Along Again

石動 朔

2人の止まっていた時間は

 ぷー、ともう1回そのクラクションは鳴らされる。

 誰が何のためにそんなことをするのか。それは洋介と、その車の運転席に座っている彼女にしか知り得ない。


 部屋の全ての電気を消したはずなのに、玄関の方から照らされる光がガラスを通して部屋全体を明るくしている。そのヘッドライトが、今が夜中であることを知らしめていた。

 

 眩しさから目を逸らすように布団をめくり起き上がり、耳元に置いていたスマホを手に取る。そして画面に映る不在着信の文字を見て、みるみるうちに頭が冴えていった。


 ああ、なるほど、思い出した。洋介は心の中で丁寧に相槌を打つ。

 今日の夜、先輩とドライブの約束をしていたのだ。それも、いつもの宛てもなくだらだらと走るようなものではなく、何事にも必ず訪れる区切りの、節目である大事なドライブであった。


 

「すみません。ここまで来てもらって」

 そう言いながら、洋介は自販機で買った妙にぬるい缶コーヒーを先輩に渡す。

 常に車窓を開けている彼女は、んっと呟き視線を合わせず渡した缶を手に取る。

 中を覗くと後部座席についているオレンジ色のライトが、車内をキザな雰囲気に仕立て上げていた。


「いーよ。君はどうせ起きないと思ってたし。早く乗りなよ」

 先輩はもう片方に持っている短くなった煙草を灰皿に捨て手招きし、洋介を助手席に誘う。それは初めにこの車に乗ったときから少しも変りなく続いているルーティーンのようなものであった。

 

 正面に構えるエンブレムは良く見る六連星むつらぼしではなく、銀色の楕円形の中に緑のVマークが刻まれており、その間にVIVIOと印字されているその車専用のものであった。

 緑というには薄く、黄緑にしてはもう少し濃い表現をしたいなと感じるその車体を初めて見たときは、10数秒程度悩んだ末に「カエル色」と答えて笑われたことを洋介は思い出す。

「惜しい、ピーコックグリーン。クジャクの緑だよ」

 そう言って、かつての先輩は黒くて細身のシンプルなハンドルをそっと撫でていた。


 そしてこのヴィヴィオと運転席で立て肘をつく彼女はアンバランスな異様さがあるというのに、それがまるで正解かのように感じてしまう自分もいた。そんな先輩と彼女の愛車のタッグが、洋介はとても興味深かく感じていた。


 元々車高が低い上に、運転席を広くするように設計されている車体は、助手席に乗るために体を90度お辞儀しながら入らないといけない。なんなら後部座席に座るには助手席を傾けてそこにできた隙間から足を一歩ずつ入れる必要があった。

 こんな風に乗るまでにかなりの面倒臭い工程を踏まなければいけないのだが、そこがこの車の興なるところとも言えよう。しかし、そう思えた頃にはすでに廃車は決まっていて、この心燻ぶる発見を先輩に言うタイミングが来ないままいつしか忘れることが増え始め、今ではいつかきっかけがあればすぐに言えるようなところにでも閉まっておこうと思うようになっている。


 扉を閉めると、後方から照らしていた淡い暖かな色が消える。その途端車内は外と変わらぬ雰囲気を帯び、どこからか入ってくる冷気が露出している肌の一部をそっと撫でていった。

 ただ、この空間が外とは違う車内として確立しているのは、タバコと共に漂う少し刺激を含んだ懐かしく優しい匂いが洋介を包んでいるからであった。


 時間帯的にも人は誰1人として歩いていない。もう1、2時間すれば朝帰りと言われる類の者たちが駅からゆらゆらと歩いて来るのだが、あえてその時間を避けるのは言わずもがなだ。

 エンジンの一定に刻むリズムと缶の開く音、それ以外は何も存在しない。先輩とのドライブはこうでないと始まらなかった。


「さ、出発だ」

 先輩の掛け声と共にちっちゃなカエル、もといクジャクは動き出す。

 低く唸る控えめなエンジン音が好きだと洋介は常々思う。

 そういうことに興味がない限り、夜中に走る自己主張が激しいマフラー音は好きになれない。むしろ眠むれぬ夜にベランダで風に当たっているとき、このヴィヴィオが目の前を走ったらどうだろうか。きっと視界からいなくなるその瞬間までぼぅっと見つめてしまうだろう。

 その車に乗っていた運転手が先輩であれば尚更良いなと、シートベルトに寄りかかる洋介は前の引き出しに貼られてある、赤く大きな舌を出したローリング・ストーンズのロゴステッカーを眺めながらぼんやりと考えていた。


 未だ地球の外側を翔ける太陽(実際には逆なのだが)の端さえも地平線に揺らめかない深い夜、暗闇には依然間隔の空いた街灯と丸いヘッドライトだけがこの世界に光をもたらしている。


 しばらく走っていると、少し出っ張っているところにタイヤを引っかけてヴィヴィオは車体を上下に揺らすことが多々あった。

 地面の硬さが直に伝わる感触と先輩のドライブスキルによる乗り心地はいつも一進一退の良い勝負だった。舗装された道は先輩に軍配が上がるが、ちょっとした山道に入るとさすがにテクニックで補い切れないところが多々生じる。

「ちょっとでも衝撃があったら勝手にカセットが回っちゃうんだよね」と車が飛び上がるたびに彼女は呟いていた。


 洋介は先ほど言った通りこれといって車に興味があるわけでもなく、煙草を吸うわけでもない。しかしどうしてかわからないが先輩に気に入られ、こうしてよく夜彼女に付き合わされている。

 どういう関係かと言われれば、友人としか言いようがない。なんならただの先輩と後輩だけの繋がりかもしれない。少なくとも恋仲にはなれないと思う。

 なるつもりは今のところないし、それ以前に未だなれる気がしないのだ。


 第1印象は何かと聞かれれば、彼女と初めて会話をしたそのときから常に笑顔が絶えない人なのだなと、洋介は思っている。

 先輩との出会いは、大学に入ってから初めての夏休みで行われた飲み会だった。

 偶然同じ大学に進学した理系の知り合いに誘われ来てみたものの、文系を歓迎するなんてことがある訳なく、元々影が薄かった自分は他の人はおろか、誘った知り合いさえ見失ってしまう程の散々なものだった。

 そもそも酒が飲める歳ではないのだ。当時の自分もその知り合いも、大学デビューのノリが冷めずに浮かれていたのだろうと自室で反省したことを思い出す。 


 そんな会場の隅で途方に暮れている洋介に話しかけてきたのが先輩である。

 学部も年齢も非公開、私のことは先輩と呼べと言っているので先輩と呼んでいるが、その正体は未だわかっていない。

 露出の少ない服装を好むことや前髪が目元にかかっている姿も、その隠された魅惑を引き立てていた。

 多少知りたいとは思ったが、この運転席と助手席に座る関係にそのような感情は必要ないと気づいた途端、その欲はどこかへ閉まわれてしまった。


 だがこの車に乗る彼女は少なからず輝いて見えたし、このピーコックグリーンのヴィヴィオと同様、この情景はある意味何かを突き詰めた結果の1つの正解なのではないかと思わせるほどの、際立った魅力が確かにそこにあった。

 


 住宅地を抜け駅に向かう大通りへ出ると、洋介はその風景に違和感を感じた。

「曲がらないんですか?」

 そう尋ねるが先輩は聞く耳を持たず、ただ前を見つめている。

 そうこうしている内に前の信号が青になり、ゆっくりと車は動き出す。普段なら曲がるはずの道は大型のトラックが信号待ちをしているだけで歩行者も開いている店もない。


 過ぎ去った日常に洋介は少しずつ焦りを感じる。

「あの、どこに行こうとしているんですか。答えてくださいよ」

 今までにないほど静かな先輩は、視線を変えずに言う。

「最後のドライブなんだから、ちょっと遠出するだけさ。明け方までには帰るよ」

 含みのある言い方をした彼女に何を考えているか問いただそうとした瞬間、それを制するように引き出し開けて欲しいと頼まれる。

「午前中講義ある?」

 先輩は右手でハンドルを持ちながら引き出しを開けてさらに肩身が狭い自分の前で、数え切れないほどのDVDを漁る。

「あるにはありますけど、どこまで行くつもりなんですか?」

「そっか、じゃあごめん。午前中は付き合って。あ、あった」

 身動きが取れなかった洋介は、先輩のお目当てを見つけたことで解放された。ヴィンテージ調の色合いの背景でジャケットには人の顔と虫の顔が交互に並べられている。先輩の車で様々な曲(主に80,90年代)を聴いていたが、このアルバムは初めてだった。


「...まぁ変なこと企てなければ良いですよ。付き合います」

「変なことって、さすがにないよ」

 洋介の受け答えに先輩を笑っていた。良かった、少しはいつもの先輩に戻っただろうかと洋介は安心する。

「まぁまぁ行き先は着いてからのお楽しみで」

 そう言うと、改めて先輩は顔をこちらに向けて小さな笑みを浮かべた。


 カーオーディオから、荒く迫力のある音質でイントロが流れる。ノリの良いリズムで刻まれたヴァイオリンのような音色から聞こえる彼の声が、すぐにミック・ジャガーのものだとわかった。

 

 ETCを通過し、ついにすぐには帰れないんだなとわかると、焦りや恐怖を超えた、背徳感を帯びた楽しみが胸の奥でふつふつと湧いて来るのを感じる。真夜中に車の助手席で美しい洋楽を聞きながら涼しい風に当たるのだ。これほど現実から逃避するのに打って付けのものはないだろう。

 しかしそんな好奇心がすぐに萎えてしまうのは目に見えていた。変わらない景色と共にローリング・ストーンズの楽曲を乗せたヴィヴィオがただただ暗い夜の中を走っているのだ。感傷に浸れるのは間違いないが、洋介はだんだんと退屈さが増してきてしまっていた。


 両側の高い壁に阻まれた高速道路に少しばかり慣れ始めた頃、先輩はぼそりと一言呟いた。

「この前の夜、覚えてる?」

 この前の夜...と思い返し、当てはまった日が1つだけ見つかる。

「でも、忘れてって言ったのは先輩じゃありませんでしたっけ」

「それはまぁ、そうなんだけどさ。君があまりにもその日の前後で違いがなさすぎるから、ちょっと心配でね。心配っていうのはどうだろう?良い意味でも悪い意味でも?」

 そう言う彼女は、ほんの少し肩をすくめる。

 事がどれだけ重要なのかわからない洋介は、短い溜息を1つ零した。

「しょうがないって今でも思ってますよ。少なくとも僕は先輩に同情しました。表面上ではなく、もっと深いところで、先輩に。

 顔見知りだったら遠すぎて見えないし、恋人だと近すぎてピントが合わないような、心の小道を縫って見える先みないなところをたまたま垣間見てしまったんです。きっとこんな先輩に染まりきった狭い車の助手席に乗ってるからですよ、まったく」

 まぁこの子も私の一部みたいなもんだしね、と先輩は笑う。

「とりあえず良かったよ。あの日を境に君が私をどんな風に見てくるのか怖かったんだ。けど、取り越し苦労だったみたい。良いドライヴィングパートナーを持てて嬉しいよ」

 その声はいつもの透かした口調ではなく、心の底からの安堵を含んだ声だった。



 これは憶測だが、先輩にとってこの世界は非常に生きにくいところなのだろうと洋介は思っている。

 その日は明らかにいつもと違っていた。異変は初めからだ。


「お風呂、貸して」

 一言、先輩はそう言う。玄関横の窓からはヘッドライトが煌々と光っている。目の前にいるというのに門前払いするのは流石にと思った洋介は良いですよと答え、耳元から下ろしたスマホの画面をタップする。

 通話中、先輩がいるであろう空間からはガラスに打ち付ける雨音がひどく目立って聞こえていた。


 普段1人で暮らしている部屋に誰かがいるのは不思議に思えた。それは親でも友人でも同じ感想だ。そして一緒にいる相手が自分の居住空間で捉える視界に当たり前のように映るのであれば、それこそ将来を共にするパートナーなのだろう。  

 先輩もまた、同様に違和感を覚えてしまう。雰囲気が違っていたり、初めて家にあげたからという理由もあるが、飲み会以来ヴィヴィオが常に共に居た彼女しか見てこなかったため、何か大事なものがすっぽり抜けているような感じがした。

 そんな先輩はどこかあどけない風体で、こんなにも沈んだ顔をしている彼女は本当に同一人物なのかと目を疑ってしまう程の容貌だった。


「変わったって言われたんだ。それで、変わった私を好きになることはできないとも言われた。

 本当に不思議だよ。町中の過ぎ行くバカップルを見てはどうせ別れるって笑いあったり、幸せを、平穏を、永遠さえも誓ったっていうのに、それを失うのは一瞬だった。いや、私が馬鹿だったのかな。もっと早く彼女の異変に気付けてれば、まだ何かあったかもしれないね」

 付き合いは高校から続いていたらしい。相手のガールフレンドから猛烈なアタックを受け渋々付き合ったものの、こうして年を重ねていくうちに蓋を開けてみればその愛のベクトルは明らかに先輩の方が強くなっていたという。


「その変わった原因に、僕は関わっているんですか」

 そう洋介は聞くが、それが何も生まない質問というのはわかりきっていた。さらに言えば、からかっているようにも聞こえるかもしれない。

 

 ただ、洋介は今この状況を次のステップに進ませたくなかった。


「もし君のせいだとしたら、責任か何かは取ってくれるのかな」

 そう聞く先輩の目は、真っ直ぐにこちらを見据えている。

 明かりはキッチンの電灯のみがついていた。外に、雨に濡れたヴィヴィオが待っている。


「こんなこと、僕は望んでないんですけど」

「わかってる。私も、多分今どうかしてる」

 そう言うと、彼女はそっと洋介の首元に腕を回す。タバコからさっぱりと切り離された彼女の肌からは思ったよりも甘くふわっとした匂いがして、新しい感覚が鼻をくすぐった。

 そして迷いが体を強張らせ、あからさまに目を泳がせている洋介を躊躇なく抱き締め、ぴったりと合わさった彼女の体からは人の温もりと柔い感触が伝わってくると共に、互いに心臓の鼓動が速いテンポで共鳴しあっていた。

 しかし、彼女の体重に身を任せることはどうにもできなかった。彼女が嫌だったからではないし、興味の対象からずれていても欲のままに従えば彼女を慰めることはできるかもしれない。

 きっとこういう場面で俯瞰して考えるから、自分の恋愛は続かないのだろうと洋介は思う。


...いや、僕は未だに、くだらない初恋を引きずっているだけだったのかもしれない。


「先輩はそのガールフレンド、好きだったんですよね」

 洋介は彼女の耳元でそっとつぶやく。返答は来ない。沈黙が続きを促していた。

「1つ1つの思い出がまだ鮮明に思い出せるなら、手にした一世一代の恋がまだ手元にあるのなら、僕は先輩の頭を撫でることしかできません。僕と行為をすることで罪を感じるなら、それを感じようと故意にしようとするのであれば、尚更僕は先輩の頭を撫で、夜風に吹かれながら一緒にドライブすることしかできません。

 相手が何を思って先輩の元から去るとしても、今までの記憶を汚すことは、しちゃいけないと僕は思います」

 

 先輩は洋介の服の袖を掴み、強く握りしめる。そして彼女は触れ合っていた体を一度離し、洋介の胸元に顔を押し付けた。

「君の言うことがわからないし、君が私をわかった風にいうのが気に食わないね。こういうのは流れに任せてセックスするところじゃないのかな。君になら良いかもって思ったのに。なのに君はどうして?男ってみんな性に忠実なんじゃないの?もしかして私が来る前に1人でシたの?」

 涙交じりに問う先輩に、洋介は溜息を堪え、まだ湿っている彼女の後ろ髪をそっと撫でてから答えた。


「少なくとも、その大きなキスマークがなくなってからでお願いしますよ」



 オーディオからは「目覚めぬ街」が流れている。「来る日も来る日も」と共にBPMもゆっくりで朗らかな雰囲気のこの曲は、星がまだ明るいこのタイミングにはちょうどが良かった。車窓からは相変わらず高い壁が連なっているが、向こう側から茂った草木が見えている。

 そして案内標識は着実に行先の数字を減らしていた。


 先輩は笑いながら、昔話のようにこの前のことを話している。

 カーナビの明かりがわずかにその姿を照らし、過ぎる街灯が彼女の全貌を仄かに魅せていた。

「決してやりたくはなかったさ。でもあの状況で断られるのもちょっと心が痛むのよ。必要のないダメージを盛大に食らった感じ。

 朝起きたら君が隣にいるって状況には驚いたけれど、同時に自分がなにもされてないことに気付いて本当に安心したことを覚えているよ。君のことを信頼していなかったわけではない、でもされてもおかしくない状況だったからさ...むしろどうして君はあの時手を出さなかったんだい?」

 そう聞く先輩に、洋介はどう答えようか悩んだ。

「実はEDなんですよ」

「私の曖昧な記憶の中で、君のが勃ってたことだけは覚えてるんだよね」

 車内が凍る。

「あー、ええと、わかってると思いますけど、生理的なものですからね」

 慌ててフォローを入れた洋介に、彼女は笑って答える。

「もちろんわかってるよ。目が違った。私の外面しか興味ない男はもっと下劣な目をしてる。こんな感じでね」

 そう言った彼女が真顔でこちらを見つめてくる。その光を宿したままじっと見つめてくる視線に身の毛がよだち、慌てて洋介は目を逸らす。

「もし本当にそうだとしたら、これ以上に怖いものはないですね」

 怯える姿を見て満足したのか、今度は高らかに笑いながら体を前に戻した。

「まぁ良いや、恥ずかしいところを見られたのはちょっと解せないけど、結果的に関係は良くなったと捉えても良いぐらいだ。なんならそのまま君の家に転がり込んでしまおうかな。

 性の問題を気にせずに異性と暮らせるなんて夢のまた夢だと思わない?」

 

 確かに、心を許せる異性と共に居ることと体の関係を切り離して考えられるとしたら、どちらかを求める人にとってそれはとても都合の良いことなのだろう。

 しかし洋介は、自分はそっち側の人間でないことを自覚している。ただただ心を開く上でハードルが高いだけだと他の人から言われているし、そのことをほんの少しわかっているつもりだ。(1つ前のガールフレンドの友達によると、それが相手と自分の間に見えない壁を生む原因になっているんじゃないのかと言われている。ただどうして自分がそうなってしまったのか、確信が得られないまま今に至る)


「車内での先輩とは気を許せるんですけど、家にあげたらまた話は変わります。何というか、まぁあの時の先輩さえも受け止められる程の存在にならないと...って感じです」

「イケメンなのは結構だけど、完璧を求めすぎても恋愛無理なんじゃないの。それこそ相手の変化を愛せる自信がないとだめになっちゃわないかい?」

 先輩は両手でハンドルを握りながら洋介に問う。


「うーん、相手が変わったことをマイナスって捉えなければ良いんじゃないんですか。それに実際はそれが相手の変化じゃなくて自分の考え方の変化って可能性もあると思いますよ」


 アルバムがB面に移る。外をふと見上げると星の明かりがだんだんと薄く消えかかっていることがわかった。


「例えば『彼の、話をいつも丁寧に聞いてくれる姿勢が好きなんだ』っていう気持ちと『彼から話題を振ってくることが少ない。話をするのが嫌なのかな』っていう気持ちは捉え方が違うだけで同じ状況を説明しているように思いませんか」

 そう洋介が言うと、先輩は10秒ほど眉間に皺を寄せていたが、程なくして「なるほど!」と叫んだ。

「ねぇ、それをなんでもっと前に言ってくれなかったんだ。説得するときに使えたというのに!

 一応、本当に真剣な人生2度目の恋なんだよ?」

 彼女は地団駄を踏むと、まるでカエルが跳ぶかのように小さなヴィヴィオが縦に揺れる。

「1度目ってなんですか」

 そう洋介が聞くと、先輩はうーんと呟く。

「まぁ、幼い頃だったからね。かわいい初恋って感じだけど、何故かたまに思い出しちゃうんだよね。

 しかも恋に落ちた場所がいつの間にか私の好きなところになってたから尚更よ」

 

 そんなことより、と先輩は話を変える。

「でもさ、君っていつも付き合って1ヵ月未満で別れるよね」

 落としていた頭を上げて先輩は言う。反撃と言ったところか、唇を尖らせ表情に睨みが効かせてある。

「いつもこっちが吟味している間に離れていくんです。なんででしょう、女性は熱しにくく冷めにくいと聞きますが、出会った人はもれなく最初から段階を飛ばしてくるんですよ。僕だって、好きになれば人並み以上に相手を愛したいし、甘えたり、甘えられる関係になりたいんです。さすがにここまで典型的に続かないとなると自分に原因があるのはわかりますよ。少しばかり、心当たりありますし...でも、これって僕が恋愛観を見直した方が良いのでしょうか」

 俯きがちだった顔を先輩の方に向けると、その表情は知らんこっちゃないと言わんばかりの顔をしている。

「慎重過ぎることは悪くないと思うけど、恋っていうのは常に刺激が必要なものだと私は思うよ。あと失恋したばっかの人に恋愛相談しないでもらえるかな?そういうデリカシーがないところが相手を不安にさせるんじゃないの?

 まぁきっと君は良い伴侶を得られるだろうからさ、はい、この話終わり。私のこと引いてないのならよし!」


 心なしか先程よりも表情が柔らかくなった彼女は、ボトル入れからWinstonと刻まれた赤い箱を取り出し、慣れた手つきで真っ白なタバコを一本取り出した。

 それを左手の人差し指と中指で挟めてさりげなく口元に寄せ、んっとこちらに先端を突き出す。洋介は彼女に合わせて灰皿の隣に置いてあるミニライターに火をつけて、片手を添えながら先端を炙った。程なくして灯った火がゆっくりとタバコを燃やして短くなっていく。

 しばらくの間ハンドル片手に窓の方を向いていた先輩がタバコを咥えながら前方に向き直る。

「いつもありがと」

 先輩は一言そう呟く。


「この前友達に親指見られたときタバコ吸ってんのかって言われて、違うよって言ったらじゃあどうしてだって聞かれたから、いつもタバコをつけているんだって答えたら、お前は誰かに隷属してるんかって言われましたよ」

 偶然思い出したことをうろ覚えながら稚拙な日本語で洋介が言うと、先輩はにやけながら煙をこぼしていた。

 結局吸ったのは2口か3口で、あとは全部彼女の指の間でただ灰になり、それが窓の外で崩れて流れていった。

 

 いくつかの短いトンネルを抜けると左右の壁も低くなっていき、大きめの建物の屋上が見え始める。

 地球も正常に回っているのだろう。空はすっかり星が目立たなくなり、白群の天井はヴィヴィオの肌に良く似合っていた。

 長かった高速道路の旅は、逗子ICを経て終息に向かう。ついに解き放たれた緑が道路に溢れんばかりの勢いで茂っていて、直線状の道は先の夜明け前の地平線を映していた。

 ETCから出るタイミングで吸っていたタバコはとうに灰と化し、空気を取り持っていたアルバムは16曲目をもって静かに終わる。          


 機械音を帯びながらゆっくりと現れた円盤を手持ち無沙汰だった洋介は引き出しにしまう。

「あ、First Finaleお願い」

 そのまま戻そうとする姿を見た先輩から続けてそう言われ、3層目に積まれていた「First Finale Concert」を取り出す。


「父はずっとストーンズが好きで、母はインディーズの頃から杉山清貴が好きだったんだ」

 懐かしい記憶をそっと撫でるように、彼女はそっと呟いた。

「両親の1回忌は今度の夏ですよね」

 話題としては何度か出ていたので、触れてはいけない内容ではないと思い、洋介は慎重に話を振った。

「うーん、そうだね。本当に最近は別れを想起させることばっかりで嫌になっちゃうな。ヴィヴィオも、1回忌が近づいてくにつれてバッテリーが上がったりエンジンが故障したり、やっぱりこの子は父と母のものなんだなって常々思うよ」

 先輩がハンドルの中心を押すと、ヴィヴィオがぷっとかわいいクラクションを鳴らす。

「先輩の両親を繋いだのも、この車だったんですよね」

 彼女の両親については決まってこの話題になる。レパートリーがないと良く言われるが、洋介はその話をする先輩の表情や声色がとても気に入っていた。


「母がスバルのリオラとして展示スペースのヴィヴィオ紹介をしてて、そこで父と出会った...って私これ言ったの何回目?

 まぁ良いや、にしても面白いよね、あんなぽっちゃりしてる母が昔は各区から選ばれる美人店員の一人だったなんて。お兄ちゃんが大好きな妹キャラだよ?ほんと、昔からその手のニーズはあるんだなって感心するし、それが自分の親だったって思うと本当に笑えて来るよ」

 そう先輩はいつものように笑いながら言った。その表情から本当に両親を愛していることがわかった。


 新たなDVDがオーディオに投入される。そして何度かそこのボタンを押すと下の8ビット調の青い画面に表示されていた蓄音機がサックス、次にマイクの形に変わり、最後にConcertと映された画面に変わった。それと同時にシンセサイザーの軽快なリズムで始まるイントロが再び車内を賑やかにさせた。

 女性ナレーターの英語でのオープニングが始まり、その裏で奏でられるイントロが今か今かと待つ観客の期待を燻る。そして自分もその会場にいることができたらなと、このアルバムを聴いては常々思っている。


 最後にナレーションがバンド名を言った瞬間、走っていた道が国道134号へ変わる。

 左手に見える海が湘南を綴るシティポップに重なって、小さなヴィヴィオはアスファルトを颯爽と駆けて行く。


「うん、風の匂いが変わった」

 呟く先輩に倣って洋介も鼻から大きく外の風を吸い込む。肺にたまった海風が、洋介の心を小さくくすぐる。


 向かっている場所が湘南だとわかると、洋介は過去に母が話していたことを思い出す。

「昔、本当に子供の頃なんですけど、湘南の砂浜でビーチクリーンをして、そのあとにライブを聞いたんです。杉山清貴さんの。そこで僕は集めたごみを杉山さん本人に渡そうとして、寸でのところで止められたんですよ」

 外を眺めながらそう呟くが、先輩からしばらく何も返事が返ってこない。

 何か失言をしてしまったのかと慌てて運転手席側を見ると、先輩は澄まし顔でカーオーディオのボタンを押していた。流れる音量が少しばかり小さくなる。


 そして理解が追い付いていなかった洋介を横目に見て、先輩は少し微笑みながら芯の通った声で洋介に伝える。


「もしそれが本当なら、私たちは前世からの因縁でつながっているのかもしれないね」

 

 日の出の発端を中心に相模湾の淵を走り続ける。反対側には先ほどまで走っていた道も見えていた。

 儚い青緑だった空はだんだんと夕方のような茜色に変わり始め、後ろに続く斜面を背景に、太陽の光の一部がきっとこの車をクジャクのように色鮮やかにさせていった。

 そんなヴィヴィオに二人は乗っている。由比ガ浜に沿って、君と。


「日の出までにはあそこに間に合いそうだね」

 そう言って先輩はアクセルを強く踏んだ。

「あそこってどこですか?」

 洋介は戸惑いながら彼女に問いかける。未だこの状況を理解できてないが、もしあの話についてそう言及しているのなら...

「僕が参加した時、そしてごみを渡したのを止めた人が、もしかして」

「つかまって、曲がるよ」

 出かかった言葉を制して、先輩はハンドルを切る。前方を気にしていなかった洋介は急なカーブに対応しきれず窓側に投げ出された。

「だから言ったじゃん」

 そう言って懲りずに笑い続ける先輩に、洋介は溜息をつく。

「相変わらずその笑顔は文句のつけようがないほどの清々しさですね」

 カーブが終わり体制を戻すと、先輩は間髪入れずに音楽の音量を大きくした。


「恋にさよならしたはずなのに、意味もなく来てしまうのさ♪」

 先輩は洋介に顔を向けず、開かれた窓に向かってそうサビを口ずさむ。


 そして過ぎ去る景色と共に前髪が風に撫でられ、先輩の顔が露わになる。

 その瞳を、何も隔てずに見るのは初めてだったかもしれない。

 整った顔立ち、特に据わっているが確かに輝いているその目は、始まる今日という日を美しく映していた。


 今に咲いた花のような生き生きとした素顔が、そこにある。

 そしてその表情は、確かに俺の脳内に刻まれたあの頃の想い出を呼び起こした。

 ばらばらになった事実が、全て1つになる。


「あの時、俺の腕を掴んだのは同い年くらいの女の子でした」

 隣の線路には、まだ江ノ島電鉄が通る気配はない。鎌倉プリンスホテルへと続く踏切も、その遮断機は下りない上に集る人々もいなかった。10月は程遠ければ、すれ違うジープも来るはずがなかった。


 2人はまだ冷たい砂浜を、1歩ずつしっかり踏みしめる。過去の記憶をしっかりと確かめるように。


「僕の初恋は本当に幼い頃でした。記憶の中ではこの砂浜で、初めて来た場所は暑いのに涼しい風が吹いていたことは覚えています。そこで出会った同い年ぐらいの女の子と叶うはずのない約束をして、俺だけが一方的に、その言葉を覚え続けていたんです」

 地平線に船が一台、これから昇る朝日の経路を横断するように航海している。


『よーすけが大学生になった年の今日と同じ日に、ここで会おうよ。そしたらそのあとは2人で色んな海を見て、ビーチグラスを拾って、いっぱいおもい出を作ろう』

『それってつまり、けっこんってこと?』

『けっこんがまだ良くわからない...でも、よーすけとなら良いかもね』


「1日です。たった1日一緒にビーチクリーンをして一緒にご飯を食べて、一緒にライブを聞いただけです。その間ですっかり仲良くなってしまったとき、これは運命だって幼いながらに感じちゃったんですよ。

 しかもそれが今も心のどこかで引っかかってるんです。今、あの子はどこにいるんだろうって。本当に馬鹿ですよね。  

 こんなのがすぐに他の女性と別れる原因だなんて、思いたくなかったし、心の奥底で実は言い訳にしている部分もありました。

 でもあの時見た、光を帯びた目で夕日をバックに無邪気に笑う姿が忘れられなかったんです。

 実際去年、約束された日に行ったんですよ、ここに。ま、彼女が来るわけなかったんですけどね。ただ...」

「ただ?」

 先輩が、 一言そう聞き返す。


「もしどうしても行けなかった理由があったとしたら、話は別ですよね」

 さざ波の寄せては返す風景と音が、心が落ち着いているように錯覚させた。


「約束が叶わず、少しやけになって知り合いについて行った飲み会で貴方と出会いました。

 その時、昨日の両親の葬儀が終わって、譲り受けた形見の車を運転したいのだけれど、1人だと寂しいから付き合ってほしいと僕に言いましたよね」

「ああ、言ったね。それから1年も経たずして、この子とおさらばしなくちゃいけなくなったけどね」

 話を逸らそうとする先輩に睨みを効かすと、はいはいと言わんばかりに溜息をつく。


 そして向かい合う形になった状態で、彼女は1度大きな深呼吸してから真剣な眼差しで言う。

「あの約束を決して軽く考えていたわけではないよ。

 でも、あの日を前にして両親の訃報を聞いた。その時、頭が真っ白になってしまったんだ。約束を思い出した時にはとっくに時計は回っていて、遺されたヴィヴィオを飛ばしてここに来たけれど、朝日が昇ったこの砂浜に君がいるわけがなかったんだ。

 それに、その時私は永遠を誓った人がいた。だから、この日を境に忘れようと心に決めた。

 でも、彼女は私の変化に気付いていた。目が違ったんだと思う。惑いを含んでいたのは確かだったから、別れてしまったのは私のせいだ。そして、決して君のせいではない。

 過去に約束した君も、ドライヴィングパートナーとなった君も、その罪に問われることはないんだ」

 今、そんなことどうでも良いなんて言えるわけがなかった。

 しかし真実を告白された今、目の前にいる人があの時の彼女だとわかると、信じられないほどの鼓動が洋介を襲っていることを自覚することができる。


「もし、あの約束が記憶に閉じられた前世だとしたら、本当に私たちは因縁でつながっていると思うよ。

 実際に、私は今君しか見えないんだよ。この気持ちを説明するには、今の私では少しばかり難しいし、時間がかかりそうだけれどね」

 俯き加減だった先輩は、顔を少し上げる。


 現れた真っ直ぐに伸びる光が彼女の背に金色の羽を生やしているように見えた。

 その姿に見惚れていると、どうしたのと心配そうに顔を除いてくる。

急に近づく顔に必要以上に慌てて後ずさりした洋介は思いのままに言葉を、広大な朝日を照らす七里ガ浜にぶつけた。

「その気持ち、僕もまだ整理ができてないんですよ。

 だから...これから探しに行きませんか?色んな海を見て、ビーチグラスを拾って、もちろんヴィヴィオも一緒です。なんとかして直して、海外なんかに行くときもなんとかして海を渡りましょう。僕たちを乗せる車はこの子じゃないといけない気がするんです」

 言い切った洋介を、じっと先輩は見る。


 そして何も言わず海の方に振り返った彼女は、ポケットに入っていたタバコを咥えようとする。しかし彼女はしばらくの間俯きぼぅっと砂浜を見つめた後、近づけた唇からタバコそっと離し、吸い口の方を俺に向けて突き出した。


「もしもあの渚で君とまた逢っても、僕は同じように君を愛してしまうだろう。なんてね」

 長い沈黙の果てにそう言った彼女の笑顔につられて、俺も表情が崩れてしまう。


 そしてポケットから取り出したライターを先輩のもう片方の手のひらに投げ、俺はそのタバコに口元を近付けるために足を前に進める。


 舞い上がった微かな砂が、路肩に止めた鮮やかな光を帯びるピーコックグリーンの車窓へ、静かに滑り込んでいった。

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Along Again 石動 朔 @sunameri3

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