17

 俺は首を横に振った。自分が全然優しくないことくらい、百も承知だった。

 「もし、俺が優しかったら、なにもしなかったと思います。父親を買ったりしない。なにも見ないふりをして、高校卒業して、親元離れて、暮らしていくんだと思います。」

 俺には、それができなかった。どうしても。

 彼は大きな目を伏せて、少しの間、考えるような間を置いた。薄くて繊細な、蝋細工みたいな瞼をしていた。

 「……敬吾さんも、きみも、優しいよ。でも、お互いに優しくできないんだね。……近すぎる、のかな。」

 父親も、俺も、そもそも優しくなんてない。それに、近すぎたことなんて、これまで一度もない。いつだって俺たちは、遠かった。

 遠かったなー、と他人ごとみたいに思ったら、なぜだか急に涙がわいてきた。空が曇って雨が降り出すみたいに、ごく当たり前の現象みたいに。

 自分でも、なんで泣いているのかよく分からなかったから、彼が、どうしたの、と顔を覗き込んでくれても、返事ができなかった。ただ、遠かったな、と思っただけだ。そんなこと、これまでだってずっと、分かっていたのに。

 ちょっとの間、黙って泣いて、その間、きれいな男娼は、俺の隣にただ座っていてくれた。時々通りかかる派手な格好の女の人たちが、彼に声をかけて行ったけれど、彼は軽く手を振るだけで、言葉を発しはしなかった。

 やっと俺が泣き声以外の声を出せたのは、月がほんの少し傾いてからだった。

 「悔しかった。」

 ガキみたいにしゃくり上げながら、それだけ言った。

 悔しかった。父親の関心が、常にもういない母親にだけ向けられていることが。俺には一切の関心が向かないことが。父親の中のなにかが、彼を観音通りに駆り立てていることが。息子である俺の存在が、その衝動を収めることに、わずかばかりも役に立たないことが。ずっと、ずっと悔しかった。

 そっか、と、彼は囁くように言って、俺の肩を撫でてくれた。

 「さっき、黙ってこの街を出て行けって言ったけど、訂正するよ。きみは、敬吾さんに言いたいこと言って、それからこの街を出ていった方が良い。」

 「……言いたいことなんて、もう、ない。」

 「あるはずだよ。だってきみ、泣いたじゃない。」

 悔しかった。俺はそれしか言えなかったのに、彼には俺の中にあるごちゃごちゃした感情の渦が、全部分かっているみたいだった。俺はそのことに、少しだけ安心した。誰かが、俺でも父親でもないけれど、誰かが、俺を理解してくれている。

 そうしたら、大丈夫だと思えた。今なら、父親の元に戻って、言いたいことが言えると。

 「……行きなよ。」

 彼が、にこりと微笑んで言った。俺は、頷いて立ちあがった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る