎と言う者は、町の衆のために働いているのか?」


「とんでもございません、この辺りには御武家様の屋敷が多く、さしたる店もなく、数少ない店に来ては強請り集りを繰り返す、鼻つまみ者でございます」


「だったら俺が斬っても誰にも文句は言われないか?」


「それは危険でございます。お止めになられた方が良いです!」


「どういうことだ?この辺りの嫌われ者で、大した親分ではないと言ったではないか?」


「熊五郎が嫌われ者なのは間違いありませんし、日吉権十郎も大した親分ではありませんが、権十郎は江戸でも壱弐を争う大親分、浅草仙右衛門の弟分なのです」


 江戸の暗黒街を仕切る親分衆が恐ろしい存在なのは、若い頃に本所深川で暴れていた長谷川平蔵が、ここにいる誰よりもよく知っている。


 自分だけならどうとでもなるし、死ぬ事になっても構わないのだが、次期将軍である家基を危険な状況には置けない。


 浅草仙右衛門が恥をかかされたと思い、自分の命を捨ててでも面目を守る気になったら、鷹狩や遠乗りの時に家基に向かって弓鉄砲を放ちかねない。

 暗黒街の連中は、将軍であろうと関係なく命を狙うのだ。


「大納言様、君子危うきに近づかずと申します。臣が連中を成敗するまでここを出られませんように」


「……民に迷惑をかける嫌われ者ならば、試し切りを兼ねて無礼討ちにしたい」


「大納言様、少々の事ならば反対いたしませんが、今回だけは駄目でございます」


 長谷川平蔵が珍しく反対した事に家基が驚いた。

 よほど問題があるのかと考えた時、表の戸を吹き飛ばして人が飛んできた。


「ぎゃっ!」


 表を守っていた小十人組の番士だった。

 一〇〇俵一〇人扶持、旗本としては最下層の騎乗を認められない徒士侍だが、それだけに、徒士侍最強という誇りをもって日頃から鍛錬に励んできる。


 そんな小十人組の番士が、なすすべなくやくざ者に吹き飛ばされるなど、普通では絶対に考えられない事だった。


 瓢箪屋の中にいた、腕に覚えのある側近達が何時でも刀を抜けるようにする。

 長谷川平蔵と柳生玄馬も、得意の居合で迎え討てるように構える。

 とんでもなく大きな男が、背中を丸め、頭を下げて中に入って来た。


 昔江戸で評判になった大男、大関釈迦ヶ嶽ほどではないが、七尺三寸はあると思われる大男が、右手に丸太を持って入ってきたのだ。


 小姓二人が物も言わずに斬りかかろうとしたが、顎も頬も額も厚い彫の深い顔を歪めた大男が、その巨体に見合わない素早さで丸太を振り回した。

 大男の右側にいた小姓だけでなく、左側にいた小姓までが吹き飛ばされた。


「無礼者、誰の御前を穢していると思っておる!」


 同輩を叩きのめされた小姓の一人が、放たれた矢のように大男に突きを繰り出す。

 神速、とまでは言わないが、並の剣客が相手なら確実に勝てる素早い突きだった。


 丸太を振り回した直後の大男では、絶対に対処できない速さと角度のはずだった。

 ところが、大男は右手ではなく左手で小姓の刀を軽く振り払ってしまった。


 いや、振り払ったどころか、素手で刀を叩き折ってしまった!

 手、と言って良いのか躊躇うくらい大きな手だった。


 小姓の手に比べれば、長さも幅も厚みも倍以上あった。

 新陰流の奥義、無刀取り。

 敵を恐れることなく、その間合いに踏み込んで、刀を奪う技。


 こちらが刀を持っていれば、そのまま斬り捨てれば敵を屠れる。

 大男は刀を奪うのではなく、自分の刀で斬るのでもなく、平手で叩いたのだ。


 大男の間合いに入って殺せると思っていた小姓は、茫然自失してしまった。

 何度も殺し合いを経験して生き残った者ならば、刀を折られた直後に身を躱しているのだが、残念な事に、小姓は道場剣術の名手だった。


 大男が振り戻した丸太をもろに胴に受けてしまった。

 ブシュと今まで聞いた事のない音と共に、小姓の胴がへしゃげた。


 丸太を叩きつけられた小姓の胴が、丸太の形に凹んでいる。

 五臓六腑が叩き潰されたのが一目瞭然だった。


 それどころか、丸太を叩きつけられたのと反対側の胴、そちら側の着物が赤く染まり、グッヘッという断末魔と共に血反吐を吐いた。


「おのれ!」


 無残に殺された小姓と衆道の契りを結んでいた小姓が、憤怒の表情を浮かべて大男に斬りかかる。


 一瞬遅れて三人の小姓が大男に向かった。

 三人は冷静で、大男を囲もうとしたが、残念ながら大男が瓢箪屋の入り口に陣取っているので、半円にしか包囲できなかった。


 麹町の通りには小十人組番士がいるはずなのだが、助太刀する様子がない。

 もう大男に殺されてしまったのか、大男の手下に手古摺っているのか分からない。


 四人で半円に包囲して、臨機応変に戦えれば勝機があったのかもしれないが、愛する男を殺された小姓が、形振り構わず正面から突っ込んでしまった。


 しかたなく、他の三人も僅かに遅れて上段、中段、下段から斬りかかる。

 大男はまたも丸太を右側から左側に振り抜く。

 普通の大男は動きが鈍いのだが、信じられないくらい速くて力強い。


 振り返しよりも振り抜きの方が力が入るのか、最初に斬りかかった正面の男は、丸太を胴に受けて二つに引き千切られてしまった。


 引き千切られた小姓の右側から、別の小姓が上段から斬り下ろそうとしたが、あまりに早い丸太の動きについて行けず、大男の懐に入る前に叩き潰されてしまった。


 ただ、残った二人の小姓は目先の利く者達だった。

 正面の小姓に丸太が振るわれると予測して、振り返される前に大男を斬ろうと、左側から突っ込んでいた。


 中段に構えた中央に近い方の小姓は、丸太を振るう大男の右腕を使えないようにすべく、最速の突きを繰り出した。


 下段に構えた一番左側にいた小姓は、大男の脛を斬って動けないようにしようと、深く身体を沈めて幼い頃から鍛えに鍛えた居合を放った。


 絶対に避けられないはずの、連携した攻撃だった。

 正面と右の小姓仲間が殺されるのを前提にした、確実に大男を殺せる攻撃だった。

 ところが、大男は丸太を手放して裏拳で二人の小姓を迎え討ったのだ。


 丸太の振り返しの速さを計算して攻撃を仕掛けた二人の小姓は、信じられないくらい速く戻って来た大男の裏拳を避ける事ができなかった。


 小姓達の三倍以上の長さがある大男の腕だ。

 長さだけでなく、太さも小姓達の腕を一〇本束ねたくらいある。


 見た目に骨が太く、熊五郎の名前に相応しい、本物の熊以上に太く長い腕だった。

 開かれた手の大きさは尋常ではなく、軍配よりも大きく見えた。


 そんな人間離れした手が、二人の小姓を捉えた。

 中央よりの小姓の頭が、棒で殴られた西瓜のように爆ぜた。

 脳漿が飛び散り、周囲に撒き散らされる。


 大男の右腕はそのまま止まる事無く、四人目の小姓に叩き付けられる。

 四人目の小姓は、運が良い事に、三人目の小姓の死骸が大男の右腕よりも先に当たった。


 吹き飛ばされる所に、追い討ちをかける形で大男の手が当たった。

 その御陰で勢いが散らされ、他の小姓達のように身体を潰される事はなかった。

 表にまで吹き飛ばされてしまったが、少なくとも即死だけは避けられた。


「玄馬、大納言様を御守りして裏から逃げろ」


「余に逃げろと申すか!?」


 これまでの戦いを見て、自分なら大男を斬り捨てられると思っていた家基は、長谷川平蔵の言葉に激怒した。


「刺客がこいつ一人とは限りませんぞ!」


 長谷川平蔵から、暗に大男が将軍の座を狙った刺客の一人かもしれないと言われた家基は、自分の名誉よりも次期将軍としての責任を果たさなければいけなかった。


 内心では、若者らしい誇りと無謀な勢いが渦巻いていたが、運の良い事に大男が非常識に強すぎた。


 大男だけなら斬り捨てる自信があった家基だが、同程度の刺客がもう一人いた場合、確実に殺されると自覚できた。


 それと、次姉の万寿姫が亡くなった時に、人目を憚りながらも心底嘆き悲しむ父の姿を見ていたので、無謀な行いで死ぬ事はできないと自重する事ができた。


 柳生玄馬と生き残った小姓が、家基を守りながら瓢箪屋の裏から逃げた。

 長谷川平蔵と、非番で家基に従っていた書院番士がその場に残った。


 何の打ち合わせをする事もなく、一瞬で役割を分担していた。

 残った者の先頭には長谷川平蔵が立っていた。


 七人の小姓が先に犠牲になってくれた事で、大男の鬼神に匹敵する力と速さを知る事ができた長谷川平蔵は、丸太と腕の攻撃を避ける事を一番に考えていた。


 先に攻撃させてから大男を斬る。

 後の先を取ると言うが、返し技を使って大男を屠る気だった。


 これまで見た大男の力と速さなら、何とか返し技を使えると思っていた。

 問題は、大男の振り回しと振り返しが更に早くなる可能性だった。


 大男が振う丸太は徐々に早くなっている。

 まして丸太を手放した後の腕の速さは、これまで見てきた誰の剣よりも早い。


 これ以上速くなると、流石の長谷川平蔵でも勝てなくなる。

 長谷川平蔵は、確実に勝てる技を必死で考えながら、余裕の表情を浮かべていた。


「けっ、臆病風に吹かれたか、さんぴん!」


 仕掛けて来ない長谷川平蔵達を大男が挑発する。

 七人もの小姓が人間離れした殺され方をしているので、瓢箪屋に残った番衆も挑発に乗る事無く、大男の攻撃を待っている。


 剣の腕が並みの番衆を凌ぎ正義感の強い若者達、それが家基お気に入りの番士だ。

 誰もが一廉の剣士で、大男に勝つ方法を考えている。


 誰が考えても、先に動いた大男の隙をつかなければ勝てないと分かっている。

 自分から動いたのでは確実に殺されると理解している。


「てめぇらが掛かって来ないなら、俺様からやってやらぁ!」


 大男がそう言った途端、一番前に立って抜き打ちできるようにしていた長谷川平蔵が、独自で編み出した歩法で一歩だけ下がる。


 番衆と並んだ長谷川平蔵を見て、逃げたと判断した大男は、左側にいる番衆を先に狙おうとしたのだが、そうはいかなかった。


 一歩下がった長谷川平蔵は、床几に残された蕎麦搔きを大男に投げたのだ。

 煮えたぎるような物ではないが、まだ熱い蕎麦掻きの湯が、大男の顔にかかった。


「ぎゃっ、この野郎、卑怯な」


 思いがけない攻撃を受けた大男は、ほんの一瞬だけ隙を作ってしまった。

 顔に叩き付けられたお湯の所為で視界を閉じられてしまった。


 その一瞬の隙を、選び抜かれた番衆は無駄にしなかった。

 大男に最後まで悪態をつかせる事なく、攻撃を仕掛けた。


 左右の端にいた二人が、大男の脛に斬りかかった。

 ほぼ同時に、長谷川平蔵の左右にいた番衆が、丸太攻撃を避ける事を最優先に、左右の二人の囮になるように、大男を牽制する。


「ぎゃっ、ぐっ、この野郎、くそ」


 長谷川平蔵の危機感は間違っていなかった。

 力よりも速さに重点を置いた大男の振り回しは、今までで一番速かった。


 これまでの大男の動きを計算して攻撃を仕掛けた左右の二人が、攻撃を諦めて後ろに飛び下がらないといけないくらい速かった。


 長谷川平蔵には、最初から正々堂々と戦う気など毛頭なかった。

 どのような手段を使っても、確実に大男を殺す事を最優先していた。


 石があれば印字で戦っていただろうが、無いので、蕎麦搔きの入った土鍋や板わさが乗せられた器、酒の入った銚釐を投げた。


 家基が毒殺されないように、毒見用に大量の酒と板わさを注文していたのが、思いがけず役に立った。


 蕎麦切りよりも前に、家基が食べたがっていた、熱々の蕎麦掻きが床几に上の届けられていたのが良かった。


 顔に投げつけられる銚釐と器、特に酒と汁が大男の視界を奪っていた。

 普通ならこれで確実に大男を殺せるのだが、素早く振舞わされる丸太が、並の力士が全身全霊の力を込めて振り回すのに匹敵する破壊力を持っていた。


 並の番士とは比較にならない強さを誇る、家基お気に入りの番衆が、近づけないくらい恐ろしい破壊力を持っていた。


「任せろ」


 投げているだけではどうにもならないと判断した長谷川平蔵は、大男が丸太を振り回すのに合わせて刀を振るった。


 独自で編み出した歩法を使って大男に近づき、丸太を掴む右手の親指だけを狙って、必殺の斬撃を叩き込んだ。


 とてつもなく太く硬い指だった。

 人の上腕を半ばから切断した事のある平蔵が、並の人間の腕よりも固く太いと感じるくらいの指だった。


「ぎゃっ!」


 右手親指を斬り落とされた大男が丸太を落とした。

 その機会を逃がす長谷川平蔵はではない。


 長谷川流歩法を使って大男の目を幻惑して、必殺の間合いに踏み込んだ。

 見栄えの良い斬り方をする気などなかった。


 大男の右手親指を斬り落とした時に、刀が傷ついたと感じていた。

 愛刀粟田口国綱をこれ以上傷つけたくなかった長谷川平蔵は、大男の喉を狙って斬り上げた。


「ぴゅううううう」


 長谷川平蔵が斬り裂いた喉から、肺腑の空気が吹き抜けていく。

 大男は、とてつもなく大きな手で、斬り裂かれた喉を抑えて空気が抜けないようにしたが、そこに番衆の刀が殺到した。


 だだそれは大男に長い苦しみを与える結果となった。

 熊以上に太く硬い骨を断つ事ができず、膾切りにされる事になった。

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