ch.23 Nekrose
寿命というのは生物全てに与えられた有限のものだ。それに当てはまらないのは、それこそ不老不死と呼ばれる吸血鬼だろう。意図して殺されなければ永遠に長らえ続ける。死にながらにして存在し、その生でもって死を否定し続けているが故にアンデット。
怪異には寿命の概念よりかは身体の耐久というものがある。まずそもそも怪異は生きていない。人間が生み出した概念とすら言ってもいい。生き物でないならば、それには寿命という枠が当てはまらないのも通りだ。その代わりの耐久値。
城化物で言えば、本体である城が崩壊し朽ち果てれば城化物も消えて無くなる。
悪魔も、魔女も、ケット・シーも、体の方の姿が保てなくなれば、その存在は崩壊する。すなわち擬似的な死である。
その姿のまま再び復活するのが悪魔であるし、そもそもの耐久値が飛び抜けて高い吸血鬼とかいう化物中の化物も存在するが、同様に終わりは来るものである。
終わりというかは区切りが。
怪異の終わりが体が朽ち果てるまでというならば、人間の終わりは寿命と、さらに怪異同様体の限界を迎えるまでだろう。
人間で言えば体の限界値が耐久値とも言える。
私の耐久値は子供の頃から低下の一途を辿っている。
それはあの母親と共に教会に閉じ込められ犯されたが故に、後天的に虚弱になってしまったのもある。が、そもそも私の家系に問題があるのだ。
私の家系、軍の将校の家系。つまりは男系であり、男が重用されなぜか生まれてくる子供も頑強な男児しか生まれない。
しかしごく稀に女児が生まれてくることがある。私のように。そういったものには、戦争とは無縁の良き世界をとの願いを込めて平和を意味するアイリーンの名が送られる。
そう言えば聞こえがいいが、実際は用無しの烙印だ。生まれてくる女児は記録を辿ったところ、どの女性も生まれつき体が弱く短命だった。まるで、その他の男の分の弱さをも請け負うかのように。
オルドレット・アイリーン。それが私の名前。この私に平和を模った名前を渡しただけでもお笑い種なのに、そもそもの落第者の印とはさらに笑ってしまう。
先天的な短命と後天的な虚弱体質。
さて、私はあとどれだけ持つのだろう。
それこそ、あの吸血鬼の王となんて比べるべくもない。
♦︎
あのクズの麗人が立ち去った後、私は私でやることがあった。吸血鬼は約束を違えることはない。だから、友人のことはもう大丈夫だろう。あいつと一戦交えるかもしれないが、それはもうそれで二人とも死ねばいい。
なんて、投げやりなことを考えながら旅支度を進める。これから少々遠出をしなければならない。
絶対に会わなければならない人がいる。その人を探しにいくのだ。どこにいるかもわからないけれど、伝手はあるからなんとかなるだろう。伝手というか猫の手だけれど。
ハイデンに少し出てくると伝えると馬車を用意してくれた。御者はおらず、馬がいるはずのところには浮遊した二組の馬の骸骨に黒いヴェールを被った何かがいた。
ここまでしてくれなくても良かったが、ここから1番近くの街まではかなり遠い。なんたって吸血鬼の王が隠れ住んでいるのだから、人里から離れていて当然だ。馬車に乗って街の近くまで送ってもらうと、帰りまで待っているようだったので仕方なしに待たせておいた。もう乗ることはないけれど。
本当はハイデンを私の遠出には関わらせたくなかったために、黙って出た方が良かったかと今更ながら思う。もしかしたら私がいなくなって機嫌を悪くしたあいつに、また城を壊されてしまうかもしれない。それは本当に申し訳ない。
満月が支配する街の中、今頃あの吸血鬼は魔女と交戦中だろうか、満月ならば調子は良さそうで良かったなんて考える。
月光が届く路地の中に入り、周りを見渡すが目当てのものはいなかった。
「どなたかいらっしゃいませんか。力をお貸しいただきたいのです。姿をお見せください。ケット・シー」
しばらく待つと、影の中からするりとしなやかな体躯が現れた。誰かいないかとは思ったが、まさかこの方が来てくれるとは思わなかった。
「魔性の子よ。久しいなあ。よもやとは思ったが、本当に傾国にまでなるとはな。なんだ、子猫になる気にでもなったか?」
月光の中に姿を現してくれたのは、子供の頃助けてくれたあの灰色の老猫だった。
「お前が我らに尽くすという約束を守り続けていることに感謝しよう。近頃は月の王と共にいると聞いていたが、違ったか?」
「お久しぶりです。貴女から受けた恩は忘れてはおりません。しかし、猫になるつもりがあって貴女を呼んだわけでもない。確かに吸血鬼の王のところにいましたが、今は探し出して会わなければならない方がいるのです。今一度、力をお貸しください」
十数年ぶりにあってもどこも変わらずに佇む老猫は、楽しそうにゆらりと尻尾を揺らした。
「そうか、子猫にはならんか。まあお前の献身を認め力を貸してやってもいい。対価はもらうがな。察するに月の王と隠れ鬼でもしておるのか?我らは王の配下でもあるが、猫とは気まぐれなもの。だが恩は死んでも忘れぬ。此度ばかりはお前に肩入れしてやろう」
「ありがとうございます。ええ、あいつに見つかるわけにはいかないのです」
「ならば少し待っておれ」
一度影に潜った老猫は、再び姿を現したときには石のようなものを咥えて出てきた。
石は透明度が高く、その中心には煌々と燃える光があった。
「これは?」
「陽光の欠片という。その名の通り、太陽の焔を石に封じたものだ。これを持っておれば夜の眷属にはまずお前を認識することはできないだろう。我らのように気ままに白昼堂々陽光の下で昼寝ができる奴らは別だがな。そんな奴らは滅多におらんし、いても夜の眷属とは馴れ合うことはない。これはお前の献身に対する褒美だ。とりあえず持っておきなさい。鬼の目も、その眷属の目もこれで誤魔化せるだろう」
「感謝いたします」
「さて、次は。子よ。お前は何がしたい。誰を探している」
「悪魔の首魁を、探しています。どうしても会わなければならないのです。どこにいるかご存知ですか?」
私は私で悪魔様にもう一度会わなければならない。そのためにハイデンライシュタイン城を出てきたのだから。
そして、これは個人的にかなり性格が悪いことだがあの吸血鬼にはそれを知られたくもないし、城に戻るまで会いたくはなかった。
先ほど散々振り回された意趣返し、というよりも私自身の区切りのために。
「悪魔の首魁か。あれはどこにいるか我らでも掴むのが難しい。捕らえたと思ってもすぐに行方をくらましてしまう。中々に困難な道程になる。それでも良いか」
「はい。それを承知で参りました」
「では対価を」
私が持っているものなんて何もない。けれど、まだ渡せるものはあるしそれを渡す価値がこの探し物にはある。
「対価は、私の寿命を」
老猫はまたしても愉快そうに尾をゆらめかせた。
あの吸血鬼に助けを乞うた夜から、私の悪魔様を探す旅が始まった。基本的には猫やケット・シーと共に行動し、目撃情報がある場所へと赴いた。無駄足になることがほとんどで、未だ姿を見れたこともない。
猫たちからの情報網で、あの吸血鬼の王様が西の戦線で魔女の女皇を殺しかけたという話を聞いた。どうやら約束は本当に果たしてくれたらしい。聖騎士も無事らしい。
あいつら二人でやり合う可能性も考えていたが、それは杞憂だったようだ。大方、王様が女皇に八つ当たりしてそれで終わったのだろう。出て行く時、機嫌悪かったし。
ともかく、友人が無事に長らえたことに深く安堵する。壊されてしまったピアスも、あの王を動かすためには無駄ではなかった。
悪魔様を探しながらも、私はその月の王に見つからないよう過ごしていた。
それから悪魔様を探し出す道程は中々に骨が折れるものだった。猫たちのいう通り、見つけたという情報を得ても私がそこに行くまでに行方をくらませてしまう。その繰り返し。
その旅の途中で、思わぬ形でなぜか私を知っている他の吸血鬼に出くわし求婚されたり、あの真白の魔女と出会ってしまったがために幼馴染と再び遭遇してしまいそうになりもしたが、その話は今度でいいだろう。
とにかくただの旅ではなかった。跳梁跋扈する怪異の目を誤魔化せると言っても、何事にも例外はつきものでその度に何度も危ない目にも遭ってきた。もちろん人間相手にだって襲われたことは何度もあった。
自身の魔性をこんなに便利だとは思いたくはなかったが、役には立ったことは確かだ。そして猫たちにも感謝しなければ。
猫たちは本当にずっと私のそばを離れずにいてくれた。危険があれば事前に知らせ、私が行き詰まれば助言を授け、その広範囲で速い情報網を遺憾なく発揮してくれた。
私が差し出した分の正当な対価だと言っていたが、吸血鬼の王である彼らの主人すらも欺いてくれるとは思わなかった。やはり猫は気まぐれで、恩は忘れない性質らしい。恩があるのは私の方だが、今までの私の行動を評価してくれているのは確かなようだった。
そして、その猫たちによればあのクズ吸血鬼はどうやら私を探しているらしい。私が猫たちに援助を求めたのはすでに伝わっているらしく、ハイデンライシュタイン城にはあいつからの尋問という名の拷問から逃れるためにもはや猫は1匹残らず姿をくらましたらしい。
またしても私を探させてしまっている罪悪感と、それくらい振り回しても別に今までのあいつの行いからしてみれば私のやっていることなんて大したことのないものなのではないかという、二つの考えが浮かぶ。
やはり、大したことないな。今まで散々振り回して壊してくれやがって。200年探してくれたのなら、もう少しそれが延びたっていいだろう。
もう一度あいつと再会した時に、自分の身に降りかかるであろう災難には目を瞑る他ないが。
まあ、いいか。ざまあみろ。
とりあえずは、ここまで逃げ切れた自分を褒めてやりたい。
悪魔様を探し初めて一年が経過した。未だたどり着ける確証を得ないまま、私は昔ギンカと住んでいた家の前にいた。
懐かしさと共に、ここをヴェレーアに見つかった時の絶望感、恩人の元から去る時の寂しさを思い出す。
ここに立ち寄ったのは偶然だったが、ふと思い立って家の戸を開ける。
「よお、久しいな。小娘」
そこには探し人であった悪魔様が、相変わらずのニヤニヤ笑いを貼り付けて椅子に座って私を待っていた。
♦︎
「いやな?お前がずっと俺様を探しているものだから、どうしようかと思ってな。このまま旅させるのもいい経験かと思ったが、その対価はいただけないな」
「なんだ、知ってたんじゃない。わかっていて行方をくらましていたのね。酷い人」
「まあ、悪魔様だからな。それでどうした小娘。俺様に何のようだ。吸血鬼の餓鬼を止まり木にしたのではなかったのか。なぜ、そんなにお前の命がすり減っている。そこまでして、俺様に会いたい理由とは何だ」
悪魔様には皆まで言わなくても全てお見通しだった。私が残りの寿命を対価に猫たちに協力を仰いだことも、ずっと悪魔様を探し続けていたことも。あの吸血鬼から逃げていることも。
「貴方にお願いがあって参りました」
神様、というと悪魔様は片方の眉を釣り上げる。
「俺様はもう神じゃねえぞ」
「いいえ。いいえ、神様。どうか、神の座に今一度お戻りください。神としてあの紛い物ではなく貴方が君臨してください」
私がずっと悪魔様を探していた理由は、このためだった。悪魔様が神としてもう一度座すこと。それを懇願するためにだけに、悪魔様を探していた。
それはなぜかと言えば、やはり自分勝手な私都合の理由でしかないのだけれど。
あの高潔な友人が仕えるならばこの優しい神様がいい。あの一人では夜を越せない吸血鬼を救うならば、この厳しい神様がいい。
両方とも私ではできないことだけれど、この人ならばそれができる。あの二人のために私はこの神様を探していた。
「それが、お前が寿命を使ってまで俺様に伝えたいことか」
「そうです。それが、全てです」
「そうか、残念だ。流石にその願いは叶えられそうにない。契約にもならん。無駄骨を折らせたな。そんな身を削ってまですることでもないだろうに。お前は本当に馬鹿だなあ」
そう言って悪魔様の方が泣きそうになりながら、私の頭を撫でる。本当に優しい方だ。私の残りの寿命のことを考えているのだろう。
自分でもわかる。私はもう、いくばくも持たない。
けれど、これだけの賭けだ。無策ではない。この優しくも厳しい神様を相手に勝算が全くなく挑んだわけではない。
「神様」
「悪魔様だろって」
「聖女は、ヴェレーアはもう持ちません」
私を憐れみの目で見ていた悪魔様の瞳が俄かに固まる。
「あの人はもう持たない。私は100年前の記録からしかわかりませんが、ずっと前からあの人は聖女だったのでしょう。それこそあの紛い物の神が作られる前から。貴方が神であった時から。ヴェレーアから貴方の話を何度も聞きました。あの人はあの巨塔で、一人で貴方をずっと待っている。紛い物と混ざりとうに壊れてもいいはずなのに、それでも正気を保って貴方が戻ってくるのを待っている」
ヴェレーアは度々私に悪魔様の、先代の神様の話をしてくれていた。厳しくて優しくて、心配性の神様の話を。臣民のためにいつも心を砕いていたと、それが過ぎたために悪魔に堕天したのだと。
その話をする時の聖女は、いつも人を食って遊んでいるようなやつなのに、とても穏やかでそれこそ聖母のような神々しさがあった。
母によく似たあの聖女、母性など全く感じない老若男女を堕落させる私と同じ傾国。けれど私の惨憺たる有様を見届け理解し慈しんだのはあいつだった。
ヴェレーアには拾ってもらった恩がある。だからと言ってそれを恩とは思いたくないし、仇で返したい気持ちも嘘ではない。見出されたからこその災難もあった。
けれど、ついぞ母親から与えられなかった慈愛を私に与えてくれたのはヴェレーアだった。からかいと称して監視とは名ばかりの、私の顔色を常に気にかけてくれていた。教会にいながらも自由に、限りなく傾国ではなく過ごせたのはヴェレーアが私を守る傘になってくれていたおかげだった。
猫は恩も仇も死んでも忘れず返すもの。私のことを猫だと言ったものがいるならば、私もそれに倣おう。
ヴェレーアに、あの私の母代わりになってくれた彼女に恩を返そう。
まだ、間に合うはずだ。
「私は聖女になる気はありません。あの吸血鬼の王の元に戻ります。けれど、そうしたらヴェレーアはまた代替わりができない。ずっとあの巨塔で鎖に繋がれたままだ。なぜあの人が鎖に繋がれて身を纏うものすらも許されないのかわかりますか。何度も逃げ出そうとしたからです。聖女の部屋の扉にはあの人が出ようと引っ掻いてついた血の跡がいくつもある。あの人の枷にいくら綿を噛ませても四肢のあざが消えないのは、未だに逃げようと抵抗しているから。衣服すらも許されないのは、あの部屋に真白のベッドしかないのはあの人が自害しないためだ。神様。どうか、お戻りください。あの人が壊れる前に、あの紛い物に取り込まれる前に、貴方があの人を助けて」
「……そうか。あいつはまだ聖女だったのだな。戻るつもりはないから好きにしろと言ったのに、律儀なやつだなあ」
見上げた顔はなぜか泣きそうに見えた。ヴェレーアが悪魔様を、神様をずっと思っていたように、悪魔様も聖女のことを気にかけていたのではないかという私の予想は外れてはいなかったようだ。
「あいつは息災か」
「今言った通りですよ」
「そうか、まだ、正気なのか」
「もう限界です」
そうか、と言ったきり悪魔様は黙ってしまった。数分だろうか。沈黙が落ち静寂に包まれた。
けれど、私は悪魔様から目を逸らすわけにはいかなかった。
どうか、お願い。
子供の頃からこの容姿のせいで散々振り回されてきた。けれど、この悪魔様のおかげでそれを利用することを覚えた。それでも、なお私の中の憎悪と嫌悪と不快感は消えることはなかったけれど。
そんな私だからこそ、受けた恩は返したい。こんな私を顧みてくれた人たちに報いたい。友人もヴェレーアもあの吸血鬼も、この悪魔様にも。
私にどうか恩を返させて。そんな身勝手な願いを込めて。
けれどそれでいい。私はもう誰にも振り回されないと決めたのだから。
「……悪魔も自由で良かったんだがな」
「貴方は変わらなくていい。貴方の捉え方を周りが変えるだけ。貴方は自由でいい。だけどどうか、あの人の隣にいてあげて」
「お前が寿命を賭してまで言いたかったことは、これで本当に全てか」
「はい」
「……わかった。次代の聖女と聖女の頼みだからな、さすがに断れん。……座に戻ってやるよ。気は進まんがな。これ以上、あいつだけに無理をさせるわけにもいかんしな」
「……ありがとうございます」
ひとまずほっとする。これであの人はもう大丈夫。いつか、あの鎖が外される日を私は祈ろう。
それに、この神様の下でなら、友人のことも任せられる。
この神様は信じられる。
「さて、小娘。俺様はあいつに会いに行くが、お前はこれからどうする。その状態だと、本当にもうお前は死ぬぞ」
「でしょうね。でも、それで構いません。もともとそのつもりでしたから。最後に行きたいところに行って勝手に死にます」
「死を間際にした猫か、お前は。そんなことをしたら吸血鬼の餓鬼がどうなるか、俺様はそのことで今から頭が痛くなりそうだ」
「あいつのことも頼みます。先代の王様と何とかしてください。抑えられるのあなた方しかいないので」
「お前、聖騎士の餓鬼と吸血鬼の餓鬼のことも含めて俺様にぶん投げたな?」
「どうでしょうね。けれど、それを含めて貴方には恩があります。どうにか返したいとは思うのですが」
「……いや、いい。今回は、あいつの様子を伝えてくれたことで十分だ。助かった。あとは、任せろ」
そう言い残して悪魔様は夜風と共に消えてしまった。
これで友人も孤独な王様も、とりあえずは大丈夫だろう。
安心した途端、今までにない脱力感に襲われる。立っていられずその場に座り込む。何となくだが呼吸も苦しい。酩酊とは違う種類の頭がくらくらする感覚がある。知覚できるものが徐々に消失していく。
あはは、と渇いた笑いが漏れる。どうしてだろう、このまま本当に死んでしまうかもしれないのに何だか今までになく気分が高揚している。
「魔性の子。我らの契約はここまでだが、お前はどうする」
影からいつのまにか出てきて隣に座っていた、あの老猫が話しかけて来る。
「そうですね、陽光の欠片はお返しします。けれど、最後に一箇所だけ行きたい場所があるのです。そこまで、お連れしてはいただけませんか」
「いいだろう。もはやお前は片道しか持たんが、それでもいいならば」
「はい、お願いします」
♦︎
「本当にここで良かったのか」
「ええ。ここでいいのです。ここでなければならない」
私がケット・シーに頼んで連れてきてもらったのは私が幼少期を過ごした私の生家だった。
「てっきりあの吸血鬼の王の元へ連れて行けと言われるかと思ったが」
「あいつはもう勝手に来るでしょう。それより、今までありがとうございました。あんな無茶な頼みを聞いてくださって。あのクズに何かされないよう、うまく逃げてください」
「対価をもらったのだ。正当なことだ。それに、王のことも気にするな。心配には及ばん。猫とは気まぐれなもの。王を掲げてもそれに従うとは限らんよ」
「それは良かった」
「ではな、魔性の子。お前の行く地獄がお前が望むものであることを願っているよ」
そう言い残して老猫は影に溶けていった。
それを見届けた私は、今にも倒れそうな体を叱咤しながら、それこそ教会に送り出された振りに帰ってきた屋敷に足を踏み入れた。
今も私の父親はあの屋敷にいるのかもしれないが、私は屋敷の中に入りたいわけではない。いまさら父親に会ってどうもこうもない。目指すのはそこから少し離れた墓地だった。歴代の当主の名前やその妻の名前が連なる墓標の中に、私の探していたものはあった。
リーズリット。
私の母親の名前。
どうしようもなく放蕩で、侵しようもなく奔放で、自身の欲の果てに嬲り殺された女。自分に向けられた欲を愛と履き違えて、それすらも理解した上で愛して甘んじて自身の身を捧げ犯される事をよしとした。
私を閉じ込めて、地獄に引き摺り込んだ母親の皮を被ったただの女。
この女のせいで、私は男性というものが幼少期から嫌いになったし、この女から受け継いだ容姿のせいで私はこうなった。
全ての元凶が私自身にあるとしても、その原因はこの女にあった。
私が最期に行きたかった場所はこの女の墓前。手向ける花なんてない墓参り。
私が私であるがために、つけなければならない区切り。
「貴女のせいで、私は散々な目に遭いました。いる必要のない地獄に落とされて、生まれた時から嫌悪と憎悪と不快感を抱えて長らえて。貴女から母親の愛情なんて感じたことはない。だって貴女は母親ではなかった。親ではなく女だった。それが私はひどく気味が悪くて怖かった。父を遠ざけて自由に振る舞う貴女を嫌悪した。私をこの容姿に生んだ貴女を憎悪した。若い男を連れ込み夜まで姿を見せない貴女に不快感を抱いた。けれど、それでも貴女の娘を辞めたいと思ったことはなかった。私の中身のどこかで美しくあり続ける貴女に見惚れていた。欲の果てに溺れたその醜悪さも美しかった。だから私は貴女から逃げられなかったのでしょうね。傾国のように振る舞う時には必ず貴女を思い浮かべて、そのように振る舞った。知らず知らずのうちに貴女の影を追っている自分に、吐き気がしたこともあったけれど、それでも貴女を追わずにはいられなかった。私は貴女の自由で奔放な美貌が羨ましかった。貴女のようにはなりたくなかったけれど、貴女のようにありたかった。けれどもう、貴女を追ってはいられない。貴女は嫌悪も憎悪も不快感も持ち合わせてはいなかったけれど、これだけは私のものでこれからも抱え続けるもの。私と貴女は違う。貴女は欲しいものがあれば簡単に手を伸ばしたでしょう。でもそれが私には難しくて仕方なかった。嘘をついて、自分も相手も騙していないと、苦しいほど恋した相手のそばにもいられなかった。手なんて伸ばせない。差し伸ばされた手を叩き落とすので精一杯。けれど、その嫌悪と憎悪と不快感を抱えても、欲しいものがあるのです。これが私の欲の果て。貴女の後は追わないけれど、貴女のようになってしまうのは親子だからでしょうか。……お母様」
雲が流れて月が顔を出す。今宵は満月。夜の眷属の力が満ちる時。
そして母の命日。きっと私の命日にもなるだろう。
「今まで顔も見せずに、手向の花も用意せずにきた非礼をお許しください。まあ、貴女そんな事気にする人じゃあないと思うけれど。どうせ死んでも男を連れ込んでいるのでしょう。なのにお父様と同じ墓に埋まるつまりなんていい面の皮ね。本当嫌い。貴女に感じた恩はありません。どうか地獄で微睡んで悦にいっていればいい。さようなら、私を産み落とした方。その罪は、きっと何より重いわよ」
私はこの嫌悪も憎悪も不快感も飲み込んで、この夜を越えましょう。
ふと、夜風が髪を撫でた。と、思ったら見知った冷たい腕に後ろから抱き込まれる。実に1年ぶりだろうか。冷ややかな夜の香りに満たされる。
さすが、というか。陽光の欠片を手放してすぐこうも居場所がバレるとは。
「……オルドレット。君は本当に僕の前から姿を消すのだから。目を離してなんていられない」
「だから、捕まえておけと言ったのに。私から目を離したお前が悪いのよ」
「隠れ鬼はもう、気が済んだ?」
「ええ。もう、いいわ。……私の負けよ」
迎えにきた吸血鬼と共に、私はまたハイデンライシュタイン城に戻ることとなった。
誰もいなくなった墓地は再び静寂に支配された。
♦︎
城に戻るなり早々に吸血鬼にベッドへと攫われる。散々逃げ回ったせいだろうか。天蓋のカーテンは月光を採光している枕元以外全て閉じられ、私は吸血鬼の腕の中で向かい合わせに座らされていた。どこにも私を逃す気がないのだろう。
しかし、当の吸血鬼といえば、私の首元に顔を埋めてしばらく動かなくなった。
「ねえ、お前。言いたいことがあるなら早く言って」
こちらはもう眠たくて仕方がないのだ。きっともう眠ったら二度と覚めないだろう。私が神様を探す上で差し出しだ私の寿命は、悪魔様にあった時点で限界だった。もう、持たないだろうことはわかる。
くたばる前にこいつに会えたのは僥倖だと思っていたのに、その迎えにきた本人が何の反応も示さない。何してるんだ。
もう疲れた。まだやるべきことは、伝えるべきことはあるのだけれど。
「何をしているんだと言いたいのはこちらだよ。ねえ、本当に何をしているのかな君は。どうして、こんな、君の気配が薄いの。……もう、消えてしまいそう」
消えてしまいそうなのはお前の声だが。泣かせたらどうしよう。何せこいつの精神状況を考えるとな。私は私でやりたい事をやってきて、その対価を支払っただけ。それ以上も以下もない。こいつに何か言われるつもりもない。
私は自由に振る舞っただけ。
「君、自分が今にも死んでしまいそうってわかってる?」
「わかってるわよ。当たり前でしょう。地獄で先にお前を待っててあげるから、安心して」
「……そんな事、許すわけがないだろう」
穏やかで縋るような口調から一転、明らかに怒気を含んだ声が発せられる。
「ようやくだ。ようやくお前を見つけたというのに、お前は今もこうして俺の前から存在ごと消えようとする。次は逃してやらないと言っただろうが。約束を違える気か」
過去で会ったこいつの口調に戻っていて思わず笑ってしまう。そこまで取り乱したこいつを見るのは初めてで。ああ、本当に愉快だ。
「捕まったでしょう。ちゃんとお前に堕ちた」
私たちの場合、先に惚れたのはどちらが先なのか。でも、これでようやく言える。
月に惚れたのは、私なのだ。
「ねえ、ギル。好きよ。お前が好き。お前だけは好き。ずっと待たせてごめんなさい、なんて嘘だけれど。私を見つけてくれてありがとう。私を好きになってくれて、ありがとう。……お前を好きになれて、良かった」
もはや重くて仕方がない腕を伸ばして、吸血鬼の頬を撫でる。自分から初めて合わせた唇は当然冷たくて、それにやはり安堵する自分はもうしょうがない。
嫌悪も憎悪も不快感も飲み込んで、それでもこいつが欲しいと思ったのだ。
壊すための呪いではない、私は自然に溢れた笑みを浮かべることができているのだろう。どんな顔をしているのだろうか。この月夜に恥じないくらい綺麗に笑えているといいのだけれど。
「……ようやく、ここまで堕ちてきてくれたんだね。ずっと、ずっと待っていたよ。いくつもの月夜を探して、彷徨って、でも会えなくて。それがどれほど残酷なことか。僕から逃げ出した君にはわからないだろう。何度死にたくなって死んで、死にきれなかったことか。ようやく会えても君は僕を知らなくて、何者をも寄せ付けてくれなかったからどうしたものかと、猫のまま散々考えたよ。どうしたら隣にいることを、触れることを許してくれるのか。あの夜のように、僕の所まで堕ちてきてくれるのかと。でも僕に振り回されている君も見ていて愉快だったよ。とても欲しくてたまらなくなって、噛みつきたくて、必死に我慢していたんだよ。けれど君は本当に酷いね。今際の際にまで僕を振るような事を言うなんて。そんな事を言われては余計に手放せない」
目を蜜のように蕩かせながら、白い肌を首まで淡く染めて吸血鬼は声を振るわせた。
ため息がなぜか熱く感じた。
そのまま猫のように擦り寄り、より強く抱き込まれる。
「……もう僕は君を逃す気はないよ。死ぬ事だって許さない。……君を僕の眷属にするよ。いいね」
「嫌よ」
「拒否権がお前にあると思うなよ」
目を潤ませて溶けていたと思えば、次の瞬間には凍りついた美貌を貼り付けているなんて、もう情緒がめちゃくちゃじゃないこいつ。
もう本当に愉快になってしまって、くすくすと笑い出すと余計に機嫌が悪くなったようで、吸血鬼の目が据わっていく。ああ、まずいな。でも、とても楽しい。こいつが私で必死になる様が、ひどく愉快で仕方ない。
「嫌よ。このまま死にたい。なんなら、お前が私を食べてくれてもいいのよ」
「そんなことはしない。ここまで来て言い逃げをするつもりかい?許さないよ。ねえ、オルドレット。どうか許して、君がいないと、僕は夜を越えられない。月夜を耐えられない。どうしたら頷いてくれる?頷いてくれなくても眷属にはするけれど、なるべく君の嫌がることはしたくない。君の、許しが欲しい」
許しを乞いながらも拒否権がないのは本当のようだった。もう消えそうな己の灯を感じながら、仕方なく妥協点を探す。
どう足掻いてもこいつは私を眷属にするのだろう。まあ、こいつクズだしな。話なんて聞いてくれないか。嫌と言ってもやるだろうな。クズだしな。
それにここまでこいつを追い詰めて振り回したツケでもあるのかも、ともう諦める。
けれど、私はこれ以上人間でいたくないから死にたいし、怪異になってあの友人と明らかな敵対関係になることもしたくはなかった。
人間にも、怪異にも、私はなりたくない。だからこのまま、私の意思のままに死にたいのに。
けれどこの吸血鬼の王様を一人にしておけないのも本当で。こいつの隣で息ができるなら、長らえてもいいとすら思える。この吸血鬼の隣でなら、私は楽に呼吸ができるだろう。
あはは。さて、どうしよう。
「君が人でも怪異にもなりたくないならば、限りなく人に近い何かにしてあげようか。老いはなく、人間の生理的現象からは外れるだろう。だが寿命は僕に揃う。僕が死ねば君も死ぬ。ただ、体の性質、強度は変わらない。力は弱いまま、君の魔性もそのままだ。もちろん、眷属として縛ることもしない。君は君のままだ。それが僕にできる最大限の譲歩だよ。人でも怪異でもない、僕の眷属という役名だけがつく。……これではダメかな」
ダメかとこちらを問いながらも、口角は吊り上がり目をこちらを見据えて逃さない。拒否権なんてあってないようなものだ。こいつは本当に私をそのようにするのだろう。
けれど、それでも私の意は最大限汲んでくれるし、私の嫌がることはしたくないというのも本当なのだろう。例えやるとしても。
それが何だが面映くて、流されてしまってもいいと思えて、やはり惚れたのは私が先なのだろうかと思ってしまう。
月に見惚れるのは、やはり通りだったか。
「……いいわ、許してあげる。お前の時が終わるまで、共に苦しんでやろう。月夜を越すお前の隣で、私も同じように息をしよう」
拒否権なんて許すつもりがないと言っておきながらも、吸血鬼は私の言葉を聞いてひどく安堵し愛おしげに微笑んだように見えた。
その顔を、もう私は今度はちゃんと見ることができる。私を好きだと言ってくれる鬼を、受け入れることができる。
唇を舐めとる冷たい舌を受け入れると、月の王の瞳の翳りが薄れていったのが見えた。
私は今宵を持って、人として死んだのだった。
♦︎
私は今も矛盾を孕んでいる。自分を含む全てに対する憎悪と嫌悪と不快感。これだけは私のもの。あいつにも友人にも渡さない私だけのもの。
私の母親から始まり、それを私はそれこそ死ぬまで抱え続けるだろう。消えることは決してない、私が私であるためのもの。
けれど、それらを飲み込んでまでして、私はあの吸血鬼が欲しかった。
私の全ての欲の果て。手を伸ばさずにはいられなかった月の写みの吸血鬼。
はしたなく見惚れて、手を取ってしまった影の王様。
ギルベルト。
それが、私と共に夜を長らえる者の名前。
死ぬ思いでもがいて苦しんで、それでも恋慕してしまった吸血鬼。
月に惚れた末路がこのざまだ。好意の反対は嫌悪だなんて言っといて、ざまあないと言いたくもなる。
苛烈で怠惰で残酷な暴君で。月の満ち欠けのように己を壊し続けて、そして死にぞこなった孤独な王様。
私を好きだと言って、過剰なほど配慮してくると思えば、ふとしたことで狂って私を壊しにかかるどうしようもないろくでなし。
機嫌で人格が変わるし、機嫌が悪い時は私を離さないし、いい時だとしても破壊衝動が増してどうにもならない。
ここまで悪口しか言ってないような気がする。しかし本当のことだ。
けれど、私のことを最後まで手放さず見てくれていた。誰も彼もが嫌いで、何者を寄せ付けないように過ごしていても、それでも寄り添おうとしてくれた。
私が、私の中身が追いつくまで、ずっと待っていてくれた。200年以上なんて私には理解できない。自分でやっといて何だが、そこまで思い続けていてくれていたとは思わなかった。その上、私のために自身を変えてくれた。力の加減を覚えて私に触れて、クズで暴君なくせに柔和な態度を身につけて接してくれて。
ひとえに全て、私のためだった。
こんな、一途なやつだなんて思わなかった。想定外よ。クズのくせに。浮気したら殺してやろうと思っていたのに。
けれど、そんな貴方だから、私は恋焦がれたのです。
貴方が好きだと、気恥ずかしさは多少あれど今なら何の衒いもなく言えましょう。
嫌悪も憎悪も不快感も、貴方のために飲み込みましょう。
このように性悪ではしたないことをお許しください。貴方に恋慕することを、お許しください。
愛しい御方。どうか、貴方の隣で息をさせてくださいませ。
私は貴方と共に堕ちて行きたいのです。
しかしそんなことは言っても結局のところ、私はいまだにあいつに体を許すつもりもないし、あいつはあいつで私を壊さずにいる保証なんてない。
けれどそれでいいのだろう。
お互いがお互いの首を絞めあって、でも互いの首に手がかかってないと息ができない。
それが私たち。
壊死。ネクローゼ。壊れて、死んで、それでも死にぞこなった私たちは、今宵も互いを壊しながらも離れることができずに、月夜の下、共に眠りにつくのだろう。
ネクローゼの恋慕 蔵座 時頭 @yoru_3zyo
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