ch.13 Hide and seek

 私は猫が好きだ。好きだと言う言葉そのものもその感情自体も嫌悪している私だけれど、この一点に関してはなんの衒いもなく言うことができる。

 それは子供の頃にケット・シーから受けた恩に始まり、鋭く開く目も夜を好む性質もなんらかの親和性を感じるのか惹かれていった。艶やかな毛並みも柔軟に富んだ四肢も好ましいけれど、何よりなんの感情も持たず自分以外のことはどうでもいいと言わんばかりの気まぐれさが好ましかった。

 私が構おうとした時も、気が乗れば付き合ってやる。気が乗らないならさっさと姿をくらますような。そんな捉えどころのない自由さが私は羨ましかった。

 猫は皆好きだけれど、夜闇に溶ける姿を持った黒猫がいっとう好きだった。

 偶然にもあの月色の吸血鬼の動物形態は黒猫であったが。だからこそ今まで近くにいるのを許したとも言える。

 猫のことは最優先で、出来うる限り尽くすと決めている。

 そんなことをあの吸血鬼相手にやってしまったから、今あいつの城で一緒に眠ることになってしまったとも言えるけれど。

 だって猫なのだもの。


 城主が猫だからか、あいつの居城であるハイデンライシュタイン城には猫がたくさん住み着いていた。

 普通の猫と言える猫。ケット・シーに分類される猫。そのどちらでもないような猫。

 その子たちのために城の中には猫用のベッドだったり、クッションだったりがたくさん置いてあった。

 猫たちもなんとなく城主の吸血鬼に従っているのか、あいつの意向を汲んでいるような場面を何度か見た。それにしたって城主も猫だし、猫は気まぐれであるから本当にあいつに従っているのか、あいつが猫たちを統制下に置いているのかは判然としなかった。

 どちらも何も考えていないのかもしれない。

 それよりもあいつが、猫たちが自分の城にいることを許していることの方が意外だった。てっきり自分以外のものがいつくのは許さない性質だと思っていた。

 許す許さないと言うよりかは完全に放置に見えるが、積極的に排斥しようとは思ってはいないようだった。

 猫がいる城は私にとって願ってもない場所だった。本当に少し歩けば猫がいる。私が猫を構うと言うより、猫たちに構ってもらっていると言う図はあいつが猫の時と変わりなかったが。


 そして、私が城に入り浸るようになってから一月後、あいつの部屋の隣に私の部屋があてがわれた。

 どうせ一緒に眠っているのだからいらないと言っても、必要なものだと無理矢理用意されてしまった。

 繋がった別室のような大きなクローゼットの中にはハイデンが今まで用意してくれていたブラウスやワンピースといった着替えの他に、知らぬ間に化粧品や香油など様々なものを揃えてくれていた。

 部屋の中央にはクイーンサイズのベッドがあり、天井から黒く薄いヴェールが何枚も床へと垂れ下がり檻のようにベッドを閉じ込めていた。

 部屋の中から廊下へ出なくてもあいつの部屋へ繋がる扉があったのは少し解せないが、どうせこの部屋はあまり使わないだろうからと目を瞑る。

 いや使った方がいいのだろうか。我に返ってみれば、私があいつの部屋にずっといることが異常なことな気がしてきた。

 最近夜寝る時はずっとあいつと一緒に、あいつのベッドで寝ていたけれど、今夜はこちらで眠ってみようか。


「ダメだよ」


 先ほど考えたことをそのまま伝えたら、いつも通りの翳った笑みと共に即刻却下された。


「君が眠るところはここ」

「なら、あの部屋いらないだろう」


 じとりと睨みつけるが、薄く微笑まれるだけだった。

 現在時刻は夜の0時。先ほどようやくこいつが起きてきた。起きてくるなり酒を飲みだした。相変わらず何をするかわからない。

 飲んでいるのは透明度が高いながらも真っ赤に染まった酒だった。

 瓶は3本あり、一本はすでに空になっている。かなり度数が高そうな酒気がするが、それでもこいつが酔っているような感じはない。


「何飲んでるの」

「……詳しくは忘れたけれど。でも人間も飲めるものだったと思うよ」


 飲めないものがあるのか。だとしたらそれには何が入っているのか、非常に気になるが。いや、やっぱりいい。知らなくていいかもしれない。


「飲んでみる?」


 そう言ってさっきまで飲んでいたグラスを渡してくる。


「お前はもう飲まないの?」

「僕はもういいかな、何をどれだけ飲んでも酔わないし。なら飲む意味もない」


 どうやら本当にいくら飲んでも酔わない性質らしく、先ほどから見てる限り飲めば飲むほど吸血鬼は虚な目をしだしていた。

 酔わないものをいくら飲んだとて意味がなく、意味がない行為を続けることに苦痛を感じていたようだった。

 そこまでして酔いたいのかと問えば、別にと答えられる。元々こいつは自身を壊すように日々を過ごしているため、飲酒もその一環なのかも知れなかった。だから、これ以上の言及は避けた。

 渡されたグラスを受け取り、吸血鬼の隣に座る。グラスに残った酒を飲み干せば、酒気が強い割にこのとほか飲みやすく甘くとろりとした舌触りが残った。

 しばらくグラスを見つめていれば、何を思ったのか残ったボトルごと酒を寄せられる。


「気に入ったのなら、あとは君が飲むといい」


 ♦︎


 頭がくらくらする。

 気づけば8割ほど入っていたボトルの中は全て空になっていた。

 飲酒なんて普段体を壊すためにしか飲まないが、あいつにもらった酒は何故かよく舌に馴染んだ。そのせいだろうか、ここまで飲むつもりはなかったのに飲み干してしまったようだった。

 空になったボトルとグラスをぼうっと交互に見ていると、横からグラスを取り上げられた。


「水妖精の酒を飲み干すとは思わなかったよ。でももう、終わり」


 グラスを取り上げる手をつい視線で追ってしまう。先ほど触れた手は心地よく冷たかった。


「君、いくら飲んでも表情変わらないね。前もそうだったけど、でも随分と酔っているはずだよ。もう休もうか」


 許して、その言葉と共に私に手を伸ばし、抱き上げようとする。

 この吸血鬼と一緒に眠るようになってから、こいつは随分と人型でいる時間が増えた。眠る時はもちろん、普段夜に顔を合わす時でさえ、あの黒猫でいるのは外に出ている時以外では少なくなっていた。

 だからだろうか。よく触れられるようになった。とは言っても、抱きしめられるのがせいぜいだが。あと吸血される時に噛み付かれるくらいだろうか。

 いつも触れる時は私に許しを乞いながら、その冷たい手を伸ばす。

 あれだけ他人に触れられることを嫌悪していたくせに、ここまで許してしまった自分をどう処理していいのかわからない。

 ただ、これ以上は踏み込ませてはいけない気がするというだけ。


 伸ばされた手を受け入れ、膝の上に横抱きのまま乗せられる。包まれた人ならざる温度に息をつく。

 このままいつも通りこいつのベッドに連れて行かれるのだろう。

 そう思った時にふと、思いついたことがあった。

 ここから逃げたらこいつはどうするのだろうか。

 昔よく友人に悪戯を仕掛けていた時のような愉悦が迫り上がってくる。ならばまずは、この状態から抜け出さないと。

 隣に座っていた時よりも随分と距離が近くなった吸血鬼の首筋にゆっくりと手を沿わせる。途端、吸血鬼の体が硬直したのがわかった。そのまま鎖骨まで指を滑らせ、今度は耳に触れる。リングのようなピアスを弄るように触っていれば、詰めた息と共に私を抱く手が緩んだ。

 この隙にとするりと膝の上から抜け出し、吸血鬼の部屋から踊っているような高揚感と共に外に出る。


「オルドレット、どこに」


 振り返った時に見た呆けたあいつの顔が、愉快でたまらなかった。

 くすくす。

 何故だが本当に楽しくて仕方がない。いつもあいつに振り回されているのだから、これくらいいいだろうと滑るように歩を進める。

 適当な部屋に入っても良かったが、あいつを撒くならもっといい場所があったと図書館がある方へと向かった。

 図書館はハイデンが新しい本から稀覯本に至るまで、どこからともなく常に収集しているらしくどんどん拡大の一途を辿っていた。ホールのように広大な2階まである部屋に、私の背丈よりもずっと高い本棚がずらりと並んでいる光景は圧巻だった。またそれに収まりきれずうずたかく積まれた書籍たちがそこかしこにあった。

 その本たちの間を縫うように歩いていく。ふと後ろからガチャリと図書館の重たい扉が開く音が聞こえた。どう考えてもあいつが私を追いかけてきたのは明らかだった。

 くすくす。

 ああ、どうしてやろう。どこに隠れてやろう。すぐに見つかってはつまらない。なんたってこんなに愉快なのは久しぶりなのだから。

 フラフラとした思考のままに、奥まった図書館のさらに奥の部屋の重いカーテンに身を潜めた。

 身を潜めてしばらく経つと部屋の扉が開く音がした。思ったより早く見つかってしまいそうだ。つまらない。

 

「オルドレット、もう出ておいで」


 上手く隠れたと思ったのに、呆気なくカーテンを捲られる。そのまま吸血鬼の腕に閉じ込められる前に、自分から吸血鬼の胸へと飛び込みその背に手を回してみた。

 途端にぴしりと固まる体にまた愉悦が込み上げる。するりと再び抜け出して、図書館を後にした。

 その後も、応接間、音楽ホール、天文台と場所を変えてあいつと隠れ鬼を続けた。

 見つかるたびにこちらからつ、と触れてやれば息を詰めて体を固める様子が愉快でしょうがない。

 くすくす。

 次はどこにしようかとふらりとしていたところ、目についたのは私にあてがわれた部屋だった。

 なんとなしに入れば、バルコニーに繋がる扉から風が吹き抜け薄手のカーテンが揺れていた。何故かいつもよりやけに上弦の月が大きく見えた。

 誘われるようにバルコニーに滑り出て、行儀が悪いと思いながらも手すりの上に腰掛ける。髪を撫でる夜の冷たい風がほてった顔に心地よかった。

 またしても見上げた月が大きく見えて、まるですぐにでも触れられそうで。思わず手すりの上に立ってみる。先ほどよりも近づいた月はやはり大きく冷たく静かだった。

 なんだか愉快になってしまいそのままくるくると回って、揺れるワンピースの裾と夜風を楽しんだ。

 視界が揺れる。元々くらくらしていた頭がさらにブレる。夜の静けさと久しぶりの高揚感にそのまま目を閉じて力を抜いた。

 そして酩酊なのか、もはやわからない浮遊感に身を任せた。


「オルドレット」


 愉快に思っていた浮遊感はすぐさま消えてしまった。その代わりに背中に冷たくて硬いような柔らかいような、よくわからない感触がある。

 微かに残る失望感と共に目を開けると、バルコニーの手すりに頬杖をついて不機嫌そうにこちらを見る吸血鬼の姿があった。

 自分はというと何故か手すりから離れたところで落ちずに浮遊している。はてと自身を見ると、大きな黒い人間ではないがそのようにも見える化け物じみた手が私を乗せていた。私を乗せるほど大きな手の他に、右手を握り込む手、左足に絡む手、しまいにはどうやら腰にもぐるりと手が巻き付いていた。どの手も先はあいつの影へと繋がっていた。

 なんだこれは。しげしげと眺めていると、私を乗せた手はバルコニーに近づき私を吸血鬼の腕の中に収めるとそいつの影の中へと消えていった。

 なるほど、前にロザリオという老吸血鬼からこいつの能力は影らしいということを聞いていたが、今のように影を手として具現化させることもできるらしい。

 思いがけなく面白い物を見たと思っていると、思いの外強い力で抱きしめられた。


「……何を、しているの」


 本当に何をしていたのだろう、私は。間違いなく今、こいつから見れば私がバルコニーから身投げしたように見えただろう。でも今夜は楽しくて。

 くすくすと吸血鬼の腕の中で笑う私を、物珍しそうに、しかし不機嫌そうに見る吸血鬼。そいつはため息をひとつついて。


「楽しかった?」


 返事の代わりに冷たい頬を撫でてやれば、また息を詰める。それがやっぱり愉快で、くすりと笑いが溢れた。


「ギル」


 吸血鬼の目が大きく見開かれる。それと同時に抱き込む力が強くなった。

 ああ、こいつの名はこんなに舌馴染みが良かったのか。


「また、遊びましょう」

 

 ♦︎


 頭が痛い。

 頭痛を感じて目を覚ますと目の前に、ここ最近見慣れた金の髪を垂れ込めた冷たい体があった。

 頭を万力のような何かでねじ上げられているかのようにずきずきと鈍い痛みが走る。さらには体が異様にだるくて、臓器の位置が入れ替わったのではないかと思うほどの不快感に襲われる。

 どうしてこうも痛むと、考えを巡らして昨夜のことを思い出す。私は酔っても絶対に記憶は飛ばさない。しかし昨夜のあれはもう飛ばしても良かったのではないかとも思う。

 はしゃぎすぎた。

 大人にもなって隠れ鬼なんて、何をやってるんだ。しかも、何度も自分からあいつに絡んで。

 羞恥と自分に対する嫌悪感と酔いが抜けないための不快感で、怒りにも似た感情を覚える。

 隠れ鬼だけならばまだ良かった。問題はその後だ。

 1番のやらかしはあいつの名を呼んでしまったことだ。決して呼ぶまいと決めていたのに。思いの外するりと口をついて出た鬼の名は私には持て余すものだった。

 あの時、私はどんな顔をしていたのだろう。想像するだけで悍ましい。死にたい。

 結局あいつに捕まった私は、はしゃぎすぎですぐには寝付けずにあいつに押し倒されるように拘束されてあやされながら眠った気がする。

 最悪だ。本当に何をやっているんだ。ここまで自分が前後不覚になるまで酔うとは思わなかった。それにあいつを付き合わせたのも、申し訳ないとは全く思わないがただただ恥だった。

 私は覚えててももういいから、諦めるから、あいつはどうにか忘れていてくれないだろうか。

 出ないと本当に自殺しそうなくらい恥ずかしい。これではまるで、私があの吸血鬼に構ってもらえたのが嬉しくてたまらなかったかのようではないか。

 寝てる吸血鬼の中で羞恥と頭痛で頭を抱えていると、目の前の鬼は身じろぎして私を抱き込んだ。

 それにひやりとして、今すぐここから抜け出したくてたまらなくなる。

 こいつが起きないということは今は昼間だろうか。ならば今のうちにここから出よう。

 そう思って体を起こし、吸血鬼の腕から抜け出ようとした時だった。


「どこに、いくの」


 掠れた声と共に後ろから白い手が伸び、そのままうつ伏せにされて抱き込まれる。

 思わず受けた振動によって生じた頭痛に顔を顰める。


「お前、起きて」

「ん」


 上に乗られて身動きは取れないが、上のやつがまだうつらうつらしているのはなんとなくわかった。やはり今は昼間なのでは。


「離せ」

「……昨日は、君から触れてくれたのに」


 瞬間的にこいつを殴りたくなる衝動に駆られるが、抱き込まれているため何もできない。さらに言えば、どうせ私が殴ったところでこいつにはなんのダメージもないだろう。そのことに無性に腹が立った。

 肩口にぐりぐりと頭を擦り付けるこいつをどうしてやろうかと思索を巡らすが、体が動かせないのではどうしようもなかった。


「覚えてないわ」


 悔し紛れにそういうと、くすくすとさもおかしそうに笑う吸血鬼。


「嘘つき」


 耳に吹き込まれた声はあまりにも甘やかで、また殴りたくなったがそれを察知されたのかさらに強く抱き込まれる。


「もう、僕を呼んではくれないの」

「二度と」


 呼ぶものか。

 あんな感情を乗せたもの、金輪際口にしたくない。

 そう、と愉快そうに言っていまだに上からどかない吸血鬼。愉悦で目を歪ませている顔が見えなくても思い浮かぶ。本当に腹が立つ。

 そのうち、そのままの体勢で寝始めるものだからもう色々とどうでも良くなり、次第に私の意識も落ちていった。


 再び起きた時もまだ頭痛は残っていた。しかもまだ吸血鬼は上に乗っていた。いい加減に降りろお前。

 夜になったからか、ようやく私の上から退いた吸血鬼は、私の顔を愉快そうに覗き込みながら名を呼べとしきりに言ってくる。

 だからもう呼ばないと言っているだろう。やめろ。いいから早く忘れてくれ。でなければ殺す。そうならないなら私が死ぬ。


「どうしても?」


 こちらを見る月の色を映し取ったかのような金の目は、蜜のようにとろけていた。やめてくれ。そんな目で見られるようないわれはない。お前の目を見られない。

 直視してしまったが最後、自分の中身を抉り出さなければならなくなりそうで。


「もう一度呼んでくれたら、夜会に君を連れて行くのはやめてあげる」

「呼ばないし、どうせ呼んでも連れて行く気でしょう」


 そういうと、鬼はまた翳った笑みを浮かべるだけだった。


 ♦︎


 夜会は極夜の満月に行われるらしい。それまでの間に、私のドレスを仕立てに行くと言って珍しくあいつから城の外へと連れ出されるようだった。

 もう夜会のことは諦めた。いくら断っても、機嫌が悪いほど釣り上がるあいつの笑みと共に引きずられてでも連れていかれそうな気がした。

 それにあいつには、あの白い塔についていってもらったことがある。猫の身で随分無理をさせた気もするから、これで貸し借りは無しでいいだろう。

 

「どこに行くの」


 ついてこいと言われてついてきたが、あいつは城の中を進むだけだった。


「僕だけならどうとでもなるけど、君がいるなら手段は選ばないとね」


 そう言って一つの扉の前で止まる。重々しい音と共にその部屋の中に入ると、中は大小様々な鏡だらけだった。豪奢なもの、ひび割れたもの、鏡というよりカケラになっているもの。壁一面どころか、天井からも吊り下げられたそれらそれぞれに私と吸血鬼が映り込んでは消えていく。

 

「何、この部屋」

「僕の通路みたいなものだよ」


 君の家にもあるだろうと言われ思い出す。こいつは私の寝室の鏡と城の大鏡を繋げて出入りしていた。ならばこの鏡もそれぞれどこかに繋がっているのだろうか。


「こっちだよ」


 呼ばれたままに近寄ると、そいつは楕円形の大きな鏡を見ていた。


「行こうか」


 不意に手を引かれそのままずぐりと、私たちは鏡の中に沈み込んだ。


 鏡の中を通るのは吸血鬼の城に入り浸るようになってから何度も経験したことだった。だから、沈み込んだ瞬間に目を開ければそこはもう違う場所についていることはわかっていた。わかってはいたのだけれど。


「何、これ」


 月夜に並ぶ歪んだ豪奢な建物。それに出入りする人ならざるものたち。角を持つもの、動物の耳が生えたもの、人の形からは遠く離れた姿のもの。もはや形が不定形で全貌がわからない者もいる。しかもそれらが店らしき建物で、また人ではないものと人語ではない何かを交わしていた。

 こんなに大量の怪異は見たことがない。


「僕から離れないで。離れたら、少し大変な目に遭うかもしれないから」


 そう目を欠けた月のように歪ませながら楽しそうに話す吸血鬼。

 確かに、こんな大量の怪異相手にしたくない。だから言われた通り跋扈する怪異の中、吸血鬼から離れないように後ろをついて行ったのだが、先ほどからどこからともなく視線を向けられる。すれ違うもの、遠くから眺めるもの。全てから見られているような感覚に陥る。

 やはり人でなくても、見られているというのは気分がいいものではない。不快感を募らせながら後をついて行くと、不意に腕を後ろから掴まれる。

 ぞわりとしたものを感じて振り返ると、腕は掴まれているというよりも黒い靄の中に沈み込んでいた。そして、私の腕を飲み込んでいたのは私よりもいくつ分も頭抜けた黒い靄で、その中心の剥き出しの一つの眼球から私を見下ろしていた。

 そいつは何も言わずにずるずると私の腕も飲み込んでいく。まずい。こいつが自我がない呪いの塊のような怪異であるならば、私には何もできない。


「ニンゲンがクワレテいる」

「シカシ、あれハ王の」


 周囲から囁き声が聞こえた。だからなんだ。事実、今私は喰われかけていて何もできない。流石にまずいと手を引くも私の力ではどうにもできなくて、もはや片腕は完全に靄に飲み込まれてしまった。無理でもこいつを呪ってやろうかと口を開こうとした時。

 後ろから埋まりかけた肩ごと抱き込まれた。


「ねえ、助けて欲しい?」


 耳元で囁かれた声は愉悦に歪んで、こいつがこの状況を予期していたことも今まで傍観していたことも明らかだった。


「いらない」

「強情」


 その言葉と共にもう一つの腕が後ろから伸ばされ、目の前の靄の眼球を抉り握りつぶした。肉片と血飛沫と共にガラスを引っ掻いたような不快な断末魔が迸り黒い靄は跡形もなくなく消え去った。あっさりと、私の腕もどこも欠けることなく解放された。

 そして後ろから私を抱き込む腕が震えていた。どうやら笑いを堪えているようで、くつくつと押し殺した笑い声が耳を打つ。


「君、あんな怪異にもなれなかったものにも喰われてしまうのかい」


 心底おかしそうに瞳を弓形に歪ませて見下ろす鬼を酷く憎らしく思う。腕の中から抜け出そうともがく度に、笑いを深める吸血鬼。

 もうこいつ呪い殺してやろうか。そこまで思って最初から壊れているこいつには、呪おうとしても無意味だと思い出す。実に癪だ。

 私の白い目に気付いたのか、ひとしきり笑い終わると中身のない謝罪と共に解放される。

 

「目を離したつもりはなかったんだけどね。君、本当に何もできなくて弱いね」

「殺すぞ」

「君じゃあ無理だよ」


 そう静かにまた笑いだす。楽しそうでなによりだよ。


「どうせ君はいいカモだ。今度はちゃんと見ててあげるから」


 そう言って腕を組まされる。

 こいつの隣に並ぶと先ほどからの視線が私だけではなく、この吸血鬼にも注がれていたことに気づく。そして心なしか遠巻きにされていることにも。

 先ほど私の腕を取り込んだものは、怪異にもなれなかったものだとこいつは言った。しかし、怪異である他のものは私たちを遠巻きに見ているだけ。

 多少の自我があるものは、やはり最上位の怪異には畏怖のようなものを抱くのだろうか。

 考え事をしながら歩いていたからだろうか。それとも組まれた腕のままに任せて進んでいたからだろうか。いつのまにか立ち並ぶ建物の中でも一際大きく見栄えの良い建物の前に来ていた。

 なんの店なのかも説明されないままに、その建物の中へと吸血鬼は進んでいく。

 ガチャリと重厚な扉を開けると、中は月明かりと何個も浮遊する淡いランタンの明かりで照らされていた。

 床が大理石らしいということしかわからずいまだになんの店か掴めない私を置いて、さらに奥へと進もうとする吸血鬼。進んだ先にはカウンターがあり、そこには鳥籠が置かれ灰色のヴェールで頭を覆った女性が立っていた。

 ここが何かしらの店であり、この一帯でも一際上等なのは人間の感覚でもわかった。またここが人が入るべきではない場所であることも一目で分かった。

 鳥籠に入っていたのは女性の頭部であり、灰色のヴェールで覆われた場所には明らかに頭部があるべき空間はなかった。


「ようこそ、おいでくださいました。我らが月の王よ。種類も質もここは一級です。レディメイド?それともオーダーメイド?靴もアクセサリーも取り揃えております。何なりとお申し付けください」


 吸血種、灰色の婦人、グレイ・レディは鳥籠の中からにこりと微笑み、首のない体で上品に礼をしてみせた。



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