おはよう、海。
瑞葉
おはよう、海。
1
伊豆稲取温泉は雛のつるし飾りが有名だ。
翠里(みどり)は二十一歳。大学四年生の終わりに、来月、三月のお誕生日祝いを兼ねて、この温泉郷に来た。
「ちょっとー。建物ふるいー。お化けでも出そうだよ」
「そんなことないじゃない。ほら、翠里、見てごらん。海が綺麗だよ」
翠里よりもお母さんの方がずっとウキウキしてる。仕事が忙しいお父さんは来られなかった。二人きりの家族旅行。翠里の卒業旅行でもあった。
旅館にチェックインした後、宿の人が「河津町桜フェア」という催しをバスで送迎してくれるとのことで、二人で行ってみることにした。二月半ばにもう咲いているという早咲きの桜。
バスが隣の河津町に着くと、屋台がたくさん出ていてお祭り騒ぎだ。
バスを一緒に降りたおばさんたち三人連れが、いそいそと桜餅を買っている。
「翠里は? なにか買うかい」
お母さんが招き猫柄の小銭入れをじゃらんと揺らした。
「うち、そんなにお金に余裕ないでしょ? 宿に戻ったらなにか食べさせてくれるよね。充分だよ」
つっけんどんに翠里は言い、お母さんを置いてその近辺をぶらついた。早咲きの桜がハラハラと花を散らしている。その風景を見ながら無性に悲しい。
遅れてきた反抗期なんだね。
最近、翠里は、大学時代をともに過ごした彼氏くんとお別れしていた。別れ自体は双方納得していたはずだったけれど、別れ際に彼氏が言った言葉、「お前なんて中小企業の内定しか取れなかったじゃんか」という言葉が翠里の心臓を刺していた。
バスツアーは河津町から稲取町に戻る。雛のつるし飾りが街中の至る所に見られるということで、その鑑賞ツアーだ。
まるでお手玉のようにコロコロしたお人形は確かに可愛い。それが何個も繋がって天井からつるされている。子供の健康や家族の長寿など、ひとつひとつのつるし飾りに意味があると案内板に書かれている。
「このつるし飾り、売っとらんの?」
おばさん三人連れのひとりがバスツアーの案内のお姉さんに聞く。
「販売店さんはありますけれど、かなり値が張ります。一個につき二千円くらいですね」
「そう。じゃあいらんわ」
おばさんはあっさり言うと、同行の二人とぺちゃくちゃ話を始めた。
夕飯は金目鯛の煮付けなどあっさりした和食中心。お肉料理もない。
デザートは白玉団子三つきりだ。
河津町で売ってた桜餅、食べとくんだったな。
翠里のお腹はくうくうと鳴った。
温泉も地味だった。露天風呂が落ち着くとかは翠里は全く感じない。ただ、女の人の裸がいっぱい鑑賞できるだけ。
薄い布団にくるまって、とろとろ浅い夢を見た。
2
「ここかい? 二十年前に泊まった宿って。大きな建物だなあ」
新司が顔をくしゃくしゃにして笑う。
翠里はもう四十二歳になっていた。互いにアラフォーで結婚したふたりの新婚旅行先として、翠里はこの稲取の旅館「銀龍荘」を選んだ。
かつて、この宿に一緒に来た母は、今はガンを患っている。先日あったふたりの結婚式にも出席できなかった。
日に日に痩せ細っていく母を見るのは辛かったけれど。そんな病床の母が最近、「稲取の海、綺麗だったね」とぽつりと漏らした。
翠里の記憶の中に、稲取の海はなかった。
母が「見てごらん」と言った時、翠里は自分の癒やされぬ失恋の傷ばかり眺めていたから。
もう一度行ってみたいな。
だから、新司と入籍後の新婚旅行先に選んだ。
コロナ禍が大体終わっていて移動の自由があったのも良かった。新司も自分もお互いに仕事があるので、四月の中旬の土日に一泊二日の弾丸旅だ。踊り子号という電車に乗っていこうと翠里は提案した。車ではなく、電車で。母ともそうしたから。
新司とのんびり車窓を眺めて座っていると、富士山が途中に見えた。ふたりで子供のようにはしゃいで写真を撮る。
銀龍荘へは稲取駅から迎えのバスがある。乗って十分。ああ、ほんとだ。海だな。
曇りの天気で銀色に輝く海原。気持ちが広々とする。あいにくの曇り空だけれどそれも良かった。とんびが旋回して飛んでいるのも車窓から見えた。
バスを降りて旅館を見る。うん、あの頃のままの閑静な佇まい。ロビーに行くと、つるし雛飾りが飾られている。時期なので五月人形とともに。
「あー。これだよこれ。つるし雛」
新司を呼んで、二人でその前で写真を撮り合う。
旅館のお姉さんが「売店にもこの雛飾り、売ってますよ。女将さんの手作りで」と声をかけてくれた。
ふたりで売店に行くと、パッチワークのような雛飾りがある。伝統的な雛飾りとはちょっと違うみたいだけれど、一個六百円。「長寿」と描かれた、ピンクの布の親子桃の雛飾りを母への土産に購入した。
去年から、ラウンジというものがあって、ウェルカムのカクテルが飲めるとか。
新司と二人、荷物を部屋に置いた後に、カクテルを飲みにラウンジに行った。海が一望できる広々としたフロアだ。真っ青な絨毯が敷かれている。
翠里は「夕暮れ時」という名前のカクテルを、新司はビールを頼んだ。「夕暮れ時」のカクテルは、本当に太陽が沈む時の海みたい。
「キラキラしてるね。幸せだね」
翠里はそっとハンカチで目元を拭いた。
露天風呂でホッと温まると、もう夕食の時間だ。「こちらはアワビになります。ご覧の通り、今は器の中で生きております。火を入れて二十分したらまた参ります。器の蓋をとらずにお待ちくださいませ」
まだ三十代くらいの男性スタッフさんが、少しつっかえながら一生懸命に言っている。
火を入れて二十分。さっきのスタッフさんが戻ってきて、アワビを切り分けてくれた。
「さっきまでウネウネ動いてたのにね」
小さな声で新司に言う。アワビは身を四つに切られて、もう食べられるのを待つばかり。
「ほんとはさ。海外に行こうかな、って思ってたんだけど。伊豆で良かった。いや、伊豆がいいよな。いま、円安だから、ハワイとか行ってもこんな贅沢なものは食えないよな」
新司はアワビを食べながら幸せそうに笑っている。翠里もアワビをいただいて、その身が柔らかいことに夢見心地になる。
金目鯛の煮付けも出てきて、二人でわいのわいの言いながら、身を切り分けて全部食べる。
「とっても大きなお魚だね」
と言い合いながら。
夜に、真っ暗な海を少しの間、みていた。灯台があるのか、遠くの方が白く光っている。その光を目で追っていた。
新司が隣にきて、静かに聞く。
「お義母さんの具合が心配?」
「うん」
あえて明るく返事する。新司はちゃんとわかってた。
「今は、ガンだっていい治療法がいっぱいある。俺の知り合いの親御さんも何人も治ってる。もう、俺たち家族だし。助け合って、いつかお義母さんもお義父さんも連れて、ここに来よう」
新司は窓のカーテンをそっと閉めた。
「もう、電気消すよ」
「うん、お休み、いい夢を」
翠里はうなずく。
深い眠りについていたみたい。起きたら朝六時半だった。
「どうしよ。朝ごはんの時間に間に合うっけ?」「七時から九時まで好きな時間にブッフェ会場だよー。休日なんだから、急がなくったって」
新司が隣でのんびりと言い、夢の中に戻っていく。
翠里はひとり起きだして、昨日閉めたカーテンを勢いよく開けた。
おはよう、海。
今日の海は快晴だ。遠くの島までよく見渡せる。
おはよう、海。 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro
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