第3話 去る女

 その日は特売のカップ麺で夕食を済ませ、孝志が帰ってくるまでひたすら掃除をした。

 髪の毛一筋たりとも残したくないとばかりに、念入りに床も拭き上げる。

 鍵が開く音がして、孝志がリビングに入ってきた。


「あれ? まだ起きてたの?」


「うん、ちょっと掃除してたら止まらなくなっちゃって」


「ははは、裕子らしいね。風呂は?」


「沸いてるよ。ねえ……孝志って来週実家に帰るの?」


 孝志が驚いた顔で振り返った。


「どうして? 母さんから電話でもあった?」


「まあそんなところ。で、どうなの?」


「まだ決めたわけじゃないけど、顔を見せろって煩くてさ。子供のことでまた嫌味でも言いそうだし、裕子には黙ってようと思ったんだ。ごめんね、かえって気を遣わせちゃったね。行くにしても日帰りにしようと思ってる」


「そう、じゃあ私は行かない方が良いね」


「いや、裕子さえ良いなら一緒に行こうよ」


「行っても良いの? あなた、困らない? ははは! 困るでしょう? 行かないわよ」


「裕子?」


 怪訝な顔をした孝志だったが、何も言わずに風呂場に向かった。

 閉まったドアに向かって小さく悪態をつく。


「バカじゃないの? 四者面談でもするつもり?」


 裕子は自分の食器をゴミ袋に投げ込んだ。

 パリンと乾いた音がする。

 茶碗もモーニングプレートも、箸もペアマグも全て自分の分だけを選んで捨てた。

 風呂場のドアが開き、パジャマに着替えた孝志が顔を出す。


「まだ寝ないの?」


「ねえ……あなた玲子さんと会ってる?」


「え? 玲子? まあ、たまに? ほら、昔の仲間で飲むこともあるし。どうしたの?」


「どうしたもこうしたも無いわよ。ただ聞いただけ。おやすみなさい」


 何か言いかけた孝志を無視して、裕子はゴミ袋の口をきつく縛った。

 

「あ……ああ……おやすみ。裕子も早く寝た方がいいよ」


 寝室のドアが閉まったことを確認し、引き出しから茶封筒の束を取り出す。

 昼間に買って来たB5版のアルバムに、写真とメモを丁寧に貼り付けていく。

 そのアルバムはピンクの花柄で、ところどころにプリントされたハートマークが、キラキラと光る安っぽいデザインだ。

 このデザインを見つけた時、裕子は何かが吹っ切れたような気がした。


「あんた達にお似合いだわ」


 迷った末に一枚だけ手元に残し、出来上がったアルバムを引き出しに入れる。

 残したのは、一番最初に送られてきた集合写真だ。

 この日から二人は関係を持っているのだろうことは、想像に難くない。

 裕子はその写真をハンドバックに入れた。


 何事も無かったように朝がきて、何事も無かったように朝食の準備をする。


「裕子は食べないの?」


「うん、欲しくない」


「そう? ねえ、裕子。昨日からおかしいよ? 黙って実家に帰るのが気に入らなかった? 君を傷つけたくないって思っただけなんだ。機嫌直してくれよ」


「……」


「ああ、そうだ。土曜の始発で行って、夕方にはもどるからさ。どこかで待ち合わせして美味いもんでも食べないか?」


「三人で?」


「え?」


「なんでもないわ。考えてみる」


「あ……ああ、じゃあ行ってくるね。今日は早く帰れると思うから」


「行ってらっしゃい」


 閉まったドアに向かって、裕子がそっと呟いた。


「さようなら、孝志。永遠にさようなら」

 

 食器を片づけ、流しには水滴一つ残らないように拭いた。

 忘れ物が無いかを確認し、ハンドバックとボストンバッグを手に玄関に向かう。

 下駄箱から一足だけ残しておいた靴に足を入れ振り返る。

 暫しそのまま部屋を眺めた裕子は、誰にともなくペコっと頭を下げて部屋を出た。

 集合ポストに鍵を入れ、歩道からマンションを見上げた裕子。

 

「皆さん、さようなら」


 タクシーに乗り込み、行先を告げてシートに体を委ねる。

 流れていく景色を眺めながら、裕子はぼんやりと考えた。


 帰ってきたら、テーブルの上に置いたあのアルバムに気付くはずだ。

 そしてその横にある結婚指輪を手に取るだろう。

 その下には記入済み離婚届も置いてある。

 

 結婚式や新婚旅行の写真も、保管してあった年賀状や手紙類も全て澄子宛に送った。

 このマンションのゴミ収集所では、万が一でも孝志に回収される恐れがあるからだ。

 彼女には荷物が届くことを電話で伝え、受け取りの了承も得ている。


 裕子は敢えて手紙を残さなかった。

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