蘇芳ぽかり

序章 花に文





 初雪の降った日の、夕方であった。


 自室で詰襟から柔らかい和服に着替えると、ようやく肩の力が抜けた気がした。大きく息を吸って、はあと吐き出す。工場では無意識のうちに呼吸を浅く潜めているのが常になっているのだと、気づく。

 働き手としておれも社会の一歯車として機能するようになって、もうすぐ三年が経つ。しかし、自分も立派になったとか、大人になったなどとは全く思わない。未熟な若造のままだ。仕事は、疲れる。それは無論のことである。誰しも苦しみたくはないだろうが、楽をするために生まれてきたのだという気は毛頭ない。

 おれは茶の間に行って、火鉢の前に腰を下ろした。仄かな温かさが、疲れの積もった体にじわじわと沁みていくように思った。

 実家の持つ伝手によって、これでも工場の中でも第二部署副長という立場に位置しているのだから、肉体労働に関してはもう少し手を抜いていいものかもしれない。だが、親の意向もあって大学を一応は出ているとはいえ、元来から頭脳労働は向かないたちなのだ。無い頭を働かせているよりは、他の労働者たちに混ざって手足を動かしていたかった。

 と。

「お茶、入れたわよ」

 妻が茶の間に入ってきた。彼女は盆を近くの卓袱台ちゃぶだいの上に置くと、おれの隣に静かに座った。

「ああ、ありがとう。……義母かあさんは?」

「夕食の準備。手伝うって言ったのに、いいって言われて。たまにそういう日があるのよね」

 おそらく母堂はおれたちに気を遣ってくれているのだろうと思った。そして、妻もきっとそれをわかっているだろう。敢えて全てを言葉に出したりはしないが、気付き、そしてそれぞれに暮らしの中で細やかでも返していく。優しさというものに対しては繊細でありたい。

 湯呑みを受け取ろうとして、おれはつと目を瞬いた。黒塗りの盆の上には、一輪の赤い椿の花が置いてあったからだ。半透明な雪が花弁に微かに乗っていた。澄んだ冷たさがあるのに、どこか丸みを帯びたその花は、下を向いて働いてばかりいては失ってしまうものを思い出させてくれる気がした。

 おれは湯呑みを傾けながら、妻の横顔を盗み見た。あまり上流階級のような良い暮らしはさせてやれていないのに、こういう風流の精神を忘れない彼女のことを、心の底から美しく尊いと思う。

「椿。……綺麗だな」

「でしょう。庭の木から落ちてしまっていたから、取っておいたの。あなたは今日雪が降ったのを見ましたか。すぐ止んでしまったけれど」

「見た。昼過ぎかな、誰かが窓の外を見て、降っているようですと教えてくれたんだ」

 おれたちは機械を止めて、ほんの僅かな間、外に出た。不思議と寒さは感じなかった。灰色の雲間から花びらよりも重く、雨よりも軽く散る雪を、各々めいめいに様々な思いを抱えて見上げていた。結晶しただけの水であるのに、雪とはどうしてこうも、淡いのにしっかりとした生命感に溢れているのだろうか。

 正月過ぎの初雪は何か特別なものを感じさせた。

 季節の巡り。止まっているように思える瞬間も時にはありながら、しっかりと動いて回っていく世界。

 ふと視線を感じて、横を向けば、妻が柔らかく微笑んでいた。

 なんだろうと首を捻ると、彼女は口元に手を遣った。「あなたが、とても遠くを見つめるような目をするのもだから。……あ、そういえば」

「どうかしたのか?」

 妻は斜め上の辺りに視線を向けて、何か引っかかることがあるような顔をした。「今日、お義兄にいさまが来られましたよ」

「兄貴が? またなんで」

「ご実家にあなた宛の手紙が届いたそうで、それを届けに。でも送り主の名前が書いていないみたいなの」

「はあ。……よくわからないが、見てもいいかな」

「ええ、もちろん」

 彼女の持ってきてくれた白い封筒を見れば、確かにおれの名前と実家の住所が書いてあるだけで、誰からのものなのかは全く書かれていない。だが、その几帳面な筆跡を眺めているうちに、一つの予感が頭に浮かび上がってきた。

 まさか、とは思った。

 だがそれと同じくらいに、もしかしたらと希求する気持ちもあった。

 何かに駆り立てられるようにおれは爪で封を切った。落ち着け、焦っても意味がない。そう自分に言い聞かせながらも、もどかしくて仕方なかった。ようやく中に入っていた便箋一枚を開いて、息を呑む。

「ああ……ああ」

 紙の上に視線を躍らせる。最後まで目を通した時、意図せず目頭がじわりと熱くなった。

 男の癖に泣くなど情けない。そう思って止めようとしても、強引に拭っても駄目だった。溢れ出る感情をこらえ切れなかった。自分でもこれがどんな思いなのかもわからぬまま、後から後から、涙が盛り上がって頬を伝い落ちていく。

 台所の方から戸棚を開けたり食材を切ったりする音が聞こえるほどに、対象的な茶の間の静けさを感じた。自分の鼻をすする音ばかり、整然とした空間に響いていく気がした。

「これは、はは……こんなつもりじゃないのにな、おれ……」

 強がって笑い、弁明しようとするおれに、妻は何も言わなかった。何も聞かずにいてくれた。ただ黙って膝立ちになると、おれの頭をひしと抱きしめた。優しい温もりに、そっと口を塞がれる。歯を食いしばる。嗚咽が漏れて、いつしか子供のように泣きじゃくっていた。

 やがて日の落ちた窓の外を、再び雪が舞い出した。白い雪の粒が、周り中の全ての音を吸い込んでしまうかのように、冬の夜は静かだ。澄んで、張り詰めて、透き通るほどに、静かだ。


 妻の細い腕の中で、おれの魂は数年前のあの夏へと帰っていた──。












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