思い出を売った女

志波 連

第1話 寂しい女

「今日も遅くなるんだ。食事はいらないけど風呂は沸かしておいてくれる?」


「うん、わかった。無理しないでね」


 妻裕子の言葉には返事もせず、夫である孝志はドアを閉めた。


「はぁぁ……」


 一人になり、食卓に座りなおした裕子は深いため息を吐いた。

 テレビを消して朝食の食器を流しに運ぶ。

 蛇口をひねったが洗う気にもなれず、裕子はリビングに引き返した。


 二人が結婚して3年。

 同じころ結婚した友人たちの中には、子宝に恵まれたカップルも多い。

 しかしまだ3年だ。

 仲睦まじく暮らしていて当たり前のはずだろう。


 裕子と孝志は職場結婚だった。

 新しく配属されてきた裕子に一目ぼれした孝志の、猛烈なアタックでスタートした交際。

 付き合い始めて1年目の記念日に、孝志はルビーの指輪を差し出した。


「裕子、愛してる。一生お前と一緒にいたい。お前のためなら仕事も頑張れる。絶対に浮気もしないし、裕子以外の女性など見向きもしない。だから、俺と結婚してくれ」


 裕子は今でもプロポーズの言葉を一言一句間違いなく言えるが、当の本人はすっかり忘れているのだろう。


「そろそろかな……」


 裕子はサイドボードの引き出しから茶封筒の束を取り出した。

 見てはいけないと思いながらも、毎日何度も取り出しては見てしまうそれには、孝志と女性が裸で抱き合っている写真が数枚入っている。

 女性が自撮りしたのだろう、口角をあげて写っているその女の胸に、顔を埋めるようにしている夫の寝顔は、信じられないくらい安らかだった。

 数枚の写真の背景が全て違っていることが、一度の過ちではないことを見せつける。


「バカじゃないの?」


 その女性は孝志が学生時代に付き合っていた人だ。

 新婚時代、ショッピングの途中でばったりと出会い、孝志は裕子に彼女を紹介した。


「彼女は石川玲子さんだ。学生時代に付き合っていたこともあるんだけど、卒業と同時に彼女とは疎遠になっちゃったんだよね。今は懐かしい思い出って感じだな。いやぁ本当に久しぶりだなぁ」


 石川玲子と紹介されたその女性は、孝志の言葉にニコニコしながら言った。


「何年ぶりかしら。それにしても孝志君、きれいな奥さん貰ったのねぇ。幸せそうで何よりだわ。ねえ裕子さん、私は確かに孝志と付き合っていたけれど、すごく短い期間だったし、今はもう本当になんでもないから。ただの友達にヤキモチとか焼かないでね?」


 それよりたまにはご飯驕ってよという玲子の言葉に、孝志は苦笑いしながら言った。


「じゃあ久しぶりにみんなで集まろうか。お前、電話番号変わってる?」


「変わってないわ。あの頃のままよ」


「わかった。じゃあみんなには俺から連絡してみるから。決まったら電話するよ」


 電話番号を削除してないことにも驚いたが、お前呼ばわりには耳を疑った。

 しかしここで表情を変えるのは悪手だとばかりに、裕子はニコニコと笑ってやり過ごした。


 それから数回、孝志から学生時代の仲間と会うという話はあった。

 何人なのか、何処に行くのか……聞く必要も無いと思っていた自分の過去を呪っても、もはや現実は変わらない。


「3年で浮気とか……どんだけよ」


 結婚と同時に家庭に入った裕子は、少しでも孝志が快適に過ごせるように頑張った。

 毎日きちんと掃除機をかけ、ワイシャツやハンカチにもアイロンをかける。

 冷凍食品は極力使わず、1週間の献立をたてて食材を無駄にしないよう心がけた。


「何がいけなかったんだろう……妊娠しないから?」


 孝志と裕子は子宝を授かっていない。

 孝志は気にしていなかったが、早く子供が欲しかった裕子は、内緒で婦人科に相談したことがある。


「問題ないですね。生理不順というのが原因でしょう。健康管理に気を付けて、ストレスのない生活を心がけてください。それでも妊娠しない場合は、ご主人と一緒に検査してみるのも方法ですよ」


 結婚して半年は、ほぼ毎日抱き合ったが、徐々に回数は減っていった。

 友人に相談すると、そんなものだと言われたので、気にすることもやめたのだが、今思えば自分の体では満足できなかったのかもしれない。


「やせっぽちだもんね……」


 裕子のもとに初めての茶封筒が届いたのは、結婚して2年目の夏だった。

 差出人の名は無く、入っていたのも写真が1枚だけ。

 それは男女6人の集合写真で、右端に孝志が写っていた。

 その横には石川玲子の姿がある。

 仲間内の記念写真が、なぜ裕子宛に送られてきたのかわからない。

 帰ってきた孝志に写真を見せながら疑問を口にすると、孝志は一瞬引き攣ったような顔をしたが、笑いながら言った。


「送り主も書いてないなぁ、誰が送ってくれたんだろ。この前集まった時のやつだな。ああ、こいつがベースを弾いていた矢部だよ。それでこいつがボーカルの満田で……」


 話を変えたのか、純粋に仲間を教えたかったのか。

 今となってはもうどうでも良い。


「もう届いてるかな」


 裕子はサンダルをつっかけてエレベータに向かった。

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