ch.21 Full moon

 

「お願い。私を離して」


 城の外へ出るためにどうにか、なぜか私を手放さない吸血鬼を引き剥がそうと言った言葉だった。

 だがやはり、というべきか。当然そいつは良い顔をしなかった。

 月と同じ金の瞳だったはずだが、見る間にどろりと月が欠けるように翳っていく。身じろぎしたと思ったらかぱりと口を開けたので、噛まれる前に虚なままの吸血鬼の顔に手を添えた。


「ギル。お願いだから」


 目を合わせても合わない瞳をどうにか見据える。するとどうやらそいつは噛むのを辞めたらしい。

 そして不意に冷たいと感じる。また口付けを落とされていた。同時に吸血鬼の右手が私の腹部を撫でる。

 今まで私に触れないようにしていたこいつが、今私に触れようとしていることがどういう意味か、瞬間的に気付いて身を捩る。が、そのまま体重をかけられ押さえ込まれる。

 こいつ相手に気付いたところでどうにかなる話ではなかった。


 ずぐり、と。一瞬で形容し難い異物感と息が止まるほどの痛みに襲われる。

 ぐちゃりと不快な水音と共に、自身から急激に体の感覚がなくなり見る間に悪寒が支配する。

 腹部を刺し貫いた吸血鬼の手が、私の腹の中身をかき混ぜていた。

 どうして、なんて思わない。いかにもこいつがやりそうなことだ。むしろ私がここに来てから今まで、無事でいれたことが不思議なくらいだ。

 私を知ってようがいまいが、ふとしたことで傾いて、それでいて何をしでかすか全く読めない。

 そんな危うくて苛烈でどうしようもない奴が、私が惹かれた鬼だった。


 しかし痛いなんてものじゃない。凄まじい不快感に意識を飛ばされそうになる。口は塞がれていたが、まあよく声を上げなかったものだ。

 それにここで気を失ったら、本気でこのまま殺されかねない。この場で死ぬ気はないしこいつに殺される気もまだないのだけど、これはもうわからないかもしれない。

 またしてもこいつの気分次第になりそうだった。

 しかし耐えようにも吸血鬼からの口付けはまだ続いていて、舌が捩じ込まれているため呼吸もままならない。

 口付けられていたせいか、これ以上の痛みを頭が拒否したのか。腹の中でそいつの手が動くたびに甘くぞくりとした感覚が走る。 

 いよいよまずいかもしれない。通常では持ちえるはずのない感覚に体が麻痺する。

 ようやく口を離され息ができると思いきや、ごぽりと自分の口から尋常じゃない量の血液が溢れた。

 熱っぽいため息をこぼした吸血鬼が猫のように擦り寄ってくる。顔を動かすのもままならない中見れば、瞳の濁りは変わらなかったが微かに頬が上気していた。目を細め軽く口付けるように私から溢れた血液を舐め取っていく。

 そしてそのまま再び深く口付けられる。

 腹の中の手はぐちゃりぐちゃりと耳触りな音を出し続けていて止まらない。リップ音とグロテスクな水音が響いてくらくらする。

 体の中を掻き回される不快感と口付けられたことでの酩酊感。そして頭が拒絶し麻酔のようになった痛み。

 耐えず与えられる全ての刺激に気が狂いそうだった。腹の中の不快感を受け入れないうちにどうにかしないと、これ以上はおかしくなる。

 完全に、私が壊される。

 

「ぎ、る」


 自分が呼吸する音がやけに大きく聞こえた。それに比べれば、あいつを呼んだ声なんて微かだと思った。

 だがそれでも、ちゃんと私の声は聞いてくれたようだった。今度はこちらの焦点が合わない気がするが、目線を合わせて伺ってくる。こちらを伺う余裕があるなら、最初から腹に風穴を開けるなんて行為をやめて欲しかったが。

 

「もう、むりよ。……ゆるして」


 そしてまたごぽりと吐血する。

 たっぷり10秒は待っただろうか。私の唇を喰みひと舐めして、ようやくそいつは動きを止めた。

 息も絶え絶えで意識を手放しそうな中の訴えは、どうやら吸血鬼に届いたらしい。

 届いたからと言って、あの人間性も道徳も捨て去った鬼が聞き入れるとは限らないことを、今の狂った頭では気づけなかったが。

 唐突にずるっと腹から手が引き抜かれる。ぶちぶちと腹の中身が引っ張られる感覚と共に。

 見れば私の血で真っ赤なそいつの手には臓器が握られていた。

 腑を、引き摺り出された。

 とうに閾値にいったと思った痛みがぶり返す。耐えようにも入れる力はもうなく、叫ぼうにも口から漏れるのは浅い息だけだった。

 ごぽり、ごぽり。吐血だけではない。吸血鬼が手を引き抜いたせいで腹の風穴から絶えず血が流れ、シーツを見る間に染め上げる。

 血が流れすぎた。

 もうこれ以上はだめだ。

 気も狂わんばかりの不快感と酩酊感の中、諦めと共に目を閉じる。

 間際に見たのは、私から引き摺り出した臓腑に口付ける吸血鬼の姿だった。


 ♦︎


 目を開けると、見慣れた天蓋が見えた。

 意図せず見慣れてしまったあいつのベッドのものだった。

 意識が覚醒してまず、目が開けられたことに驚く。どうやら長らえたようだ。しかもどこの欠損もなく。あの状態から無事だったのは、もう奇跡と言っていい。というか、あいつの気分に左右されながらも無事だったことが奇跡だ。

 腹部の風穴はすでに塞がっていた。まだ頭が多少くらくらするが、そこまでじゃない。

 おそらく傷を塞いだのもあいつだろう。吸血鬼の血液には凄まじい治癒能力があると、あいつが言っていた。だから腕を引きちぎられようが、胴体がばらされようが血があるならば再生できると。

 それは吸血鬼本人だけではなく、血液を塗布した他の相手でも同様の効果があるらしかった。多分あの後、私に自身の血でもかけたのだろう。それも気分だろうか。

 一体ここに来てから何度、あいつの気分に助けられたのだろう。こんな思いはもうできればしたくない。

 でも、もし気分でないとしたらどうだろうか。

 ここまで考えて先ほどの惨状も思い出してしまった。呆れなのか諦めなのかわからないため息をつく。

 普通あれは死ぬだろう。何をしてくれてるんだ。まだ臓腑がかき混ぜられている感覚がして、不快感に息を止める。

 シーツも服も新しく変えられていたのは、ハイデンがやってくれたのだろう。あとでお礼を言わないと。

 それに、と起き上がって辺りに視線を散らす。

 あいつがいなかった。

 私の腹を掻っ捌いた、あの月のような吸血鬼。

 ここに来てから、予期せずあいつのベッドで寝ていることが多かったが、その時には必ずあいつが隣で寝ていた。

 だが今はいない。

 私を治して、それからどこに行ったのだろうか。

 枕側の月光を採光している箇所以外は、全てカーテンで閉じられてしまいベッドの外は見えない。とりあえず、あいつを探してまた宥めながら説得を試みようとカーテンをたぐる。

 そうはいっても説得はもはや無理そうに感じる。それでも黙って、または出し抜いて外に出ようとする方がまずいことになりそうな予感がするが。

 どうにかできる目処が立たず頭を抱えたくなる。まずはあいつと話さないことにはどうにもならないと、ベッドの外へ出た。

 部屋には誰もいなかった。ただでさえ音のない城の中、ここまで静寂に包まれていると動くのもなんだか憚られた。

 それでもまずはあいつに会わないとどうしようもないので、すっかり元通りに修繕されている部屋の扉に手をかける。

 鍵でもなんでもされて開かないと思っていた扉は思いの外、簡単に開いた。

 あいつはどこにいるだろう。浴場か、私と会った水辺か、それとも月がよく見えるから最上階の天文台だろうか。

 いや、あいつはピアノの音が好きだったから、ピアノが置いてある部屋にいるかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていたからだろうか。自分の目の前を塞ぐものに気づくのが遅れた。

 私の行先をあの城化物が阻んでいた。


『ご無事でなりより。ですがどうぞ、お部屋へお戻りください』


 カードの口調は丁寧だが、ここから退く気はないのだろうという圧を感じる。


『お食事でもなんでも、ご用意いたしましょう。さあ、お部屋へ』


 城主に忠実とはこういうことを言うのだろう。

 この城化物も、私を外へ出す気がない。

 これはいよいよ、あの吸血鬼に話をつけないとどうにもならなくなってきた。そもそもこの城化物が城の門を閉じてしまえば、私ではどうやったって開けられない。


「あいつはどこ」

『王はじきにお部屋へ戻られます。そこでお待ちになってはいかがでしょう』


 何がなんでも、城化物は私を部屋に戻したいようだった。おそらく、あいつの自室の扉が私でも開くようになっていたことと関係があるのだろう。


『お願いです。どうかお戻りを。ここから逃げてはいけない。また、酷い目に遭ってしまう』


 あいつが部屋の扉を開けておいたのは、私が部屋から出ようとするのを予期してのことだろうとは思っていた。

 普通に考えれば内蔵を引き摺り出されるなんて、一生残るトラウマになっていてもおかしくない。一刻も早くここから逃げ出したくなるだろう。

 そしてそれを読むのも容易いだろう。

 あいつは私が逃げ出すのを待っている。

 待った上で出す気はないし、捕まえて先ほどと同じようなことをするのだろう。何度でも。

 私を今ここで殺す気がないことはもうわかった。殺す気はなくとも、食べる気がなくとも。壊す気はあるのだろう。あいつのことだ。私が自分から諦めるまで、つまりは壊れるまで、やるのだろう。

 私が昏倒した後の惨状を見たのだろう。城主に忠誠は誓っていても、私のことを知らなくても。相変わらずハイデンは優しかった。

 私がこれ以上、あんな目に遭わないように気にかけてくれているのだろう。実際、また腹を掻っ捌かれるなんてごめんだった。


「逃げ出すわけじゃない。あいつに会いたいの」


 無表情でもこちらを気遣ってくれているのは痛いほどわかった。


「あいつはどこ。ギルに、会わせて」


 ♦︎


「よく、俺の顔を見に来る気になったな」


 似たようなセリフを最近聞いた気がする。

 ハイデンが案内してくれたのは、城の東塔の最上階にある天文台だった。

 天井はドーム型のガラス窓で、そこから一際大きい月がよく見えた。そして月明かりの中で存在感を示すのが、部屋の中の誰よりも大きな望遠鏡だった。

 吸血鬼は望遠鏡を覗くでもなく、そばにあるソファに腰掛けて、こちらを見ずにただじっと頭上の月を見ていた。

 

「次同じことをしたら、二度と口きいてやらないからな」


 差し込む月光以外光源がない薄闇の中、吸血鬼の髪は光を受けて淡く煌めいていた。

 あい変わらず見惚れるほどの容姿をしているが、そんな感情は無視して隣へ座る。


「もう、帰るわ。この城から出ないと」


 また機嫌を損ねて噛まれるかと思ったが、いまだにこちらを見ない吸血鬼はことの他、落ち着いているようだった。


「それを、言いに来たのか」


 雲が流れ、月が翳る。


「俺が、お前を帰すと思うのか」


 滔々と月を見上げながら言葉を紡ぐ吸血鬼。感情はやはり、読み取れなかった。


「ギル」


 ゆっくりと視線が合う。吸血鬼の髪がさらりと揺れた。


「どうして、私を殺さない」


 詰まるところの疑問はそれだった。先の時間で私と関わりがあったとしても、現在のこいつが私をここに留めておく理由にはならないはずだ。

 苛烈で虚な吸血鬼。個体として完成された存在。

 それがなぜ加減してまで、会ったばかりの人間を殺さずにいたのか。なぜ私をそばに置きたがるのか。私を知らないお前が。

 こいつに会ってからずっと、わからずにいた。


「お前がいると、よく眠れた」


 それは、あいつにも言われた記憶がある言葉だった。


「その耳飾りを俺がお前にやったのだろうことは、すぐにわかった。俺がお前を見初めたことも。俺が誰かに入れ込むとは、想像がつかなかった。俺のことは俺こそ予期できない。だが俺が惚れたお前ならば、この虚を退けられるのではと思った。お前は何度も、俺の名を呼んだな。その声が心地よかった。ロザリオの他に、俺の名を呼べる者がいるとは思わなかったが。殺すには惜しくて喰う前に、お前を知りたかった」


 この状態のこいつが、こんなに言葉を紡ぐのを見たのは初めてだった。合わないと思っていた視線は、今はちゃんと私を捉えていた。

 

「俺に構うお前を見ていたら、手放したくなくなった。そしてあちらの俺の近くにお前がいることに、嫉妬した」


 気づけば、月が隠れるくらい近くにいた。金の髪がさらりと視界を覆う。柔らかな髪が頬に当たってくすぐったかった。  

 月の濁りは変わらない。

 

「お前が、欲しくなった。お前のそばだと、息ができたから」

 

 私に触れないように、指が毛先を撫でていく。

 その手を、押し返す。当然ながら、指を絡めても握り返されることはなかった。


「お前のそれは、一時のものよ。辛い時に体よく近くにいただけのものに、愛着が湧いただけ。私じゃなくてもいい。今じゃ、なくてもいい。だってお前、私を見ていないもの」

 

 吸血鬼の目はずっと濁っていた。虚で何も映していなくて、何も映していないならそれは、もう何も見えていないのと変わらない。


「自分が圧迫されて、辛いのでしょう。寂しいのでしょう。わかるよ。そういうお前を見て来たから。お前を楽にしてあげたい。息をさせてあげたい。でも、私は私を好きなお前のためにいてあげたい。私のために身を砕いてくれたあいつに報いたい。今のお前は、私を好きなわけではないから。お前を埋めるのは私でなくてもいい。でもあいつには、私でないとダメ。私で埋めないと、嫌」


 機嫌が悪くなるかもと、思った。せっかくの満月なのに。

 私を好きでいてくれるあいつは好きだけど、お前は私を好きじゃないから嫌、だなんて。

 でも本当だった。

 目の前のこいつをなんとかしてあげたいのも本当。だけれども、そう思うのは私をあいつが好きになってくれたからそう思えるようになったのであって。

 私を知っていようがなかろうが、ギルはギルだから。目の前のこいつのことだって嫌いじゃない。嫌じゃない。

 普通には選べないから、より私を必要としている方へ。

 こんなこと、少し前までは思いもしなかっただろう。好意には嫌悪を何倍にもして返していた私だ。私のことが好きなやつのために帰りたいだなんて、我ながら随分と変わったものだ。その変化が自分にとって喜ばしいことなのかはまだ判断できないが。なんたって、今まで生きてきた大半の自分の軸を曲げる行為だ。言葉を紡いでいる今だって、言った言葉を今すぐ否定して逃げ出したい自分がいる。

 けれど、それでも。この月の鬼のために自分を使いたかった。


「お前も、俺に相当入れ込んでいるのか」


 ずっと冷たく無表情だったこいつが、微かに笑ったように見えた。


「俺が、好きか」

「好きよ」


 するりと口をついて出た言葉に自分でも驚く。

 そうか。そっか。わかってた。


「好き」


 あいつに言えないくせに、今こいつに言ってどうする。


「好き」


 気持ち悪いでしょう、好意なんて、感情なんて。私からそんなもの、誰にも向けたくなかったのに。


「好き」


 なのに、どうして。

 こんな風に好意の感情を吐露するのは初めてで、繰り返すたびに喉が締め付けられた。頭がくらくらして、顔が熱くなって、吐きそうだった。

 今まで押し込めて絶対に出さないようにしていた感情を表出したために、涙が溢れる。


「ならばそうか。俺は先の俺のせいで振られたのか」

「そうかもしれない。本当に私が欲しいなら、次会うときまでに同じところまで堕ちてきて」

 

 目元にキスを落とされる。それでも涙は止まりそうにないけれど。

 そのまま吸血鬼は首元に顔を埋めた。


「……わかった。お前を見逃そう。けれどただでは逃してやれない。お前の全てを置いていけ。名前から、お前が何を好んで何を厭うのか。お前の今までのことを、全て。再びお前を見つけた時に、お前をちゃんと愛せるように」


 それから私は、自分が何が好きで、何が嫌いで、何でできてるか。猫は好き、それ以外は嫌い。男性はもっと嫌い。そんなことを話して聞かせた。私の魔性のことや、親のことも。教会のことも。質問されたことは全て答えた。

 あの友人のこと以外は。あれだけは私だけのものだから。


「これで最後だ。お前の名を、俺によこせ」


 どこまでも横柄に傲慢に王様は言い放つ。思わず笑みがこぼれた。仕方ないから、教えてあげる。


「オルドレットよ。オルドレット・アイリーン」


 私の過去と私の名前。今この吸血鬼にあげられるものは、これで全部。


 ♦︎

 

 ハイデンライシュタイン城のエントランスホールの扉の前。吸血鬼と私は向かい合っていた。


「水面の月の裏を通ってきたのなら、同じようにすれば元の場所に戻れるだろう」

「そう。ありがとう」


 吸血鬼は近寄ってぐりぐりと肩口に擦り寄る。やはり猫だ。


「……行くのか」

「ええ。帰るわ。お前がいるから」

「……そうか」

「ねえ、ギル。一つ頼みを聞いて」


 もうこいつの名前を呼び慣れてしまったことに苦笑する。けれどまだ、呼ぶたびに名前にのる感情には慣れそうもない。

 こてりと首を傾げる吸血鬼の頬を撫で、顔を寄せる。私は初めて博物館でこの吸血鬼と出会った時のことを思い出していた。


「お願い。私を見つけて。私ではお前を見つけることができない。探せない。だから、お前が私を探して。そして、離さないで」


 目を見開いた吸血鬼が初めて私を見た気がした。


「私はきっと厄介よ。お前から逃げ回るし、拒絶もするでしょう。滅多なことではお前が近づくことすらも許さない。でも、どうか諦めてくれないで?必ず、お前を」

 

 好きになるから。

 だからどうか。私と一緒に同じところまで堕ちて。

 私もお前とじゃないと息ができないの。

 窓からの月光に照らされた吸血鬼は、フッと寂しげに笑った。


「そうか。わかった。お前に好かれるよう努力しよう。ただ、次会った時は逃してやれない。俺は必ずお前を捕らえるだろう。いいな」

「どうか、そうして。でないと、私はきっと何処かへ行方をくらましてしまうから」

「俺を散々猫だと言っていたが、俺から見ればお前の方が捉えどころがなくよほど猫らしい」


 そうだろうか。友人には時限爆弾搭載型トラバサミと言われていたが。

 吸血鬼と私が出会うまで200年ほどある。それは今のこいつには伝えていないけれど。私が吸血鬼と会う時代も場所も教えなかったのは、ずっと私を探していて欲しいから。そんな性格の悪いことを考えてしまったから。こいつの空白に、私以外いなければいいと思って。しかしその間にもしこいつの気が変わりでもしたら、とふと考えてしまった。


「……浮気したら呪い殺すわ」

「お前ならば本当にやりかねないな。俺でも殺されそうだ」


 くつくつと控えめながらも楽しそうに笑う吸血鬼を、この時代では初めて見たかもしれない。ここでは、こいつはずっとムッとして無表情で冷たい顔を崩さなかったから。

 これから先、こいつは一人であの新月を、白夜を過ごすのだろう。そう考えると、やはり放って置けなくなる。今のこいつに絆される前に早く城から出た方がいいかも知れない。


「もう、行くわ」

「待て」


 また、口づけられる。唇を喰まれて少しだけ長く。


「お前も俺以外を愛してくれるな。でなければ、きっと俺はお前を壊しつくしてそして、そのなれの果てを愛で続けるだろう」

「やっぱりお前はクズよ」

「それでも俺に惹かれたのだろう。ならばもう一つ」


 かぱりと口を開けて何をするのかと思えば、そのまま肩に噛みつかれた。血は出てないが歯形はくっきりついた。触ればわかる。いや、何をしてくれたんだ。


「意趣返しだ。せいぜい悋気に苦しむといい」

「は?」

「お前ではない。ではな。これ以上は離してやれなくなる」


 さあ行け。

 これから一人にしてしまう吸血鬼に後ろ髪を引かれながらも、城の大扉をくぐる。

 あの猫が湖の縁で待っていた。

 水面には満月がここに来る前と変わらず揺らめいていた。


 ♦︎


 肌寒さを感じて目を覚ますと、湖の縁に寄せられた小舟の上に横になっていた。今はいつなのだろう。あれからどれくらい経ったのか。


「みゃう」

 

 あの猫はすでに城の門の前で跳ねていた。急いで猫に続いて城の中へと入る。時刻は私が城を出た時間から数十分しか経っていない。日付もそのままだろうか。どうもこの城にいると日付感覚も時間感覚もわからなくなる。

 ホールで洗ったのであろうカーテンを運ぶハイデンが目に入った。あちらも、私に気づいたようだった。


『言伝は王に届きましたでしょうか』

「まだ眠っていたの。今から伝えるわ」


 どうやら日付も変わっていないらしい。そのことに安堵する。

 あいつの部屋に行くと、吸血鬼はベッドに座ってぼーっとしていた。今起きたばかりらしい。


「オルドレット、どこに行っていたの?」

「猫と外に出ていたの」


 未だうつらうつらしている吸血鬼の隣に腰掛ける。すると腕が腰に回されすぐに抱き込まれる。

 そのことにふと驚く。そうだ。こいつは元々、手足の力の加減ができないから私を壊す目的以外では私に触れてこなかった。

 しかし、今のこいつは違う。私に触れられる。力の加減を、覚えたのか。

 口調といい、柔和な態度といい、私が逃げないように、怖がらないように自身を変えたのか。

 そのことに胸の辺りが締め付けられる感覚を覚える。喉が震えて、うまく息ができない。

 本当に、見つけてくれたんだ。ずっと待ってくれていた。私のわがままで身勝手な約束を守ってくれた。この吸血鬼に初めて会った時から今までのこと、そして先ほどの過去でのことを思い出して、胸が苦しくなる。はくはくとやっとの思いで息をする。

 泣きそうになるのを誤魔化して吸血鬼の肩口にぐりぐりと頭を押し付けていると、ぎゅうと私を抱きしめていた吸血鬼がふと固まった。


「ねえ。オルドレット。この跡、何」


 喉が震えそうになっているために声が出せずに、首を傾げる。


「誰がつけたのか、聞いてもいいかい」


 冷たい指で肩を撫でられる。

 あ、と思い出す。それは過去のこいつに噛みつかれた跡だ。つまりはこいつ自身なわけだけれど。


「どうして、答えてくれないのかな。僕以外にここまで許すのは君の勝手だけれど、君を好きだと言った奴の前にこんなものを見せるんだ。へえ」


 端的に言えば逃げたい。機嫌が良さそうに聞こえるが絶対急降下している。そんなこと顔を見なくてもわかる。それほどの付き合いになってきた。

 しかし、正面から抱きつかれているし腰に回された手は力がどんどん強くなる一方でまず無理だった。

 それでも加減されていることがわかるから、私を思って逃してくれた先ほどまでの過去のこいつを思い出して泣きそうになる。でも震えた声なんて出したくないし、今ここで泣きたくなんてない。だからだんまりをきめこむしかないし、顔は見られないように逸らしたいのだけれど。

 それに、そもそもこれはお前がやったものなのに。

 過去のこいつが言っていた悋気とは、先の時間の自分に向けてだったのかと今気づく。やはりなんてことをしてくれたんだ。気づいたところで被害を被るのは私だ。

 というか、そもそもこいつに嫉妬なんて感情は……いやあったな。過去の時点で似たようなことを言われた気がする。私に何かあっても助けなかったり、むしろ不利になるようなことをしたり、壊してきたり。本当に私のことが好きなのか首をかしげたくなるほど散々なことをされてきたが、私に接触した誰かに嫉妬するくらいには入れ込まれているらしい。

 そのことに、また胸が苦しくなった。嫌悪も憎悪も不快感も、今は忘れられた。


「オルドレット。いい子だから僕を見て?ダメ?ならどうしようか。声も出してくれないし。そうだね、歯形の部分ごと僕が食べてしまうのと、君が答えるまで臓腑をかき混ぜるの、どちらがいい?」


 だから、やめろ。なぜその二択しかない。また腹の中に手を突っ込んだら二度と口をきかないって言ったじゃない。

 やっぱりこいつはどうしようもないクズだ。さっき感じた私の胸の痛みを返せ。

 ベッドに押し倒され、あいつの片手で頭を固定させられる。これでもう顔はそらせなくなってしまった。顔を、見られる。


「……どうして、そんな顔しているの」


 今の私ははくはくとかろうじて息をしながら、泣き出すのを我慢している。どうしてと言われたら、だからそれはお前のせいだ。

 お前が、私を見つけたから。


「それほど、不快だった?」


 口調が柔らかくなる。私が暴漢にでも襲われたと思っているのだろう。しかし、暴漢ではなくお前だし、嫌なことかと言われれば、別にお前に噛まれるなんていつものことだしな、と考えていると。顔色を読まれたようで吸血鬼の目が据わっていく。


「嫌ではなかったんだね、ふうん」


 見る間に笑みを深めて、さらに体重をかけてくる。まずい、また機嫌が悪くなった。だからどうしてお前も私の内面を読み取るのが上手いんだ。自分で言うのもなんだが、私は基本無表情で笑わないし、嫌悪と不快の感情以外は出さないようにしているのに。

 もう白状しないと、本気でさっき言ったことをこいつはやりかねない。


「……この跡をつけたのは、お前よ」

「僕?」

「それ以外、あるはずないじゃない」


 震える声でなんとか答えると、ようやく体を私の上からどかしてくれた。起き上がって、少し考え込むふうな吸血鬼。

 いや、待て。この情報を今のこいつに与えるということは。


「ねぇ、オルドレット。君、」


 吸血鬼が何かいう前に、私は王の部屋を飛び出した。

 顔が熱くて、熱くて、不快に思う余裕もなく駆けた。

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