川と回禄




 椿のような女に恋をした。


 おれは小さな工房に走り着いた。いつものことであるが、薄い戸は好きに入れとでも言うように完全に開いていた。

 小屋の中に入ると、むっと籠もった朱夏の空気と共に木の匂いが押し寄せてきて、鼻腔をついた。

 いぬいは平生通りに、薄暗い室内で一人、座布団代わりの板の上に胡座あぐらをかいて、四角い木の塊と向かい合っていた。両手で握った細い鋸とも棘のついたきりともつかない道具をざくざくと動かし、時折向きを変えながら、その木材を自在に二つに切り分けてゆく。その集中力たるや凄まじいもので、おれは興奮も息せき切って話したい思いも抑え込んで、戸口の辺りに突っ立ったままその作業を見守った。そうするべきだという雰囲気が、工房の沈黙の中にはあった。

 一切の無駄がない手の動きを見ているうちに、徐々に自分の頭が冷静さを取り戻していくのを感じた。いつもそうだ。自分は眺めているだけだというのに、意識が不思議と冴えていく。

 しばらくすると、凸凹のある木の板のような木片が二つ出来上がったようだった。この状態になれば、流石にこれが下駄の原型なのだと十分にわかる。台と歯が一体となった連歯下駄。一つの木塊を余す部分なくこうして二つ同じ形に切り出すことをクミドリというのだと、乾がいつかに言っていた。

 あのときはただ、ふうんと聞き流したつもりだったが、案外覚えているものだ。

 当の彼は一息ついて、満足げに今作った木片をぽんと叩いている。もういいだろうと思って、おれは「乾」と名前を呼んだ。

 彼は別段驚いたふうもなくこちらを向いて、眉を上げた。

「ああ、なんだ来てたのか」

「今来たばかりだ」

「学校が終わったところか?」

「いや、今日は学校は無かった」

「そうか」頷きつつ、彼はおれの顔を見て、何かの色を見つけたらしかった。「話したいことでもありそうな顔をしているし、まあ散歩にでもいくか」

 そう言って返事も待たずに立ち上がって、袴についた木屑を雑に払う。着物といい袴といい上物であるようなのに、彼は汚れることに対してあまりにも無頓着だ。好青年然とした見た目にも似つかわしくない。もういさめても無駄だとわかっている分、おれも何も言わないが。

「いいのか?」

「気分転換も必要だ。丁度いい」

 それならいいが、とおれは言って、工房から出た。乾もすぐ後に続くのが足音と気配でわかった。


 行くあてや決まった順路があるわけでもない。

 足の向くままに往来を通って、道を曲がり、更に少し歩いて江戸川のほとりに出た。その道のりにおれの意思があったのか、それとも乾の意思であったのかはわからない。突き詰めようとしても意味のないことだ。単純に、汗ばんだ身体が涼風を欲していただけのことだったかもしれない。

 欄干の前でおれたちは立ち止まった。運河の上を穏やかに気流が通り抜け、遠くの対岸の近くを高瀬舟が通っていくのが小さく見えた。

 それで、何か話したいことがあるのだろう?と乾が催促するので、おれは本当は今にもまくし立てたいほどに軽くなった口を、敢えて重々しそうな様子を装って開いた。だが、言葉は流れるように淀みなく溢れた。

「今日、見合いがあったんだが……」

 年頃になると、父は次から次におれに縁談を持ってくるようになった。長男である兄は向坂こうさかの家や土地を継ぐことになる以上、結婚の話も重く見られる。そういったものが入り組んでくる前に、おれのことは厄介払いではないが、なるべく素早く片を付けてしまいたいのだろうと思う。

 強いられて、何人もの女と会った。身分も性格も様々だ。それでも、興味もないものをと思えてならなかった。どの女の顔も、一様にお面のように見えた。どの女の声も、全て同じ小鳥がさえずっているようにしか聞こえなかった。

 そこまで話したところで、少し目を上げて乾を見た。おれの身の上を元から軽く知っていた彼は、何食わぬ顔で黙って先を促した。何となく励まされたような気になって、おれは欄干の一点をじっと目で射抜きながら、呟く。

「今日会った女だけは、違ったんだ」

「違う?」

「ああ」

 それはまるで一陣の涼しい風が吹いたようだった。

 音もなく礼をして顔を上げた娘を見て、どうせいつも通りの調子だろう、適当にこの場でだけ体裁を取り繕っておけばいいだろう、とばかり考えていたおれは衝撃を受けた。

 質素な木綿の着物の、白と赤の細い縦縞模様。紅の薄いのに、花弁のような艶を持った小さな唇。芯のある光を宿した切れ長の目は、他の女のような媚びるような色は一切なく、むしろ挑戦的とも言える様子でこちらを見据えていた。

 そういったものを思い出すたびに、数刻の経った今でも胸の詰まるような感覚を覚える。彼女は身分は高くない軍人の娘でありながら、誇り高く花開いた美しい花だった。季節は全く違くとも、見まごうことなき紅椿。話している間中、この娘を内面から輝かせているものは一体何なのだろうと気になって仕方がなかった。まるで深淵を覗いているかのような気分だった。気を抜けばどこまでも吸い込まれてしまいそうなほどの深部を。

 そこまで話し終えると、「よかったじゃないか」と乾は歯を見せた。

「ようやく落ち着けそうで。これでやっと、お前もご両親も安心だな」

「だが……」

「なにか気がかりなことでもあるのか?」彼は不思議そうにこちらを見つめた。

「気がかり、なのか……」

 おれは情けないと思いつつ、彼を見て問いかけた。「踏み込んでも、いいものかな」。ひどく不安げな声になってしまった。

 乾はますます訝しげな表情になった。

「それは?」

「だって、彼女は、この話に乗り気でないかもしれないだろう? それでも無理やり手にして、それがあの娘を枯れさせることになってしまったら……。いや、それよりもまず、あの娘はおれのことなど何とも思っていないかもしれないし……」

 最後まで言い終わらないうちに、乾は肩をすくめた。

「どう思われているかが不安か。確かに、何を思っていようが娘の側からは断れないからな」

「そうだ……そういうことだ」

 うなだれて頷くと、友は笑った。「決心がつかないなんて、君らしくもない」と。

「とにかく結果としてどんな方向になってもいいと覚悟して、進んでみたらどうだ。何かあった折には、変な話だが、君の方から正々堂々と振らせてやればいい」

「まあそうだな……」

 お前の方が、おれよりもずっと決心するのに潔くて強いと思うけれど、というのは黙っていた。卑屈になっても仕方ない。

 おれは懐から燐寸マッチ箱を取り出して、うちの一本を側面で擦った。じゅっという手応えとともに、小さな炎が灯る。

「好きだな」

 乾が笑って、おれは黙っていた。煙草は吸わないが、燐寸の火を眺めるのが好きで、小箱をいつも持ち歩いていた。

 絶えずうごめく炎の中に、まなこが閃くのが見えることがある。

 それを呟くと、乾は「眼か」と興味深そうに反復した。

「神が火の中から見ているというわけだ」

 下駄職人の端くれなどというものをしていながら高尚にも本をよく読む彼は、たまに妙な言い回しをする。首を傾げると、乾はふっと炎から目を逸らして対岸を見つめた。おれも真似をして川の向こうを見た。別に何を思ったわけでもないが、呟きが口をついて出た。

東京トウキョウ、なんだよな。あっちが」

「ああ」

 江戸川を越え、さらに荒川を越えた先に、神の血を引いた天皇の住まう国の中心がある。足を踏み入れたこともない、未知の世界。こちら側に鼓動を伝え、血を巡らせる国の心臓だ。おれは憧憬すら覚えて、小さくて大きい建物の影を見た。向こう側の空は、白く美しく烟って見えた。

 ややあって乾は突然、「私の祖父は、トウケイと呼んでいた」と低い声で呟いた。「私の父は、そんな祖父を軽蔑していた」とも重ねて言う。

 トウケイとは、旧幕府を慕っていた者が、よそから来た者に作られた新しい都を「キョウ」と言い表すのを嫌って呼んでいる名だ。おれは乾の父が地方官吏とはいえ議員であることも、乾がそんな父を敬遠していることも知っていた。

 そうしたことをふと思い出した時、おれは彼が何となく元気のないことに気付いた。さっきまでは自分のことに夢中で見えていなかったが、一度気付けば確かに、今日の乾は沈んでいた。

 聡い彼のことだ。何か考えることがあるのだろうと思う。

 おれの知る彼は誰よりも固い男だった。細面で小柄でありながら、どうしてどうして彼には何者にも負けない固さがあった。いわおのような不動の固さとも、鋼のような鋭さを持った固さとも違う。

 喩えるなら大木だ、きっと。しっかりと根を張り、かたくなさを持ちながら風をしなやかに受け流す強さ。

 例えば彼は、決して洋風だと思えるものを身につけない。時代遅れと人に笑われようと彼は和服で、流行になど背を向けて武士のように粛々と動く。……いや、そんな和と洋の二元論的なことに限った話ではないのだ。何かに急き立てられるように姿を変えていく周りの風潮に、乾は決して流されない。

 乾がこの松戸の地に移ってきたのは、高等学校を卒業した後のことだった。自分は国の手足となっては働かないと言い切った彼に、父親はただ「好きにするがいい」と笑ったそうだ。小屋を与えられた乾は、大学にも通わずに下駄を作って小銭を稼ぎ、食事だけは近くの遠戚の者に世話してもらいつつ一人で生きていた。

 どうやって下駄作りなんかを覚えたのだとおれが尋ねた時、乾は笑って「書物に聞いた」と答えた。「あとは独学で試行錯誤だな。それだけだ」と。

 どうして、とおれはさらに追及した。

「どうしてそこまでして下駄なんだ? 別に他のものでも良さそうなのに」

 乾の答えは明快でありながら、やはりおれには理解の難しいものだった。

「自分が作ったものを履いて、たくさんの人が歩いている。それが興味深いから」。

 よくわからない。何が興味深いというのか。「お前の言うことはわかりづらい」と、聞いた当時は実際に首を捻ったものだった。

 今も思い出して首を傾げながら、おれは欄干から身を離すと、自然に火の消えた燐寸の先を手でもみ崩した。少し考えて、小箱に入れ直して持ち帰ることにする。

 乾は片眉を上げた。

「川にでも捨てるのかと思った」

「そんなことするものか」

「そうだな」彼は呆れたように肩をすくめていた。「君は意外と真面目なんだ」

「うるさい」

 空気は特別澄んでいるわけでもないが涼しくて穏やかだ。それを目一杯に吸い込んで、おれは広い運河に背を向けた。


     ✵


 蚊帳かや代わりの薄い布を吊り下げて薄く窓を開けると、虫の音が聞こえてきた。夜というものが急に部屋の中に入って来たように思えて、束の間視線を止める。宙を見遣る。

 今日の勉強はちっともはかどっていなかった。机の上で藁半紙に色々と書き付けていても、どうにも昼に会った女の顔ばかりが脳裏に浮かんでくる。我に返ってそれと気付くたび、鼓動が不意に早くなる。苦しい。苦しいようでいて、しかし妙に清々しいのだ。

 今の自分はおかしい、異常だ。ああ、だが、これが人を好きになるということなのかと考えて、内心は悶絶して地面にのたうち回っているようなものだ。蒸し暑さも手伝って、すぐに鉛筆の先が止まってしまうのだった。

 先刻、夕食の席で、今日見合いをした女を気に入ったことをそれとなく親たちに話した。酒飲みの父は「お前はああいう娘を見初めたのか」と顎に手をやった後、大口を開けて機嫌よく錫製のぐい呑みを傾けた。それから、「いいだろう。その娘が欲しいのなら、自分で貰ってきなさい」と頷いてみせた。母は何も言わずに父の酒器に日本酒を注ぎつつ、微笑んでいた。ついにこの次男がねえ、と思い出話を始めそうな雰囲気だったので、おれは慌てて勉強があるからと自室に退散してきたのだ。

 ぼんやりと白い紙に、硬筆の先で何重にもぐるぐると円を描いた。大きさも形も揃わない円は、重ねるごとに太く黒くなっていった。外から入る名前もわからぬ虫の声は、秩序がありながら一定ではなくて、おれは森の木々のざわめきだとか海岸に打ち寄せる波だとかを連想した。

 踏み込もうか。だが、踏み込んでもいいものか。自分の中にこんなにも優柔不断で弱い部分のあることに、おれはこれまで気付かずに生きてきた。初めて気付いた時に生まれたのは、恥や落胆よりも戸惑いに似た淡い感情だった。

 耳元によみがえるのは友の声だ。「君らしくもない」と、華奢な体躯に似合わず豪胆な彼はそう言った。「とにかく結果としてどんな方向になってもいいと覚悟して、進んでみたらどうだ」

 よし、と思って紙を二つに折る。

 空を歩くような気分で考え込んでいてもらちが明かない。自分らしさなど何処どこにあるのかも知らないが、とりあえず前に出てみようか。それなら、明日がいい。勢いをそのままに、この決心の曲がらぬうちに突っ込んで行こう。

 おれも自分の力で欲しいものを手に入れてみたい。

 心の中に広がった正体も見えないこの思いを打ち明けたなら、あの凛とした娘はどんな顔をするだろうか。


     ✵


「向坂です」

 玄関先で名乗ると、直々に出てきた母堂は「まあまあ」と驚いたように目を見開いておれの格好を見るようにした。鏡を何度も見て、むしろ昨日よりも意識して身なりをきちんとして来たはずなのに、どこか心もと無いような気がした。その割には一番上までボタンを留めた立ち襟の喉元だとか、ぐっと締めた袴の腰紐だとかが苦しかった。

 昨日も会った母堂は、去勢を張るふうもなく堂々とこちらを見上げてきた。一方のおれは気合を入れて来たのだが、実際にあの娘の母を前にしていると思うと、身体が凍りついたようになった。情けないことだ。

「お嬢さんに関することで、お話があって、参りました」

 固まった身を奮い立たせて、やっとのことで絞り出すようにそう言うと、さっぱりとした無地の着物を着た母堂は、やがて少し可笑しそうに微笑んだ。

「そうですか。ではどうぞ、お入りくださいな」


 この家には客間が無い。

 昨日と同様にあっさりと茶の間に通されて、「文子ふみこを呼んできますね」と母堂は席を外した。鉄瓶から湯呑みに注がれた水の表面を覗き込んで、今更のように女中もこの家にはいないのだと気付く。取り残されて、自分の家のものと変わらない大きさの茶の間を広々と、閑散としているように感じていた。畳の上に一人座ったおれを、もう一人の自分が見下ろしているようだった。開け放した襖を柔らかく風が通り抜ける。水面が揺れた。

 尊父は軍人で、既に死去しているというのは昨日聞いた話だ。おれがあの娘を貰ったなら、きっと三人でこの家で暮らすことになるのだろう。おれはこの家を継ぐのだ。暮らしとは、特別賑やかでなくてもいい。ただ、娘にも母堂にも決して淋しいような思いをさせてはならない。それが自分にできるだろうか。

 求められる像とは数知れない。向坂の家の次男として、上手いことやりくりしつつ世を渡ること。今は勉学に対して、将来は職に対して、勤勉に励むこと。健全であること。世の中の役に立ち、国のためにしっかり生きてゆくこと。だが、こうあれと言われたものの以前に、おれは何を正しいと考えて、どうやって行動するだろう。

 おれには一体、何ができるだろう。

 ……考え事にふけっていたので、人が入ってきたことに気付かなかった。

「こんにちは」

 鈴のような声に言われて、おれははっと顔を上げた。他でもない母堂とあの娘が茶の間に来たところだった。彼女たちは音も立てずに向かい合う位置に腰をおろした。娘はやはり、何ともいえず綺麗だった。濡れたように光る睫毛まつげの先や、細い首筋。そんな見た目はさることながら、心の奥にぴんと張る糸を持ったような佇まいに、内面の綺麗さが見出された。

 おれは内心は大慌てで、しかしそれを隠すために涼しい顔を取り繕って水を飲み込んだ。父が夕べにぐい呑みを傾けた仕草を思い出して、せそうになった。

「こ、こんにちは」

 舌を噛みそうになりながら返すと、娘も母堂も黙って会釈をした。挨拶の先の言葉を促されているのだと気付いて、おれはまた慌てた。その結果、色々と話そうと思っていたこと──娘の美しさに見惚れたことであるとか、自分の心や決心であるとか──をすっかり飛ばして、結論を口走っていた。

「お嬢さんと、結婚したく思います」

 言ってしまってから自分でも唖然とする。出方を間違えたと思った分、沈黙が痛かった。だが時間とは巻き戻らない。無言の二人を前に、言葉を重ねるしかなかった。「大事にします。幸せにしてみせます。後悔はさせません。決して淋しい思いもさせません。なので、なので」

「──あたくしを」

 その時、綺麗な声が、おれの必死の懇願に重なった。おれは弾かれたように娘を見つめた。彼女はやはり意思の強そうなしっかりした光を瞳に宿していながら、純粋に驚いているようだった。細い手の先がかすかに震えていた。

「あたくしを、好いてくださるのですか」

 ありがとうございます。娘は思わずといった様子でそう呟いた後で、隣の母堂の顔色を見た。母堂は微笑んで、おれを見ていた。戸惑ったが、結局おれも真っ直ぐに見つめ返した。不思議と緊張が解けていくのを感じた。

 母堂は問うた。

「ご両親には、もう話してあるのですか」

 おれは、はいと頷く。

「あなたのその決意はこれから先、変わりませんか」

「はい、必ず」決して軽々しく聞こえないよう、しかしきっぱりと明瞭であるように。

「変わりはしません。絶対に」

「そうですか」

 母堂は頷くでも首を振るでもなく、ただ軽く俯いた。瞑想しているようだった。少しの間の後、静かに視線を娘の方に逸らすと、母子おやこは黙って笑い合った。

 茶の間にも、庭にも、音を立てるものは何一つ無かった。美しく密やかに、慎ましやかに二人は笑みを交わした。そうしてから母堂は、娘の髪を撫でながらおれの方を向いた。

「このの父親は、三年前に従軍して、異国の地から戻っては来ませんでした」

 おれは何も言うことができずに瞬きをして、安らかと言える程に静かな母堂の表情を見ていた。

「…………」

 母堂は目を逸らさなかった。

「私たち、多くのことは望みません。大きすぎる幸せなんていりません。小さくていい、この娘の幸せが私の幸せです。……あなた、この娘のそばにずっといてやってくれますか。大切にしてやってくれますか」

 限りなく澄み渡った声に、視線に、切実な色が見えた。……その気色が、こんなにも胸を打つ。

 優しく、柔らかく、なのに芯の通っていて強い。なんと美しいのだろう。おれはこの美しいひとたちを愛し、そして守りたいのだ。

 必ずや、と言おうとしたのに何か熱いものが喉元に詰まって、声が出なかった。代わりにおれは額ずくように深く頭を下げた。混ざるものなど何も無い、ただひたすらな誠意を伝えたいと思った。


     ✵


 工房に飛び込んで「おい」と声をかけると、二つの木片が飛んできた。反射的に掴んで見れば、下駄だった。歯の高さは見事に揃い、表面は割合つるつるとしている。一瞬完成形かと思ったが、鼻緒はついておらず、三つずつ三角形を描くように穴が空いていた。顔のようだ。これではとても履けないのに、どうして出来上がったもののように感じたのだろう。きっとあまりに手触りが緻密だったせいだ。

「なんだ? これ」

 日の差した通りの側から見ていると、明かりを灯していない工房は陰って見える。その中で乾は顔も上げずに手に持ったままの木板をヤスリで磨きながら、「お祝いだ」と言った。「鼻緒は適当に問屋にでも行ってつけてくれ」

「お祝いって……」

 首を傾げると、乾は笑った。

「その弾んだ声を聞けばわかるさ。婚約は成立したんだろ? 悪いが、僕はあげられるものをこれ以外に持っていないから」

 さて散歩に行こうか、と彼はいつものように言うと、立ち上がった。袖で雑に顔を拭うのも、袴の木屑を叩いて払うのも、平生と何も変わらない動作だった。


「東京に行くことになったよ」

 そう乾が言ったのは、往来の只中でのことだった。くるまの通るがらがらという音や人々のざわめきの騒々しさの中、特別張っているわけでもないのに、彼の声はよく通る。

 おれは立ち止まった。今日は乾が僅かに先を歩いていて、彼の背しか見えなかった。そこからはどんな表情も窺い知ることができない。

「はっ? 一体いつ?」

「明日から」

「それはまた突然だ。観光か? 羨ましいな。何日ぐらい行っているんだ?」

「いや……」

「珍しく歯切れが悪い」

 君らしくない、とこの間言われたのと同じことを、冗談で返すつもりでそう指摘した。乾が振り向く。彼は笑っていた。ややあって、「もうここには帰って来ないかもしれない」と、それこそ冗談のような軽い調子でそう言った。

 自然とおれは立ち止まっていた。「それは」

「父が、昇進して中央に行くそうだ。三日ほど前に手紙を寄越してきた。母さんと共に東京に移るが、そろそろお前も下らないことをやめて家族三人で暮らさないかと」

 すっと息を吸い込んだ。三日前に手紙を既に受け取っていたということは、この間会った時には既に乾は東京行きを考えていたということだ。おれがどこまでも軽くなった口で見合いの話をしている時、この男は腹にどんな思いを抱えていたことか。

「お前、行くのか」

「行こうと思う。行くべきだとも、思うし。君にはここで散々世話になったな。ありがとう。さっきの下駄にはその感謝まで含まれていると思ってほしい」

 さらさらとした調子で言葉を紡ぎ出しつつ、彼は苦しそうだった。些細な言葉の端々からそれを感じ取ったおれは、つと彼の白い額のあたりを眺めた。真っ白な紙の裏に黒く塗られた部分があるのに気付いたような気分であった。反応に出して良いものか、そもそも気付いても良かったものか、わからない。

 とはいえ何が彼を傷つけたのかはすぐに察した。

「下らないことではないのにな」

 おれはせめてもの気休めに言った。しかし大部分は本心でもあった。乾が父の元を離れ、こうしてこの土地に暮らしているのには、これまで実家でぬくぬくと過ごしてきたおれには想像もできないほどの、並々ならぬ決心があったに違いないのだ。

 そしてその彼が再び家という枠の中に戻ることを既に決めたと言うのなら、そこには更に重くて深いわけがあるのだろう。

 彼が歩き出したので、おれもまた進み出した。手に掴んだままになっていた下駄を、そっと腕に抱え直す。一切の音は立てない。如何いかなる慰めの声も上げない。

 心無い言葉で触れたなら、乾という人間がヤスリでざらざらと削るように無惨に欠けていってしまう気がした。だから気安く何かを尋ねられるはずもなく、おれはただどうでもいいようなことを喋って、この微妙な雰囲気を誤魔化そうとした。それしかできなかったのだ。

「東京に行ったら、お前も、洋服を着るようになるのかな」

 乾は肩をすくめた。苦笑いしていた。

「そうだな。こんな襦袢に着物なんていう格好では笑いものにされるだろう。これからはシャツに上着だな。それに背の高い黒帽子だ。参ったな、とても似合うとは思えない。……あと」彼はすっと足元に視線を落とした。「下駄も駄目だ。靴を履く」

「それは、そうだろうな」

「父はもう何年も前からそういう格好なわけだが……」

「それも当然だ。お役人なんだから」

 江戸川が見えて来た。視界が開けて、薄い色の空のずっと向こうに、動かない大きな雲が立ち上っているのを見た。先日のようにおれたちは欄干から銀色の川面を眺めた。風のない日だ。流れる水は飛沫しぶき一つ立てずに、まるで鏡面のように空を映していた。

 東京に行くよ。

 乾は再び呟いた。おれは何も言わずに被っていた学帽を手に取って、万感の思いで対岸を見つめた。乾もそうなのだと思う。抱える思いは同じではないながら、横並びに立って、同じ方向をずっと長いこと見つめていた。

 ようやく彼が口を開いたのは、夏の長い日がようやく暮れ始めた頃だった。しばらくの間寡黙に立ち尽くしていた照れ隠しのように、目を細めて微笑んでいた。「随分と年季が入っているな」とおれの帽子を見てひとしきり笑ったあと、目元をぐいと袖で拭って。

「燐寸を一本、くれないか」

 と、そう言った。

「燐寸? どうして燐寸?」

 おれが首を傾げると、「君に会った記念だ」と言う。見れば、乾はさっきまでとは打って変わって、明るく穏やかな顔をしていた。

「記念」

「ああ。御守おまもり代わりだな」

 思わず吹き出した。

「それが燐寸なんてものでいいのか? おれは別に構わないが」

 おれは懐から持ち歩いている紙の小箱を出し、そこから一本の燐寸を取り出して彼に渡した。彼はありがとうと礼を言った。白い手のひらの上に、赤くて丸い頭薬の色が映えていた。

「新しい暮らしが始まるという意味では、お前もおれも同じだな」

「ああ。ああそうだな。……貰った奥さん、大事にするんだよ」

「言われなくてもわかってる。なんというか、変な言い方かもしれないが、きちんと尽くしたいと思うんだ。こういう思いをなんてていうんだろうな。忠義、かな」

「忠義?」からからと彼は笑った。「まあ、お前はなんだか犬のようなところがあるから、わかる気がするな」

「それは良い意味か?」

 談笑するおれたちの影が地面の上に伸びていく。

 段々と夜の色が濃くなるにつれて吹いてきた風が、涼しくて心地よかった。静かに進む高瀬舟の影の輪郭が美しかった。

 燐寸一本。

 たったそれだけだが、おれが渡したそれを持って、乾は新転地へと足を踏み入れる。遠いようだが、確実に同じ地平の上にある点と点。そうか、彼が松戸を出て行ってしまっても、それは決して友人を失うわけではないのだなと、おれはそんなことに安堵と感動を覚えていた。

 だから、そのとき隣にいた友の持っていた、奇妙ともいえるほどの明るさについて、さして深く考えることはなかったのだ。


     ✵


 限りなく浅く眠っていたのか、それともちっとも眠りへと落ちてはいなかったのか。とにかくそんな息苦しさに、おれはとこの上に起き上がった。軽い眩暈めまいを感じる。嫌な汗で身体全体がべたべたとしていた。

 どうにも目が冴えて、なのに頭が緩く紐で縛られているかのように妙に重い、夜だった。

 手探りで起き上がった。真夏の晩の闇は暗いのに透明だ。筆で墨を幾重にも溶かしたような色の虚空が、顔を体を包んでいる。

 外の空気でも軽く吸ってこようかと思い立って、立ち上がる。机の上の小箱を懐に入れて、廊下を忍び足で通って外に出た。白々とした三日月が滲むように淡く空に輝いていた。薄い雲や陽炎の掛かったような曖昧な意識だったが、足は自然と行き慣れた工房の方へと向かった。もしかしたらおれはこのとき何かがおのれを呼ぶ声を、無意識のうちに感受していたのかもしれなかった。

 そうだと思えてならないのだ。


 乾が工房と呼んで住んでいた粗末な小屋は、燃えていた。


 ガス灯も消え、眠りに落ちて静かな夜の町の中に、小屋は夢のように光り輝いて浮かんでいた。燃える様が息を呑むほどに美しかった。爆ぜる火花がそこらに飛び、真紅の炎がちらちらと木の壁を舐める。火からすれば工房はさぞ美味しかろう。何せ中は木屑や木材だらけなのだから。

 その時、揺らめき形を変え続ける炎の中に、一瞬だけ眼が見えた気がした。誰かの目ではない。人ではない。何か動物でもない。……強いて言うなら、神の眼なのだ。

 呆然と立ち尽くしていたおれは、はっと我に返った。

 扉は開いていた。それは平生のような彼の身の回りへの無頓着さゆえではなくて、空気のめぐりを考えた計算ゆえなのだろうと思った。息が詰まる気がした。何か黒い漠然としたものが胸のあたりに広がっていた。嘘だろう、と思う。やめてくれ、とも思う。自分でもわけのわからない何事かを叫びながら炎に飛び込んだ。その名を呼ぶ。

「いぬいっ!!」

 友の姿は探すまでもなかった。いつもの下駄作りの空間の中央に突っ立って、虚ろな目をこちらに向けた。「ああ、来たのか」。火の手はまだ周りの壁を焼き焦がすばかりで、中の方へ広がってはいない。でも熱い。熱い、苦しい。床に散らばった木屑が真紅に煌めく。蹴倒されたらしい瓶からこぼれ出た液体が、彼の足元を濡らしていた。てらてらと光る。油だ。視線を上へと戻せば、乾は手に燐寸を持っているのだった。そこに火を点けて床に落とすのが最後の一仕上げというわけか。

 燐寸を一本、くれないか。

 そう河原で言ったときの声色が浮かぶ。記念? 御守代わり?

 力任せに搾られるような痛みが全身を貫いた。一体何の搾取だ。駄目だ、とか、嫌だ、とか、そんな思い──煎じ詰めてしまえば圧倒的で純粋な拒否感で、脳髄が沸騰する。おれは喚きながら、細い彼の体に飛びかかっていった。無我夢中で彼の指から燐寸を奪い取り、そのまま強引に手を引っ張って外に連れ出した。

 ようやく幾分涼しくて新鮮な風を吸い込んで、せ返った。

 炎に直接に熱された空気で、肺は限界を迎えていたのだろう。思い出したように煙の染みて痛む目に涙が滲んできた。うなじの毛がちりちりと燃えるような感覚が甦る。今更だが、ああ、あれ以上長く中にいたら死んでいてもおかしくなかったと思う。

 吐き気を感じながら無理やり顔を上げると、乾は普段と一切変わらない顔色で立っていた。その様子に空恐ろしさすら感じた。困ったように微笑む彼の横顔を、すぐそばで燃える工房の炎が照らし出す。薄くその口が開く。

「止めたり、しないで欲しかったのに」

 それを聞いたら、自制心など吹き飛んだ。気がつけばおれは、彼の胸ぐらを掴んでいた。

「……失望した……っ」

 吐き捨てるように、だが同時に怒鳴りつけるように言ったのは、そんな一言だった。目を見開いた彼の顔面に向かって、堰を切ったように溢れ出す言葉を無茶苦茶に投げた。

「失望した!! お前が……お前が、自分の進みたい道と、父親に敷かれた道との間で苦しんでいたのぐらい、わかっていた。だが、困った果てに死を選ぶような、そんな弱い人間だなんて知らなかった。知りたくもなかった! おれの友は、そんなではなかったっ」

「それなら、どんなだったと言うのだ」

 乾が顎をぐいと引いて、掴まれたままこちらを睨み返してきた。微妙にずれていた視線が、今ようやく寸分の狂い無く噛み合った。見えない火花が散った気がした。

「君に、一体、何がわかる? 婚約も決まって幸せで、思い悩むことなど何も無い君が!? 僕の悩んだことについての何が!!」

「それは……っ」

 おれが歯を食いしばるのと、乾が細い腕でおれの着物の胸元を掴み上げるのが同時だった。ぐっと顔と顔が近づいて、きりよりも鋭い眼光におれは突き刺される。

「考えた。ずっとずっと、考えた」と、彼は怒鳴ることをやめて、荒い息の間にねじ込むように言葉を吐いていた。「わかるだろうか、手紙を受け取った後の、僕の絶望が。僕は、父のようになるまいと思って、誓って、そういうつもりで生きてきた。形ばかり外の世界を真似て、何一つ変わらない内面を持ったまま文明だの発展だのと騒ぐのを、馬鹿らしいと、嘲って生きてきたんだ」

「…………」

「だが、実際にはどうだっただろうか。家を出て、この地にやって来た。だが、食事で頼ったのは、父の知り合いの家だ。住んでいたこの工房は、父が僕にあてがったものだ! 僕は常に父を馬鹿にしながら、父の手の上に守られて生きてきた。結局、過去に縛られずに、むしろ突き放して生きていこうとしたって、それは全て芝居だった。進みたい道と進むべき道の間に引き裂かれそうになる振りをしながら、その実一歩たりとも動いていなかった。外面ばかりいい気になって、内面が何も変わっていなかったのは、自分自身だったんだ」

 日頃こんなにも饒舌な彼を見たことは無かった。乾はいつも、胸に何事かを秘めて抱えて、それを誰かに見せることなく悠然と微笑んでいるように見えた。しかし今、叫ぶように話しながら、彼はずっと、ずっと苦しそうだ。

 強く立つ、一本の大木。だが、木材とはある一定の方向に力を掛けてしまえば案外あっさりと割れてしまうものだ。そういう類の潔さを、彼は持っているのかもしれないと考えたことはあっただろうか。

 乾は笑わない。

「その上、僕は父が決して履くはずのない下駄を、手ずから作ることに意味を見出した。そんなことで、狡猾な気分に浸っていた。猿芝居もいいところだ。……ああ、僕は自分にさえ誠実ではいられなかった。何に対しても忠義が誓えぬと言うのならば、生きているべきではないのだ」

 もう止めないでくれ、と彼は下を向いて言った。乾がおれの胸ぐらから手を離した。おれも掴むのをやめていた。

 随分と長い時間が経ったように思えるが、実際はおれがここに着いてから大して経過していないに違いなかった。今もすぐ真横では工房が燃え盛っている。中にあった下駄は、全て燃えてしまったか。今目の前で泣きそうな顔をしているこの男のしてきた作業は、全て無駄だったであろうか。

 火の中に再び飛び込まんとする彼を止める権利など、おれにはなかった。……だが。

 それでも尚、義理だけはあるように思うのだ。

 おれの道義は誰にも、眼前で俯く彼にさえも奪うことはできないものだから。

「逃げろ」と、呟くように言った。

 乾は怒りと悲しみの籠もった目でおれを見上げた。「どうして」

 さっきまでの話を聞いていなかったのか?と言いたげだった。しかしおれもまたふざけているわけではない。乾が追い詰められた先に何を選んだかを知った上で、言っているのだ。睨み返した。彼の意志の強さに屈することなく。

 炎のぜる音。

「いいから逃げろ。放火は罪が重いんだ。厄介事になる前に、走って、何処どこへでも行ってしまえ。そして二度と姿を見せるな」

「罪を被ってくれるわけか? 親切なことだな」

「まさか。おれは今、幸せなんだ。やってもいない罪など被って、わざわざ庇うものか。……だが、お前が姿を消してくれなければ、おれは逃げられないじゃないか。まさか目の前で人に死なれるわけにはいかない。おれが逃げるために、お前が逃げろと言っているんだ」

「……ぼくは」

「早く行けよ。おれに責任を押し付けたいか」

 いかに静かに寝静まった街であっても、燃え続けていれば誰かが気づく頃だった。

「……っ」

 乾は歯を食いしばったようだった。この男はおれに迷惑をかけることを望まないだろう。そう考えたのは一種のたちの悪い賭けのようでもあったが、実際に彼は自分に選択肢が無いことを悟ったようだった。

 僅か一瞬だけおれを見つめた後、顔を背けるようにして夜闇の中へと駆け去っていった。

 小さな溝鼠が一心に走っていくように、強大な敵から少しでも遠くへと逃れようとするように。かっかっと下駄の音が離れていく。赤い光に照らされたその背が見えなくなってからも、おれは少しの間闇を眺めていた。

 おれは乾の今言ったように、幸せだ。わかっている。すまない、と思う。これくらいしかできなくて、すまない。許してくれ。彼に対する言葉は、全てが無責任だ。ただの浅はかな願望だ。欲張りで我儘だと言われるだろう。おれのことなど嫌ってくれて当然だ。

 それでもいいから、ただ、生きろと祈る。

 強くなくてもいい。どんな無様な姿を晒したとしても、決して笑いはしないから。おれの知らないところであってもいい。大きな波の中に呑み込まれるな。逃げて、逃げて、どこかに生きていてほしい。……どうか、生きてくれ。

 束の間、黙祷のように胸の中で想った後、おれはかっと目を開いた。

 懐に入れていた燐寸箱を燃え盛る炎の中に投げ込み、「おおい、火事だ」と全力で街に怒鳴った。





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