第7話 来訪
アイツ――松方弘樹の住むアパートは、自宅から30分ほど歩いたところにある。
清掃が地味に行き届いていない汚れた階段をのぼりながら、懐かしい感覚を思い出す。
――大学に入学したての頃は、こうして遊びに来てたっけ。
彼女が出来てから――いや、それよりも前か——とにかく俺と松方が絶妙に疎遠になる前はよくこの階段を上って遊びに来ていたものだ。
人が変われば交友関係も変わっていく、それは至極自然なことである。が、それを目の当たりにすると少し寂しい気持ちにもなるな。
そんなしょうもないノスタルジーに浸っているうちに、年季の入った青い扉——松方の部屋の前までやってきた。
しかし、
「……手土産でも持ってくるべきだったか?」
後はピンポンを押すだけだというのに、なぜかここに来て急に心細くなる俺。
それもそうだ、松方に事前連絡するでもなくいきなり自宅まで押しかけているのだ。罪悪感がない方がおかしいだろう。
……いやでも友達同士だし要らねえか? ……んや、やっぱ要るか?
「わっかんねぇぇぇぇ……」
と、押しも引きもしない問答が始まり、俺が部屋の前でうろうろするだけの不審人物になりかけていた時だった。
「――んっ。…………———————ん」
「……?」
誰かの声が聞こえた。
いや、声というほど形のある何かではなかったか。剥き出しの「音」のような何か。
住宅街の無駄に静かな空気のせいで、聴覚に神経が集中する。
そもそもどこから聞こえているんだ、この音は。
あたりを見回しながら、耳を澄ます。
音は、また聞こえてきた。
「……ぁん……ぅ、――――――――んんっ」
「……………」
それは明らかに人が発している音だった。
そしてそれは俺の立っている真正面、つまり松方が住む部屋から聞こえてきていた。
「……あのバカ……」
何を昼間っからアダルトなビデオを見てるんだアイツは。
呆れながらも、こんなバカげた状況に笑ってしまった。
昔もこんなことあった気がしたな……やっぱ連絡してから来るべきだったか? 松方の尊厳の為にも。
などと心の中で軽口を叩きながら俺は今度こそ意を決する。
「昼間っからAV見てるような男友達の家に手土産なんているわけなかったぜ」
日和った自分に対しても呆れながら、俺は扉横のインターホンを勢いよく押した。
軽快な電子音が室内に流れているのが分かった。
と同時に、室内で何かが乱雑に倒れるような音が聞こえてきた。
「……焦ってんなぁ」
――バカ! 大事なAV鑑賞中に何してくれてんだ!
松方の半べそかいたような慌て顔がセリフ付きで思い浮かぶ。
ったく、来たのが俺で良かったな、松方よ。他の友達だったらばワンチャン社会的に死んじまうぜ。
……まあ、とはいえ俺が来たのはちょっぴり重たい要件なわけで、その会話の切り口がこれくらいコミカルなのは幸か不幸か。
「………………………」
………………。
………………。
………………。
しかしやけに遅い。何をしてるんだアイツは。もしや来客など放っておいて、自分の気のすむままビデオを堪能しようとでもいうのか。
許せん。
俺はもう一度力強くインターホンを押した。
再び電子音が部屋の中で鳴り響いたが、何かが倒れるような音は今度は聞こえなかった。
「…………おい、松方。居るんだろ?」
辛抱足りなくなって、俺は扉の向こうに声をかけた。大事な話があってきたのであって、友達の自慰を扉越しに堪能しに来たわけでは無かったからだ。
「……え、ヒロ?」
ようやく松方の声が聞こえた。
「俺だ。ちょっと話があってきたんだけど、取り込み中か?」
「あ、あ、ああぁ。いや、まあ、大丈夫、だけど……部屋、入るか? それとも、立ち話、か?」
「んー、出来れば中で話をしたいんだが」
「そ、そうだよ、な。ちょ、ちょっと待っててっ、もらえるか?」
「あ。ああ、悪いな」
松方の声はいつになくぎこちなく、途切れ途切れに聞こえた。
アダルトビデオ鑑賞のひと時を邪魔したことを咎められると思っていたのだが、そうでなかった。
……人とは変わりゆくものなのだな、としみじみ思う。
それから少しして、ようやく青い扉が開いた。
「ごめんなヒロ、待たせちゃって。さ、どうぞどうぞ」
松方は白シャツに短パンを履いていた。いかにも部屋着という感じだ。
「いやこっちこそ急にごめん。お邪魔しまーす……て、めっちゃ良い匂いするな」
芳香剤を地面にぶちまけたかのような強烈な良い匂いが部屋いっぱいに漂っていた。頭がクラっとするほどの強烈な香りだ。
「えぇっ? そ、そうかぁ? いやぁーまあ俺も大人の男になったし? こ、これくらいは当然よ~」
「大人の男が真昼間っからAVなんか見てるかよ」
松方が下手に隠すものだから、我慢できずこちらから言ってしまう。
悪いな松方。俺のターンだ。
「……へ?」
「……え?」
松方は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。いやホントにそれくらい随分マヌケ面になっていた。
そして松方は
「あ」
と小さく刻んでから
「あぁあああああああああああ!!!!! ばれてたのかよぉぉぉおお!!! マジでやめろよなぁ! そういうの! 気付かれてないと思って接してた分めっちゃ恥ずいしダサい感じになるからぁ!」
突然堰を切ったように喚きだした。当初の予想通り松方は顔を赤くしていたが、その表情にはどこか安堵が見えた気がした。
「まじでこういう時だけ悪い奴だよなぁ、ヒロって」
「誰かに言いふらしたりしないだけマシだろ」
「それはそうだけどさ~。あ、先座ってて。茶でも出すわ」
「茶なんか淹れれるのか?」
「大人の男を舐めんなよ~?」
「おーおー、じゃあ楽しみにしてるわ」
入口すぐのキッチンに残った松方を置いて、俺は松方の部屋に足を踏み入れた。
「……ほえぇ……」
久しぶりに訪れた松方の部屋は、俺の古い記憶からはずいぶん変わっていた。
ただ生活するためだけにあった質素な場所が、「誰かと大切な時間を過ごすために必要な場所」に変わっていた。モノトーンカラーの家具たちが行儀よく配置されていて、レイアウト色味共に申し分ない(素人目線)。
いかにも「大人の部屋」という感じだ。
「どう、久しぶりの俺の部屋。すげえ変わったでしょ?」
「……確かにスゴイな」
部屋全体を見回して、もう一度深く頷いた。
うん、これは確かにスゴイ。
俺と同じ時間を過ごしていたとは思えないほどに「格の違い」を感じる。漂う空気から明度から、ありとあらゆる全てのモノが「大人っぽい」気がしてくる。
「……これが大人っぽさか……」
そうして1Rの部屋を右に左に歩き回っている時だった。
変わり果てた友の部屋の中に、変わらない光景を見た。
「ん。このクローゼットは昔と変わんねえな」
それは木製のクローゼットだった。モノトーン一式の部屋の中で少し異彩を放つ、それでいて俺にとっては懐かしい代物。
「松方、このクローゼットってさぁ」
「――え!? クローゼット!?」
俺はクローゼットの取ってに手をかけながら、思い出話を始める。
「確か俺が昔遊びに来た時もあったよな。確か当時はマトモな服なんか一着もなくてさ――」
「――ちょ、ちょちょ!!!!! 待ったヒロ――」
「はぁ? 何を待つことがあるんだよ、どーせ今はたくさんのお洒落な服が――」
そしてクローゼットを開ける。
「……――え」
そこに服はなかった。
そういう意味では昔と変わっていなかった。
だがしかし。
服がない、と
服を着ていない、は明確に違う。
一糸まとわぬ火照った肌色の存在がそこにはあった。
そこに居た。
「あははぁ……バレちゃった……?」
――裸体の女が立っていた。
もう一度言う。
俺はクローゼットを開けた。
――裸体の女が立っていた。
「だ、だだだだだだだ誰だよ、アンタ!?」
「え、えーと。ヒロキ専用の穴……みたいな? な、なんちゃってぇ……」
誰だよ、マジで。
後ろの方で松方が「最悪だ……」と呟いているのが聞こえた。
俺も同じ気持ちだよ、アホ。
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