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 「出ていくよ。食ってくくらいは、自分でなんとかできる。」

 俺がそう言っても、父親は眉一つ動かさないだろうと思っていた。でも、違った。父親は、ソファから立ち上がった。それも、取り乱した様子で。

 「どうして?」

 どうしてって……、

 単に理由が、売春する父親への嫌悪なら、それでよかった。口に出してそう言えたし、なんなら、高校卒業するまでは、嫌悪感を抱きつつもここに居座ることだってできただろう。でも、理由がそれだけじゃないから、俺は、父親の肌に未練を残してしまっているから、取り乱す父親に、確かに欲情し、抱きたいと思っているから、だからもう、なにも言えないし、ここにはいられない。

 どうして? と、父親が繰り返した。俺は首を横に振った。ただ、なにも言いたくはないと。父親が取り乱しているわけだって、俺を失いたくないからではないと分かっていた。父親が失いたくないものは、ここまで取り乱してまで求めるものは、俺自身ではなくて、俺を通して見ている母親の面影だ。

 ここにいる義理は、ないよ。あんたに母親の幻を見せ続けてやる義理は、ない。

 そう口に出さなかったのは、父親自身は、俺を通して母親の幻を見ていることに、気が付いていないようだったからだ。教えてやる義理もない、と思ったのは強がりで、本当は、教えたくなかった。悔しくて。ここまできても、父親には俺自身が見えていないのかと思うと、無性に悔しくて。

 「ここにいろ。不自由はさせない。大学まで出してやるし、そこから先だって、好きにしていいんだ。働きたくなかったらそれでもいい。俺が食わせてやるから……、」

 ぐらぐらと均衡を崩しっぱなしの父親の台詞。それは、中卒で父親について施設を出てきたという母親に向けても多分、かつて発せられたものだ。やっぱり、俺は、俺個人として父親の前に立つことすらできていない。だったら、出ていこう。迷いはなかった。

 「出ていくよ。」

 じゃあ、と身をひるがえして玄関へ向かう。父親は、俺を引き留めようと腕を引いてきた。あのきれいな男娼とは違って、か細い力で、それでも縋るみたいに。俺は、それを振り払った。

 振り返らずにマンションを出て、観音通りを抜けて駅に向かおうとして、自分が下着をつけていないことを不意に思い出す。笑えた。笑いながら、視界を塞いでくる涙を拳で拭った。俺は、俺個人を認めてくれる人をさがしに、どこまでも行くのだと、ざわめく胸に言い聞かせた。

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観音通りにて・父親 美里 @minori070830

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