ch.22 Salvation
自殺。
己で己の命を終わらせること。
自害。自決。自刃。
今まで長らえてきた中で、何度その単語が頭をよぎっただろうか。
許せなかった。私を蹂躙する全てのものが。芯の底から憎悪した。私に魅入る全てのものを。
だからだろうか。いくら死にたくても、途絶えさせて、投げ出したくなっても。その原因となる奴らのせいだと認めたくなかった。私が私の意思で行うならばまだしも、私の意思にあいつらが水面下であっても影響を与えて、それが表出した結果の行動を認めるわけにはいかなかった。
まるであいつらに屈したかのようで。私があの不快な奴らのせいで死ぬだなんて、それこそ死んでも嫌だった。
私を殺すのは私だけ。これは友人であっても、あの吸血鬼であっても許さない。あくまで私が私の軸であり、生殺与奪は自身が握っていないと気が済まない。
だから、今まで自殺なんてずっと頭の片隅にあっても、紐を見るたびに、高所を見るたびに憧憬を覚えても行動には移さなかった。
それを行う自分を許さなかった。
けれど、今はもうその枷を外してもいいのではないだろうか。
「オルドレット、待って」
待つわけがないだろうが。お前なんて。
ああ、ああ。死にたい死にたい。
死んで楽になりたい。
吸血鬼の王の部屋から飛び出した私は、そのまま城の中を吸血鬼から逃げ回っていた。それこそ鬼ごっこだ。捕まったら終わる。誰って、私が。私だけが。
私の肩の噛み跡が吸血鬼自身でやったことだと教えてしまえば、あの察しのいい奴のことだ。直近の自身にその記憶がなければ、必然とその前まで遡って過去の自分が噛んだ跡ではないかと気づくはずだ。
それがまずい。あいつに私が過去で会ったのだとバレることがまずい。
なぜってあいつに、過去の時点で好きだと言ってしまったから。何の衒いもなく、あっけなく。嫌悪と憎悪と不快を抱え込んでいても、あの月のような吸血鬼が好きだと認めてしまった。
それをあいつはずっとわかって私と一緒にいた。最初から、私が堕ちてくるのをわかって待っていた。悔しいやら腹立たしいやら恥ずかしいやらでわけがわからなくなる。
私を見つけてくれたのは嬉しかった。
そのために自身を変えるほどの努力をしてくれたことも。
けれど、それとこれとは話が別だろう。
ああもう。あいつを滅多刺しにしてから首を落として口付けて、灰になるまで燃やしてやりたい。
最悪だ。あいつが最初から私の中身を何故かよく知っていたことがようやく理解できた。だって、全て私が話したのだもの。ならば知っていて当然で、私の厭うことも好ましいものも知っていて、その上であいつは動いていたのだろう。
私があの吸血鬼を好きになることを分かって!
最初にあの博物館で食事をしているあいつを見た時から、あの人ならざるが故の残酷さに惹かれてはいたけれど、ここまで見通されているとは思わなかった。
名前だって、最初から知っていたんじゃない。それなのにまた名乗らせるとか、どんな罰だ。
見つけてもらってなんだが、やっぱりあいつはクズだ。
でも、それでも、あいつがそう動いていなかったら私はあの吸血鬼にここまで惹かれなかっただろうし、今もこうしてこの城に居着いていない。
あいつが私に好かれるよう努力するというのは本当だったようで、それが癪で嬉しくて仕方がない。
クズのくせに。私を助けもしないし壊すだけのくせに。クズのくせに。
本当に私を好きになるなんて、ありえない。
顔が熱くて不快でたまらない。こんな顔見せられたものじゃない。
あいつの顔なんて見れたものじゃない。
このまま鬼ごっこを続けていたって、私がすぐに捕まることは目に見えていた。当たり前だ。私は子猫にすら負けるのだから。鬼の王に勝てるはずもない。
逃げ回りながら目をつけていた部屋に入って扉を施錠する。こんな鍵なんてあいつが蹴り破ったらそれまでだろうけど。そんなことになったらまたハイデンが泣いてしまうだろうか。
でも、とにかくあいつから距離をとって落ち着きたかった。
このハイデンライシュタイン城は王城らしく、城のあちらこちらに罠だったり逃げ道だったり秘密の部屋がある。元々は王を逃したり守るための機構なのだとか。なかなかどうして、この城は王のためにできすぎている。
それをハイデンからいざという時のために教えてもらっていた。その時は、いざっていつのことだと思ったがそれは今だろう。城に興味関心が全くなさそうなあいつがそれをどこまで知っているかは知らないけれど、今はそれを活用させてもらうしかない。
クローゼットの中に入ってその奥の板を外す。これで反対側の階段まで一直線で行けるはずだが。
と同時に部屋の扉からノック音がする。
「オルドレット、出ておいで。もう、逃げないで。……ようやく、見つけたのに」
ほら、やっぱりあいつは気づいてる。
私が先ほどまで過去の自分と会っていたと、もうあたりをつけたのだろう。あちらもそれを隠すつもりもない。
捕まったらそれこそ本当に終わりかもしれない。
声を無視してクローゼットの中の隠し通路へ滑り込む。ここだってあいつが知っているなら、すぐにでも行き先がバレてしまう。あいつなら、それを見越してわざと逃がして私が動けなくなったところを悠々回収するくらいはするだろう。ノックなんてする必要ない。壊せばいいのだから。だからこれもパフォーマンス。
もう、心理戦であいつに勝てないことが腹立たしくて仕方ない。
本当に、よく私を見てる。
階段に出てそのまま東棟の展望台を目指す。東棟の連絡通路にはかなり堅牢な罠があったはず。これも実際、ただの時間稼ぎにしかならないだろうけれど、やらないよりマシだろう。
連絡通路の扉を閉めて鍵をする。ここでは閂の代わりに上から鉄格子が三重に落ちてくる。そして最後に分厚い鉄の扉が閉まってここにくる敵を食い止めるはずなのだが。
やっとの思いでバーを下ろして仕掛けを発動させる。バーを下ろすだけなのに、それだけで息が上がってその場にへたり込みそうになる。でも、展望台まで階段で上がらないと。
がん。がん。がごん。
大きく耳障りな音と共に鉄の扉が外側からの圧力で見る間にひしゃげていく。
「オルドレット?そこにいると危ないよ。離れていた方がいい」
あともう、諦めて。
あいつが柵と扉ごと蹴破ろうとしているのだろう。怪力にも程がある。バリケードの破り方が真っ向からの力任せでめちゃくちゃすぎる。馬鹿か、もう。ここも、いくばくも持ちそうにない。半ば泣きそうになりながらも、やけになって急いで展望台へ向かった。
展望台には何度か来ているが、こんなに心臓を抑えながら来たのは初めてだった。ここまでの道中の疲労でもう体力は限界だった。
ここには中央に巨大な望遠鏡、その近くにソファ、さらに階段で上がり望遠鏡を見下ろせる場所に布が垂れ込めてあるベッドが置いてある。もう隠れるなんてあとはここしか。
がごんと一際大きい音と、鉄が転がっていく音を聞いて咄嗟にベッドに入り込む。ベッドの周囲を垂れ込めてある布で閉じて、その中で張り裂けそうな鼓動の中なんとか息を殺す。
カツン、カツンとあいつのヒールの音が聞こえる。あいつはやろうと思えば物音を消して移動することだってできるのに、今はそれをしていない。ずっとこっちの反応を見ようとしているのだろう。本当に腹が立つ。
ガチャリと展望台の扉が開く。
やめて、お願いだからもう来ないで。今お前の顔を見てしまったら、私は一体どんな顔をしてしまうかわからない。
顔が、熱い。心臓の音が耳にどくどくと響いてやかましい。少しでも音が出ないようにと両手で口を押さえる。
コツコツとヒールの音が、さらに階段を上がってくる。そして、ベッドの前で、止まった。
しゃらりと布が手で払われる。思わずベッドのより奥へと後ずさろうとするが、もうこれ以上はいけない。そのことに、もう逃げ場が残されていないことに、絶望する。
「オルドレット。顔を、見せて」
ベッドが軋む。手が伸ばされる。せめてもの抵抗で顔を伏せて、手で顔を隠した。
冷たい腕で抱き込まれる。
やめろ、やめて、待って。こんな熱った顔、見せられない。私を見るお前の顔が、見られない。
ゆるく腕を掴まれ、耳元に唇を寄せられる。
「オルドレット、いい子だから」
「待って、お願い、やめ」
これ以上は死んでしまうと思った時、カツンともう一つヒールがなる音がした。
「ギルベルト」
聞こえたのは、あの少年のような老吸血鬼の声で。
「無理矢理は感心しない。そんな子に教育した覚えはないのだけれど。その子を離してあげなさい。そんないっぱいいっぱいの子に何をする気かな」
「……ロザリオ」
血の底を這うような声の後、吸血鬼はようやく私を解放し、私は死なずに済んだようだった。
♦︎
「あーあ。お前が無理矢理追い詰めるから。すっかり警戒されちゃったね。あれほど言ったのに、全く」
あの後、老吸血鬼のおかげで難を逃れた私は今も先代吸血鬼の王の後ろに隠れている。あいつの方なんて見てられない、見てやるものか。本当に死ぬかと思った。今もまだ心臓がどくどくとうるさくて敵わないし、顔が熱ってる。
「お前が何故ここにいる」
「今夜ここを訪ねると手紙をよこしたはずなのだけれど、お前見てないないのかい?」
あ、と。それは私がハイデンから言伝を頼まれていた内容で、吸血鬼と過去や現在で色々あったせいですっかり忘れてしまっていた。
若干のハイデンへの申し訳なさと共にあいつを見れば、不機嫌さを隠そうともせずにずっと私の方を見ていた。
咄嗟に目を逸らしたが、まるで常に不機嫌で冷たかった過去のあいつのようで胸がぞわりとする。
無理だ。今のあいつに対面なんてできない。捕まったら何をされるかわかったものではない。この老吸血鬼を盾にしていないとここにすらいられないかもしれない。部屋に戻ったとてすぐに捕まる。唯一あの吸血鬼を抑えられる先代の王がいるうちが、私の猶予期間だった。
「要件は」
明らかにイラついている吸血鬼に対して、あくまでゆったりと老吸血鬼は構える。
「実はお前じゃない。俺はオルドレットに用があるんだよ。だからさっきもこの子を探していたんだけれど、城の中から破壊音が聞こえたからね。まずいと思って来てみれば、本当にもう」
「私に?」
思っても見なかった言葉に目を見張る。この老吸血鬼から私に用なんて、何かあっただろうか。
「ここでは話せないことだから、別の部屋に行こうか」
「え?」
そう部屋の外へと促される。後ろからは不機嫌なあいつの気配をひしひしと感じるが、この場から立ち去れるのであればこれに乗らない手はない。さっさとあいつから逃げてしまおう。
「すぐ戻るから。それと、ギルベルト。お前、取り繕えてないよ。戻ってくるまでに直しておきなさい」
老吸血鬼と共に別室に移ると、ソファに腰掛けてすぐ、いささか困ったような目を向けられる。
「すまないね。あの子なりに君を大事にしていると思っていたのだけれど、そろそろ我慢が効かなくなって来たらしい。まあ、元々忍耐強い方ではないからね。あの子は怠惰なだけだ。あれからここまでよく持ったものだよ。俺としては頑張ったと言いたいところだけど、まだ早かったかな。さっきのは喧嘩してたわけではないのだろう。まあ、ギルベルトが悪いのだろうけど」
「……助けてくださってありがとうございました。喧嘩ではないです。ただ、少し落ち着きたかったのです。……前に水面の月の裏側に過去への道があると教えてくださいましたね」
「そうだね。稀に開く道だ。俺でも通ったことはない。そうか、君は昔のギルベルトに会えたんだね」
良かったと、微笑む老吸血鬼。まさかあいつ、そのこともこの老吸血鬼に話したのだろうか。通りでこの老吸血鬼にも私の名前も中身もバレているわけだ。
「ギルベルトから初めて君のことを聞いたのは、200年くらい前かな。もう一度会いたい子がいると。ふふ、あの子をこんなに長い期間振り回すなんて、悪い子だね」
自分があいつに会える時代も場所も言わなかった理由を見透かされているようで、何だか叱られたような気分になる。反省する気なんてないけれど。
「まあ、俺が帰ってからそのことは二人で解決するといい。今宵、俺が君に伝えたかったことは別にある。……オルドレット、今代の聖騎士は君の友人だね?」
またしても予想してなかった話の振りに反応が遅れる。なぜここであいつの話が出てくる。しかも、この老吸血鬼から。
「君と聖騎士の夜会での様子を見れば関係性はある程度わかるよ。……君にはギルベルトが世話になっているからなるべく公平でいたいんだ。俺はギルベルトと違って穏健派だしね。諸々を飛ばして話そうか。君の友人。今代の聖騎士が今、西の戦線で瀕死になっている。非常に危険な状態だ」
先ほどから驚いてばかりだが、今ありえないことを聞いた気がする。あいつが?あの友人が死にかけているなんて。ありえない。最上位の怪異であるあの月の王にすら対抗できるやつなのに。一体どういうことだ。
「早駆けの狼の頼りだからこの情報は速く正確だ。西の戦線は今、かつてないほどに荒れている。それもこれもローレライが本腰を入れて戦争を仕掛けているからなのだけれど。これが、先代の聖騎士だったならまた話は違ってきただろう。あの男はギルベルトに腕を引きちぎられて引退したが、戦争の何たるかをきちんとわかっていた。でも、まだ若い聖騎士にはいささか厳しいのかもね。なにせ経験が足りていない」
話を聞きながらも私の頭の中はぐるぐると思考が回っていた。あいつがどんな状況であっても死ぬなんてありえないとは思いつつも、一つ予感があった。
あの友人は1人で何でもできてしまう。だからこそ人に頼ることがない。その必要がないからだ。そもそも聖騎士は最大戦力だというだけで、大隊を率いるわけではない。基本単独で動く。そして、今のあいつの軸は他人を助けるという聖騎士らしいものに固まっているのだろう。
ならば、もしかしてあいつは1人で戦争をしているのではないだろうか。倒れた他のものを庇いながら、全ての敵を己だけで屠りながら、たった1人で前線を維持させようとしているのではないのだろうか。
あいつならば上位の魔女であっても簡単に殺せることはわかっている。けれど、それは単体での話だ。戦争となると訳が違う。それこそ物量がものを言う。それに加えて魔女の女皇が出てくるとなると、それはもう1人では到底担い切れるものではない。けれど、それでもあいつはそれを担うのだろう。
尽くを守ることを善として。いくら戦争で犠牲が出るからと言って、その全てを目の前で見過ごす奴ではないだろう。いや、それよりも先に自分が全てを屠ればいいとすら思っているのかもしれない。
ここまで想像して血の気が引いていく。本当にあいつならやりかねない。自己犠牲をするような奴ではない。自分が担っている責任や価値を誰よりも把握している奴だ。けれどそれ以上に他人に依存した聖騎士としての軸があいつを蝕むだろう。
実際できるのだと思う。あいつならば1人で戦争を請け負うことだって可能かもしれない。しかしそれは一時のことだろう。いつまでもそう長く持つわけがない。忘れそうになるがあいつはただの人間だ。それがわからないあいつではないと思うが、自分だけでやるのが良いと思ってしまったならばそれを貫くだのだろう。より効率が良い方へ。
そう言う奴だ。誰よりも強くて折れることのない断罪する神の刃。暖かな恵みをもたらすのではなく、灼熱と炎熱で焼き殺す太陽。
強すぎて、あいつこそ誰にも助けを求めることがない。誰のことも頼らない。
「オルドレット?大丈夫かい?顔色が悪いようだけれど」
「……ええ。はい。……大丈夫です」
「このことはギルベルトには言わない方がいいだろう、とは言っておくね。あの子は聖騎士が嫌いだから」
「前から思っていたのですが、どうしてあいつはそこまで聖騎士を嫌うのです?ただの対抗相手よりも深く……憎悪を持っているようで」
「そうだね。聖騎士というのは人間側の最大戦力であり、人々の寄る辺だ。そして、人間は往々にしてそうだけれど年を経るごとに精神も技量も円熟していく。肉体の全盛期を超えてもね。僕たち怪異、その中でも吸血鬼は精神に関してはいくら経年してもその成熟は難しくてね。その点、聖騎士は人間の中でもその精神に関しての到達点が高みにあることが多い。だから、接敵するたびにそれを見せつけられるのがあの子にとってはひどく苦痛なんだよ。ギルベルトは己の精神の脆弱さにひどく自覚的だから」
あいつの精神の脆さはわかっていたが、それが転じて聖騎士にそこまでの感情を抱いているとは思わなかった。会うたびに自身の至らなさをまざまざと見せつけられているような気分だったのだろう。しかも相手は対敵するたびに成長してくる。たまったものではなかったのだろう。
これは確かに聖騎士の話をあいつにするのは危険かもしれない。
「君に伝えたかったことは、これだけだよ。この情報をどうするかは君が決めなさい」
「……はい」
「ただ、友人のことをどうにかするつもりなら急ぎなさい。本当に猶予はないよ。事態は刻一刻と動いている。今この瞬間も戦争は続いているのだから。……ではね。ギルベルトによろしく伝えておいて。今度また会える時を楽しみにしているよ」
夜風と共に老吸血鬼が去った部屋で、一人先ほどの話を振り返る。
友人が死んでしまう。そのことを考えただけで胸の内から氷漬けされたように体が冷えていく。そんなことは望んでない。私はあいつの幸福をただ祈りたかっただけ。真っ当に私なんかに左右されずに生き抜いて欲しかった。こんな早くに死んでしまうなんて許さない。
けれど、この状況を一体どうする。私が西の戦線に行ったとて、どうにもならないことは火を見るより明らかだ。魔女の一人や二人ならば、自害に持っていけるかもしれないが、戦争の乱戦の中に飛び込んだところで私ができることなんてない。なにより、魔女の女皇は私では御せない。それに今から北東の端にあるこの城から西の戦線までなんて、たどり着くまでに友人が持たないかもしれない。
私はあの友人のために何もできない。子供の頃からあんなに助けてもらったのに。どうして肝心な時に私は役に立たないの。魔性なんてあったところで、結局私は無力だ。でも何もしてないうちに、大切な友人が、アイズが死んでしまうなんて耐えられない。
はくはくといつの間にか浅くなっていた呼吸の中、泣きそうになる。どうにかしないと。何とかあの友人を助けないと。
でも、今すぐ西へ向かえて、尚且つ魔女の女皇に対抗できる手段なんて。
「オルドレット。いつまでも戻ってこないから向かえに来たけれど、どうかしたの」
唐突に背後の扉が開いて、私の目の前に現れたのは先ほどより落ち着きを見せた吸血鬼の王だった。窓から差し込む月光で金の瞳と髪が鈍く煌めいた。
「……ギル。お願い、助けて」
♦︎
言ってしまった。今まで誰にも本当の意味で助けを求めたことなどなかったのに。あの友人にすら言えなかった言葉を、ようやく言えた。遅すぎたかもしれない。もっと早く私が誰かに助けを求めていれば、今こんなこんがらがった私にはなっていなかっただろう。いや、もうそんなことどうでもいい。今はこの王様に縋るしかない。
胸を押さえて震える声を出した私をあいつはどう見たのだろう。先ほどは私を死にかけるまで追い詰めて、過去のように無表情になっていた吸血鬼は口調から見れば落ち着きを取り戻しているようにも感じる。
顔は正直見るのが怖い。どんな感情を持って私を見ているのだろう。この吸血鬼からの感情は私には強すぎる。
そのまま俯いて黙っていると、腕が伸ばされ横抱きにされる。そしてあいつのベッドの上に下ろされた。向かい合わせで座らせられ抱き込まれる。冷たい温度がひどく心地良かった。
「どうしたの。ロザリオと何があったのか話せるかい。君が壊れていく様は見ていたいけれど、泣いている顔は僕が困ってしまう。……君が僕に助けを乞うなんて、初めてだね。僕にどうして欲しいの?言ってご覧」
それから私は老吸血鬼から聞いた話を伝えた。西の戦線で友人が死にかけていると。そして、それを助けに行ってほしいと。この吸血鬼の王ならば瞬時の長距離の移動も可能だし、魔女の女皇相手でも問題なく対処できる。女皇はこいつ相手には部が悪いと言っていた。おそらく戦闘力で言えばこの王の方が上だろう。
だから、どうか、友人を助けてと。
こいつが聖騎士を快く思っていないことは先ほども聞いたし、前々からわかってはいた。それでも、私はあの友人を諦めきれない。いつかあの高潔さが消費されるならば死んでくれとまで思ったのに。そして結局現在教会に利用されて死にかけている。それを聖騎士にまで自力で上り詰めてしまったあいつの天命だとは思いたくない。
聖騎士を誰よりも憎悪する鬼の王に縋ってでも、友人に生きて欲しかった。
私の話を聞いた吸血鬼の王は私を抱きしめたまましばらく黙っていた。怒らせただろうか。それでも当然のことを頼んでいる自覚はある。でも、どうか。
「ギル。お願い」
こいつが私に好意を持っていることはもう本人から言われている。未だ過去ではなくこちらでのこいつに返事を返していないそれを利用しているようで、罪悪感も伴い胸が苦しくなった。
「君は恋敵を僕に助けろと言うんだね。本当に酷なことを言う。僕をクズだと言うのは君の自由だし、僕自身も自分の中身は碌でもないと自覚してはいるけれど、君も往々にしていい性格をしている。好いた相手にこれほど非情なことを頼まれるとはね。さらに惹かれてしまうよ」
あははっとひどく楽しげな笑い声が聞こえた後に、唐突に顎を掬われ目を合わせられる。
見えた顔は恐ろしいほど綺麗に笑っていた。弓形に歪んだ目は据わり、冷たくこちらを射抜いていた。もうわかる。機嫌が最悪な時の顔だ。
やはりこいつに頼むのは無理があったか。苛烈で怠惰で自滅的な吸血鬼。何を持って何に傾くかいつまで経ってもわからない。でも私には他に手段がない。こいつに頼るしかない。どうしたら。
「……ダメ、なの」
「ダメとは言っていない。嫌だけれど。そもそも僕にそれをやる得も義務もないからね。このまま今代の聖騎士が死んだところで、どうでもいい。むしろ手間が省ける。君が気にかけていた相手でもあったからね。その人間が死んだ後の君を考えるだけでも楽しそうだ。ただ壊れる理由が僕でないのがやはり気に食わないけれど」
ああもう。何度も思うがこいつはクズだ。私を壊すことに楽しみを見出さないでくれ。それに、もし本当に友人が死んだらそれこそ私は何をするか本当にわからない。欠けて、壊れて、自分でもどうなるかわからない。
この吸血鬼を好きでいられるかも、わからない。
「だから、ダメとは言っていないよ」
「……助けてくれるの」
「助けない」
「なら」
「等価交換だよ。悪魔のように契約と言ってもいい。僕はいくら君の頼みでも、君自身がが理由でないと動きたくない。君から差し出されるもので手を打ってあげる」
「……私は何をすればいい」
ケット・シーや悪魔様と契約した時よりもよほど恐ろしいことを、たった今やろうとしている気がする。
怪異は、特に上位の怪異は約束を違えない。けれどそれよりも恐ろしいものに束縛される。
手札は悪魔様の時と同じ。私は何も持っていない。そんな私にこいつは何を望むの。
「難しいことじゃないよ。君に無体を働くなんてことも当然しない。……君が前につけていたピアスがあったね。それを僕にくれるかい?壊してあげるから」
今でもとっておいてあるだろう、と美しく微笑みながら私にとっては最悪なことを鬼は告げた。
「ただのピアスだろう。今は僕があげたものをつけているし、いらなくなったものを処分してあげるよ」
こいつ絶対にわかってて言っている。こいつが言うピアスは私が友人から子供の頃もらったもので、それからずっとつけていた。お守り代わりと言ってもいい。今まで何があってもずっとこれを寄るべに耐えてきた。今はもう会うことの叶わない友人との唯一の接点でもある。
何も持っていない私のただ一つの大事なもの。それをこいつは破壊しようとしている。それがどう言う意味かなんて考えるまでもない。私と友人が完全に断たれてしまう。そんなこと許せるはずが。
「ダメ?でも、君が僕の頼みを呑んでくれないと、僕は君のために動けない」
耳元で囁かれた声はぞっとするほど甘やかで、くらくらするほど残酷だった。
ガリッともうピアスをしていない右耳を血が出るほど噛まれる。息を呑んでその痛みに耐えていると、流れた血ごと耳を喰まれ舐め取られていた。嚥下する音と水音が直に脳に響いて酩酊しそうになる。
「ねえ、オルドレット」
吹き込まれた声に息が詰まる。殴りたいし詰りたいけれど、このクズに惚れたのは私で、それを利用しようとしているのも私だった。最悪だ。
でも、友人を手放さなければ友人を救えないなら、もう手段はないのだろう。私はこいつにしか縋れない。
この鬼の手しか取れない。
「……わかった。あのピアスをお前に渡す。それで、いいでしょう」
「ああ。もちろん。約束は違えないよ。ちゃんとあの聖騎士の元へ行ってあげる。君のために」
さあ、と手を開かれる。ピアスを寄越せと言うことだろう。するりとあいつの拘束を抜け出て隣の自室に滑り込んだ。スツールの1番上の引き出しを開けて、友人からもらったピアスを取り出す。
触れて、握りしめた途端に涙が溢れる。ああ、だめ、やっぱり。我慢してたのに。あいつとの繋がりが立たれるのがひどく辛くて、苦しい。これがないと、今まで私は一人で立つこともできなかったのに。どれだけ痛くても泣きたくても、あいつのおかげで自身を保てていたのに。
最後にあの友人と別れた時の笑った顔が脳裏を掠めた。私はもう、あの顔を二度と見ることはできない。このピアスを壊されたら、それを憧憬として思い起こすことも許されない。
それでも、あの高潔で優しく愚かな友人に恩を返せるならばそれも手放そう。私は地獄であいつの冥福を願うと、そう言ったのだから。
「ああ。泣いていたんだね。可哀想に。大丈夫、君が約束を果たしてくれるなら僕もそれを違えないから」
私の目元に口付けを落としながら、愉悦を湛えた笑みを浮かべる吸血鬼。クズだな、本当に。全部わかって、私を壊そうとしてやっていることなのに。それに惚れた私もどうかしているが。
手が震えないように鬼に渡したピアスは、私の目の前で呆気なく砕かれた。
ぱきりぱきりと、あいつの手の中で音が鳴っていくごとに私の中身が冷たくなっていく。反対に喉は渇いて焼けつきそうで、この場で泣きたくはないのに。このクズの前で。
わざと時間をかけて粉々にされたピアスを見た私はどんな顔をしていたのだろう。ただ、あいつが愉快だと言わんばかりに笑っていたことは確かだ。
すると突然腰を引かれて、口付けられる。ただでさえ息を詰めていた中に舌を捩じ込まれて息ができない。長い舌を口腔の奥まで押し込まれて嬲られる。
苦しくて、意味がわからなくて、襲ってくる酩酊感に身を任せたくなくて生理的に涙が流れる。
合わされた唇から漏れた水音は、あいつに臓腑を掻き混ぜられたことを思い起こさせた。
ようやく解放された時には息も絶え絶えで、あいつに支えられていないとベッドに伏してしまいそうだった。
いや、いきなりなんだ。本当に何を考えているんだこいつ。
「ごめんね、君のそんな顔を見たのは初めてだったから。あまりにも善い顔をしていて、我慢できなくてついね。約束通り渡してくれてありがとう。安心していい。今すぐ西へ向かってあげるから」
もう一度、軽く口づけを落として吸血鬼は部屋から立ち去ろうとした。
「待って」
最後にあの友人への伝言を頼むと、うっそりと微笑んで月のように美しく残酷な鬼は立ち去って行った。
本当に助けに行ってくれたのだろうか。
あのクズ、とは言っても吸血鬼が約束を違えないのは本当だし。
残されたピアスの残骸を見つめて、私はもはや存在しない何かに祈ることしかできなかった。
どうか、あの高潔な友人が長らえますように。
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