第4話 昨夜の遭遇

「――キミさ、ヒロキの友達?」


 静まり返った深夜の住宅街に、凍てつくようなそれでいて真っ直ぐ芯の通った声。

 昨晩の飲みの後、酔いつぶれて寝てしまった松方の肩を持ち、彼の家まで帰っているときにその声と遭遇した。

 まだ夜は冷え込む季節だったせいか、背筋にヒヤリとした感覚が走る。


「えぇと……どちらさまで」


  松方のことを「ヒロキ」と称する彼女の麗しい容姿を見て、ただ一つの答えにコンマ0秒でたどり着いていたにもかかわらず、随分とぼけた問いだったと思う。

 黒のパーカーに黒のジーンズ、黒髪ロングの全身黒一色だというのに、何人も比肩しがたい優雅さを感じさせるその佇まい。

 彼女は俺の問いに、アンニュイな表情を浮かべたまま答える。


「あ、ごめん。私は羽佐間恵。そこの飲んだくれの元カノっていったら分かる?」

「……あー、はい。少し」


 やはりそうか、という安堵と共にどこまで「知ってる感」を出すべきか迷って、結局曖昧な返事を返してしまった。

 落ち着け俺。動揺するな。

 咄嗟に、彼女に対する対話姿勢を脳内で整える。

 ――彼女が俺個人を認知している訳もなく、松方とこの女性の関係性に俺の立ち入る隙は無い。至って冷静かつ淡々と言葉を返せばいいだけだ――


「こんな遅くまで2人で飲み? ヒロキの方は……寝ちゃってるか」

「……ええ、まあ、はい。だいぶ長いこと飲んでたので」

「ふぅん」


 ふぅん、と頷いているだけなのにその仕草に、表情に視線を奪われる。

 彼女はオーバーサイズの黒パーカーに首元を埋めたまま、チラリと腕時計を見遣った。こんな夜遅くまで飲み歩いてることを咎められているようにも感じる。

 ……しかし、それは彼女も同じことでなぜこんな時間、こんな場所に居るのだろう? という疑問は湧いてくる。


「――珍しいね」

「へ?」

「や、男友達で飲んだ後って大体いかがわしい夜のお店に繰り出すもんかと思ってたから……」


 どんな偏見だよ、と喉元まで出かかった言葉は抑えこみつつ苦笑いをした。

 社会人ならまだしも、学生の身分で風俗に繰り出すことはそう多く無さそうではあるが……。何かスゴイ含みを感じる。


「てことは、もう解散?」

「……解散っすね」


 短い言葉の応酬が続く。

 そうしているうちに、絶世の美女と言っても過言ではない彼女の姿からは、凡そ連想できないその二文字が脳裏に浮かぶ。

 ――浮気。

 そんな愚行をしたのは彼女ではなく、今にも俺の肩目掛けて嘔吐しそうな男友達なのだが。


「そっか」


 とだけ彼女は言って、しばらく俺と彼女の間に沈黙が流れた。

 気まずい空気に耐えきれず、手汗がにじむ感覚を不快に思っている間も彼女はその表情を崩さなかった。

 彼女はその間、松方のだらけきった顔を睥睨していた。


「ね、名前聞いていい?」

「……俺ですか?」

「ふふっ。他に誰かいる?」

「居ないですけど……。俺は本堂です。本堂真紘」

「へぇ、本堂くんね、了解。……あ、そうだ、ついでに連絡先交換しない? 大丈夫。別に逆ナンとかそういうんじゃないから」


 ――別れてすぐ別の男と付き合うほど、恋愛に飢えてるわけじゃないしね 


 と続けた。

 そうして流れるようにポケットからスマホを取り出すものだから、断る時機を逃し連絡先を交換する羽目となった。俺の殺伐とした連絡先の中に、シンプルなアイコンの「羽佐間恵」という名前が追加される。

 ……アイコン、盛り盛りの自撮り写真とかじゃないのか。


「じゃ、私帰るね。急に呼び止めたりしてごめん」

「え?」

「ん?」

「あ、いや、松方に用事があるわけでは無いんですか……?」


 はい、さようならと返せばよかったものを、下手に彼女を呼び止めて俺は会話を続けてしまった。

「あーそういうこと」と彼女は少し面倒そうな顔をした。


「ヒロキから色々聞いてるだろうし、何をどこまで知ってるかはいちいち確認しないけど――別に未練があるわけじゃないから。そこだけは勘違いしないでね」


 一度刺さったナイフを、もう一度深く突き刺し直すかのように言う。決して怒りのこもった声でもなければ、脅すような口調でもなかった。

 ただ淡々と、突き刺すように、続ける。

 その表情に、慈悲はなかった。


「どんな理由や経緯があったって、私は浮気したヒロキを許さない。これまでの思い出全てに泥を塗ってそれでも尚、私と関係を続けようとした強欲さをこの世の底から嫌悪してる。"浮気するヒロキでも良い"って思わせてくれなかった根性の無さも、別れ話を切り出した時に"恵さんが言うなら仕方ない"みたいにすんなり受け入れた優しさにも似た弱さが、大嫌い」

「……………」

「ごめん、ちょと言い過ぎた。聞いてない話があったら忘れて」


 どれ一つとして聞いてない話であるため恐る恐る頷いておいた。

 そして彼女は一呼吸おいてから、「でも」と付け足す。


「――でも私は嫌いな感情を垂れ流すために生きてるわけじゃないから。そういう思いが、ただあるだけ」


 艶やかな黒髪を耳にかけながら、


「だから見慣れた顔を見かけて、つい声をかけたくなっただけ。分かるでしょ? そういう感覚」


 俺に優しく微笑んだ。


「まあでも、浮気したんだったらその責任くらい取ってほしいもんよね」

「……責任」

「そ、責任。人間関係ぶち壊して、"二人で幸せになりたい"っていうたった一つの些細なお願いを破壊したんだから、それくらいはねぇ」

「……松方に責任なんて、取れますかね」

「お、流石友達、分かってるじゃん。ヒロキには無理だよね。自我無くて流されてばっかだし、適当だし、変なとこで意固地だし、酒弱いしタバコ吸うし……おっと、悪口はこの辺にしておかないと口が穢れちゃう」


 松方が聞いたら泣いてしまいそうな言葉たちのオンパレードだ。彼は今日の飲み会で延々とアナタに振られたことを嘆いて、浮気を後悔していたのだから。

 しかし、それを言うのは止めた。そんな言葉は両者に何の幸せももたらさない。

 過ぎた過ちを後悔しても、結果は変わらない。浮気をしたという事実は、一人の女性の好意を踏みにじったという事実は、不変なのだ。

 ……そういう意味で言うと、俺は松方に大して怒りとも呆れともいえない、やるせない感情を抱えている。


「ヒロキが責任とらなかったら、誰に取らせりゃいいんだろうね」

「……家族とかですかね」

「はは、それはヤバい。ヤバ女になっちゃうよ私」

 

 ケラケラと笑う彼女。

 と思いきや、


「ま、本人が取れないなら周りが取るべきってのは自然かも」


 ピタリと笑うのを辞めて、彼女は整った自身の顔に手を添えて、何かを考えるふりをした。

 その瞬間、俺は自分に降りかかる災難を予見した。

 いっそのことその場から逃げ帰ってしまえばよかったのかもしれない。災いの元凶である男友達など投げ捨てて、一目散にわが家へと帰っていればあんな恐ろしい言葉を聞かずに済んでいただろうに。


「ねぇ? 本堂くん、ちょっとお願いあるんだけど」

「は、はい?」


 俺を地獄へと誘う言葉が冷ややかに、告げられる。


「――キミが責任、取ってくれる?」

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