18
マンションのドアを開け、短い廊下を抜けるとリビングがある。そこには深緑色のソファが置かれていて、父親がぐったりと身を沈めていた。いつもの光景だ。まったくもって、いつもどおりの。そしてさらにいつも通りにいけば、俺は父親の横をすり抜けて奥のドアを開け、自分の部屋に逃げ込むことになっている。言葉どころか、顔を見かわさないで。
父親は、俺がそのいつも通りの殻を破って、ソファの前に立っても、動揺した様子も見せなかった。身体を起こすこともせずに、ただ空気の抜けかけた人形みたいな姿勢で座っていた。
「……なんで、母親が生きてるって、俺に言わなかったんだよ。」
きれいな男娼と別れてここに戻ってくるまでの数分間、頭の中で言葉をひねくり回してはいたが、結局出てきたのはそんなつまらない台詞だった。父親はゆっくりと瞬きをし、平然と返してきた。
「死んでるとも、言ってないけどね。」
俺は黙った。確かに、そうだったから。俺はこの男から、母親についてなにも聞いてはいない。生きているとも、死んだとも。ただ、俺が勝手に死んでいると思い込んでいただけだ。
「……だからって、分かってただろ。俺が勘違いしてるのは。」
父親の、まるで動じていない態度に苛立って、俺の言葉は幾分荒くなった。それでも、父親はやっぱり、視線すらだるそうに宙の一点に投げやったまま、するりと応じた。
「必要を感じなかったので。」
「……俺の、母親だろ。」
「だから、なにか?」
言葉に詰まった。だから、なにか? 問われれば、言葉が見つからない。実の母親の生死すら分からない状況で、それでもここまで生きてきた俺には。
父親の視線が、虚空から俺に移動した。色の薄い目をしていた。関心が、薄いせいかもしれない。
「ただ、腹から生まれたってだけで、なんの権利を持ってるつもりなの?」
関心が薄い。そう思ったのは確かだったけれど、父親の言葉に含まれている感情は、薄くはなかった。そこに熱すら、俺は感じた。同じ施設で育ち、同じ家に暮らし、子どもまで作った女に逃げられたこの男は、そんな記憶の一切を持たないのに、当然の権利みたいに母親の情報を求める俺に、確かな怒りすら覚えているようだった。父親の目が、燃えていた。これまで、一度も見たことがない色だった。蛍火みたいな、青白い炎。俺はその色を見て、なぜだか他人事みたいに、きれいだ、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます