第2話 諦めた女

「ああ、やっぱり」


 集合ポストから茶封筒を取り出すと、裕子は足早に部屋に戻る。

 引き出しからペーパーナイフを取り出し、中身を取り出した。

 数枚の写真とメモをテーブルに並べる。


「昨日は彼女のマンションだったの……あら? カーテン変えたのね」


 そのメモには、いつも孝志と玲子の逢瀬の時間と場所が書かれている。

 半年前までは写真だけだったのが、数か月前からメモも同封されるようになっていた。


「見に来いって? 絶対行かないけど」


 いつものベッドシーンだろうと思いながら、写真を手に取った裕子が固まった。


「何……これ……どういうこと……」


 石川玲子が産婦人科の前でVサインをしている写真だった。




 子供の頃に両親の離婚を経験している裕子は、普通の家族に憧れていた。

 浮気の末に出て行った父を口汚く罵り続けていた母の醜い顔が恐ろしかった。

 

 家賃や食費、教育費などが母をどんどん追い詰めていく。

 朝から晩まで働きづめだった母は、裕子が高校3年の秋に亡くなった。

 酔ってフラフラ歩いていた母を撥ね殺したのは、まだ初心者マークをつけた乗用車だった。

 提示された慰謝料が、多いのか少ないのかさえ裕子にはわからなかったが、どうすることもできず、早い段階で示談が成立し、わけも分からないまま印鑑を押した。


 どこで知ったのか、保険金が振り込まれた翌日、出て行ったはずの父親がやってきて半分寄こせと言われた。

 もう二度と関わらないことを条件に、裕子が差し出した金を見た父は下卑た顔で笑い、元気で暮らせと言い残し去って行った。

 その父も病気で亡くなったと知らせを受け、裕子は天涯孤独の身となった。

 

 学費の関係で進学を諦め、独身寮のある会社に就職した。

 無駄遣いをせず、一生懸命に与えられた仕事をこなす日々中で出会ったのが孝志だ。

 愛する人との結婚で、少女の頃から描いていた『幸せな家庭を築く』という夢が叶ったと信じていた。


 夫の浮気写真を初めて見た時、裕子は声をあげて泣いた。

 父も女を作って出て行ったのだ。

 自分も母と同じように捨てられるのかもしれない。

 孝志を問い詰めて全てを白状させたいという衝動に駆られたが、自分もあの時の母と同じような醜い顔になるのだろうと思うとできなかった。


「男なんて基本バカだから。しかしその女も大概だねぇ。もし別れるなら手伝うよ」


 高校時代からの友人である澄子に相談すると、そういう言葉が返ってきた。

 他人の口から『別れる』という言葉を音で聞き、ショックを受けた裕子に澄子は言った。


「もし別れたくないなら、1度目は気付かない振りをするのもアリだよ。いつかは飽きて帰ってくるかもしれないし」


 裕子は悩んだ末に別れない選択をした。

 しかし、飽きて帰ってくるどころか、孝志の帰りが遅い日は増えていき、休日にも出掛けてしまうようになる。

 それでも裕子は、気付かない振りでひたすら家事を続け、孝志の帰りを待ち続けた。


 裕子にバレていないと信じている孝志は、どんどん鈍感になっていく。

 数日おきにワイシャツから同じ香水の匂いがする。

 ズボンのポケットから開けられたコンドームの包装袋が出てきたこともある。

 見たこともない下着が洗濯機に放り込まれていた時には、声を出して笑ってしまった。


 写真が送られてくる回数は増え続け、出張という名の外泊が頻繫になってきた頃、追い打ちを掛けるように無言電話がかかるようになった。

 それでも孝志から渡される生活費は変わらず、どこから逢瀬の金を工面しているのだろうと思っていた頃、クレジット会社から督促状が届いた。

 

「ねえ、孝志。これどういうこと?」


 さすがに看過できないと思った裕子が、督促状を差し出しながら孝志に聞いた。


「ああ、これ。ちょっと後輩がやらかしちゃって穴埋めを手伝ったんだ。来月には返してくれるはずだから心配ないよ」


 噓だと分かるが頷くしかない。

 それきり督促状が届くことも無かったので、その話は立ち消えた。


 後悔しかないこの1年振り返っていた裕子を、あざ笑うように電話が鳴る。

 きっとあの人だと直感でわかった。


「もしもし……」


「ああ、裕子さん? 玲子です。写真見てくれた? 実はそういうことなのよ。孝志も知っているし、とても喜んでくれているの。そろそろ別れてくれないかしら。私もお腹が大きくなると働けなくなるでしょ? 同じ女なら分かるわよね? 来週には孝志のご両親にもお会いすることになってるし」


 裕子は何も言わずに電話を切った。

 孝志も知っている? 喜んでいる? 両親に会う?


「もう無理……」


 裕子はゆっくりと立ち上がり、台所に向かった。

 水切り籠に置いてある包丁に手を伸ばしかけたが、ブンブンと首を振って思い留まった。


 惰性で食器を洗い、習慣で冷蔵庫の中を確認する。

 

「ああ、ビールを買っておかなきゃ」


 誰のために? 何のために?

 裕子の叫びに応えてくれる人はいない。

 裕子はのろのろとベッドルームに向かい、ボストンバッグを取り出した。


 下着類は全て詰めて、数着の普段着を畳みなおす。

 押し入れから段ボールを取り出して、自分の衣類を片っ端から投げ込んだ。

 ガムテープで封をして、マジックで『廃棄』と書いた瞬間に、涙が溢れだしてくる。


「孝志……なんで……」


 ひとしきり泣いた後、裕子は鏡台の中身を全て紙袋に移した。

 ガチャガチャと容器がぶつかる音がして、孝志が好きだと言った香水の香りがする。

 その甘い香りから逃れるように、裕子は財布だけを握って部屋を出た。

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