第3話 初入浴は、神様と混浴
我ながらすごく夢みがちな発想だと思うのだが、若い女の子というのは、自ずと然るべくして芳しい香りを漂わせているものだと思っていた。
俺は、風呂に入っていた。
――普通に体が汗臭かった。
女の子の体というのは自然といい匂いがするかな、と思ったけど。実際は全然そんなことはなく。現状の俺からは、風呂入らずに翌朝を迎えたときの、社会性にコーティングされていない、ホモサピエンスありのままの香りが漂っていた。
ホモサピエンスで思い出したけど、そういえば俺、このままで行くとまた学校で学習し直しになんのかな。アウストラロピテクスのことしか覚えてないけど、大丈夫かしら。自慢じゃないが三平方の定理とか全然覚えてないぞ。
服を脱ぐまでは、もう少し罪悪感めいたものが生まれるかな、と危惧すらしていたが、誰か特定の知り合いと体が入れ替わったわけではないので、不思議とそういう感覚はなかった。
せっかくならちょっと知り合いの体と入れ替わってみたかったよ。いや、知り合いの異性が俺の体に入ってくるのはそれはそれで居心地が悪いから却下だな。閑話休題。
確かに眼下に広がるのは女の体だが、数時間もすると、これが自分の体という実感も湧きつつあり、これは自分の体だと感じられれば、必要な時に自分の体に触れることにあまり躊躇いはなかった。
実のところを言うと。
尿意を催し、しばらくは耐え忍んでいたものの。いよいよどうしようもなくなってしまった際に、その手の恥じらいはすべて吹っ切れたというか。
少なくても俺は何も悪いことをしているわけでもないので、別に普段通りやればいいのだ、という精神も芽生えつつあった。
別に女として生きていくことを決めたわけではない。
だが、男を女に変えてタイムスリップさせてしまうウルトラミラクル超常現象を体感して、俺がどうこう足掻いてなんとかなるとは思えなかった。
そして、それはあの神様へのちょっとした反逆精神だったのかもしれない。どうせ奴は俺が恥じらったり、戸惑ったりしている姿を見てほくそ笑んでいそうだから。
――などと、そんなことを考えていたら。神様はぬらりと湯煙から現れた。
「もう少しお風呂に入ることに抵抗を覚えてくれるものだと期待したんだけどな」
目論見通りではあったのだけど、俺は反射的に、そして全力で少年にお湯をぶっかけていた。
しかし、少年はなぜか濡れない。少なからず物理法則の通用する相手ではないらしい。神様の権能は底なしだ。
「しかし、男に湯浴みを覗かれたときの反応はいい。せっかく素敵な乙女に仕上げたのだからその調子で頼むよ」
と。クククと肩を揺すって笑っているのが、これまたなんとも腹立たしい。
自身に少年に裸を見られることに反射的に羞恥心が出現したのもまた、業腹だった。
「ふつうは人に裸を見られたら恥ずかしいだろうが。いや、あんたは神様か。逆に聞くけど、神様は全裸を見られて恥じらいはないのかい」
「神に恥ずべきところなどない」
清々しいほど迷いなく彼は答えた。
少年は服を着たまま、白いバスチェアに腰掛ける。そういえばこのワンルームアパートには、ご丁寧にも必要最小限の家具一式は調度してあった。神様からの調度品と思うと有難い逸品である。神の腰掛けとして今後の金策に役立ちはしないだろうかなんてことをちょっと脳裏を掠めた。
うーむ。
ちょっと冷静に物事を考えられるようになってきた。
「風呂に入るのにまったく抵抗はなかったみたいだけど」
「これがいまの俺の体なら、風呂に入ることくらい普通だろうが」
「もう少し葛藤してくれると嬉しかったな」
「俺は神様を喜ばせるために生きてるんじゃない。下手なラブコメの読み過ぎだ」
「僕は君の願いを叶えるために存在しているのにね。僕はあまねくラブコメを平等に愛しているんだよ。そうじゃなきゃ、君の願いなんてそもそも相手にしない」
その理屈はよく分からない。
俺の願いは下手なラブコメみたいだ、ってことか。
いやいやそんなことはない。ちょっと死にたくなったりもする人生だけど。思い出に閉じ込めていた女の子の記憶に触れて、あの子とうまいことやりたい人生だったと願ったりもしたけれど。あれは走馬灯によってハイライトされただけで、普段から栗山理央のことを考えていたわけじゃないし、そんな未練たらしくもない。
――はずなんだけどなあ。
少なくても、転生前の俺は、基本的に恋とか愛とかとは無縁のところでのうのうと生きていた。
「ってか神様ってのは意外に下世話なんだな。ラブコメ漫画なんて読むのか?」
「神なんてものは基本的に下世話さ。下世話だからこその神なんだ。下世話じゃない神なんて居たら、それは君たちに神という言葉で認識される存在ではないだろうね」
「つまり読むんだな?」
よくわからない理屈をこねくり回して、煙に巻こうとしていることはよくわかった。相変わらず腹立たしい態度に、俺は故意に毒づいて見せる。
「それで、けっこう巨乳好きなんだな」
俺は、やたらと重たい自分の乳房を持ち上げて見せる。
すると。ひくり、と美少年の美しい眉の形が歪むのを見てとれた。
それにしても、こんな大きな乳に触れたことがなかったので、多少はいやらしい気持ちになるかと思ったが、ぜんぜんいやらしい気持ちが湧いてこないのは、これが自分の体だからなのか。自分がいま女だからなのか。
「調えただけだよ。君の魂の形に添えて」
なんにせよ。
神様とやらは乙女らしい反応が好みらしいので、あまりお上品にしてやる義理もないだろう。性的な興奮はないが、なかなかどうして面白い感触だこれ。車の窓から手を出してみたりする感覚とか、二の腕の感触なんかとは全然違うぞ。
などと、何度も乳を揺らしていたら、流石に神様はお怒りの様子だった。
「下品なことはやめたまえよ」
神様は強めの口調と共に、親指と人差し指をパチリと鳴らす。
――瞬間。
俺の両手が胸から離れた。
「それと、些かばかり訂正するならば、僕は美しいものを是とするだけだよ」
「ふーん、ならば貧乳は美しくない、と?」
「減らない口だ。貧相な理屈だね」
触ろうとしても、触れない。
触ろうとすると、腕が意図せぬ方向に動いてしまう。
いや。改めてすげえな、神様の権能。なんでもできんじゃん。
などと妙に感心していたら、神様は続けた。
「胸部の膨らみがない女性のことを貧しいと評する、粗野な言葉選びもまた、いかがなものかと思うね」
「お前の趣味じゃないのか、この乳やらケツは」
「繰り返すけど。君の魂の形に添えて調えただけだ。上手くできているだろう」
触れないので、仕方なく胸を指差そうとするが、生憎とそれすら叶わなかった。
「それに、君の言っていることは楓の美しさと桜の美しさを比べるようなものだよ。それぞれの美しさがあり、君には君らしい美しさがある。君らしい美しさを体現したのがその体だ、ありがたく受け取るがいいさ」
「女湯を平然と覗きにくる奴のセリフじゃなかったら、もう少し有り難いんだろうけどな」
「ふーん、君はけっこう減らず口だね」
「じゃ、またね」と言ったきり、再び彼の姿は消失した。
怒らせてしまっただろうか。
神様を怒らせたらどうなるのだろう。
一生俺は女のまま生きていくのだろうか。ちょっとそれは嫌だな。
とはいえすぐに未来に戻るのもそれはそれで嫌だ。
感覚を研ぎ澄ませてみる。ちゃぷん。お湯の揺れる音がした。揺れたお湯に体が揺らされる。
これは希望的観測に過ぎないのかもしれないが。見えなくなったが、消えた感じはない。どこかにいる感じがする。存在の気配が確かにある。
神様は遍在する、と。どこかで聞いたことがある。どこにでもいるし、どこにもいない、と。誰か哲学者がそんなことを言っていたと習った気がしたが、いざ目の前にして見ると、それは確かに言い得て妙だな、と体感的に思った。
とはいえ。
やかましい神様が消え、ようやく静かになったところで、俺は湯船に深く浸かり、思考を整理しはじめた。
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