第2話
翌朝、日が昇り始める頃になり、馬車は盗賊達の砦へと辿り着いた。
緑深い山の中に、木の柵が張り巡らされ、そこかしこに物見櫓が築かれている。山中という地理的条件を活かした天然の要害だ。
一際高くて頑丈に作られている木の柵の前で、馬車は止まった。正面には門がある。
「戻ってきたか! 何人連れてきた!」
物見櫓の上から、見張りの声が降ってきた。
「ご、五人だ」
本当は老燕に動かされているという後ろめたさからか、馬上の盗賊は上ずった声を上げた。
見張りは眉をひそめた。
「どうした? 様子が変だぞ」
「な、なんでもねえ」
「何か隠しごとでもあるんじゃないだろうな」
「天に替わって道を行う。そ、それが、俺達の信条だろ」
しばしの間があった。もしかして気付かれたか、と玲燕は身を強張らせる。
「・・・・・・いいだろう」
通せ! と見張りは声を上げた。
鈍く重い音を立てて、門は開かれた。馬車は砦の奥へと向かって進み始める。
「老燕、起きて。着いたよ。砦に着いた――」
まだ老燕が眠っていると思い、玲燕はそれとなく、横わたっている老燕の体に触れようとしたが、手は空中を滑った。
いつの間にか、老燕は身を起こしていた。
「ちょっと、起きているなら、起きている、って――」
「『天に替わって道を行う』。噂は本当だったか」
若干の怒気をはらんだ瞳で、老燕は馬車の行く先を睨んでいる。
「どこの馬鹿だ。そんなカビの生えた言葉をいまだに使う奴は」
突然、ガクンと檻が揺れた。
馬車が動きを止めたのだ。
「うわあああ」
二人の盗賊は馬から飛び降り、逃げていく。代わりに、オオオと鬨の声を上げ、百名近い盗賊達が砦の各所から押し寄せてくる。砦の奥深くに入りこんだところで、玲燕達は囲まれてしまった。
「も、もうおしまいだあ!」
「あんたあ!」
家族で捕まったという、中年夫婦と、男側の母親という老婆の三人が、檻の中心で身を寄せ合い、お互いを抱き合いながらガタガタと震えている。
玲燕は、老燕の横顔を見つめた。実に落ち着いた様子で、周りの盗賊達を微塵も恐れていない。
(この人を信用するしかない)
覚悟を決めた。自分にやれることは何も無い。だったら、老燕に全て任せるしかない。
「いい度胸してやがるな、爺さん」
低く重い、圧のある声が、正面から飛んできた。
官服に身を包んだ、ザンバラ髪の壮年の男が、馬に乗り、馬車へ向かって近付いてくる。
「縄を解いて、俺の部下二人を投げ飛ばしたんだって? やるじゃねえか。にしても、そのまま逃げればよかったのに、わざわざ自分から飛び込んでくるとは、いったい何を企んでやがる?」
「君が頭領か」
「ハハハ、人を見る目はあるじゃねえか。その通り、俺様がこの赤竜山の頭領だ。人呼んで万里箭の潘仁とは俺様のことよ!」
潘仁が弓を持った手を高く掲げると、周りの盗賊達は一斉に雄叫びを上げた。あまりの声量に、山全体がビリビリと振動する。そして潘仁が手を下げるのとともに、盗賊達はピタリと声を上げるのをやめた。
「で? 爺さん。てめえは何者だ? 金のクソ野郎か?」
「僕が金国の人間に見えるかい?」
「いいや。だから尋ねてんだよ。部下どもから話を聞いたが、ろくな抵抗もしないで捕まったそうじゃねえか。そこがさっぱりわかんねえ」
「君は見たところ、役人崩れのようだね」
潘仁の質問には一切答えず、逆に相手のことを値踏みするようにジロジロと見回して、老燕は自分の見立てを言い放った。
沈黙が訪れた。潘仁は険しい表情で、老燕を睨んでいる。
「その官服。これほどまでに統率の取れた集団。どう見ても普通の男ではない。大方、義憤のために人を殺して、落草したとか、まあそんなところだろう」
「・・・・・・なぜわかった」
「大昔に、君と同じような連中とつるんでいたものでね。わかるんだよ、ひと目見れば」
老燕は馬車から降りた。無防備にも、潘仁に向かって歩み寄っていく。盗賊達は警戒して弓矢を構えるが、潘仁は手を振る仕草で、攻撃態勢を解くよう指示を出した。盗賊達は互いに顔を見合わせながら、渋々と弓矢を構えた両手を下ろした。
老燕と潘仁、両者とも正面から向かい合う。どちらも堂々たるもの、一切気後れした様子を見せない。
「てめえの名を聞いていなかったな」
「老燕、とだけ呼んでくれ」
「よしわかった。老燕、俺はてめえが気に入った。幹部の一席に加えてやってもいいぞ」
盗賊達がどよめいた。唐突に老燕を仲間に誘ったばかりか、幹部にするとまで、潘仁は宣言したのだ。とりわけ、老燕に叩きのめされた二人の盗賊は文句の声を上げた。
「頭領! そりゃないですよ!」
「俺達はそいつに酷い目に遭わされたんだ! 納得いかねえ!」
「黙りやがれッ! てめえらが弱いのが悪いんだろうがッ!」
潘仁の大喝に、二人の盗賊は押し黙った。
そんなやり取りを見守りながら、老燕は肩をすくめた。
「僕が、君達の仲間に、ね」
「おおよ。悪いことは言わねえ。外の世界で生きるよりも、この山で暮らす方が居心地はいいぜ」
「なぜそう言い切れる」
「ここには『自由』があるからだ!」
潘仁は両腕をめいっぱい広げて、高らかに叫んだ。
「徴税で苦しむことも無い! 労役に駆り出されることも無い! 異民族どもに威張られることも無い! この山にいる限り、俺達は自由に生きられるんだよ!」
「それのどこが自由なのかな」
老燕は嘲笑した。
「山から出ることはかなわない。物資も人手も足りないから外へ奪いに行くしかない。何よりも、いつ官軍に攻め込まれるか、怯えて暮らさなければいけない。さて、どこに自由がある?」
「天の導きがある!」
潘仁は右拳を天に向かって突き上げた。
その動きに合わせて、盗賊達が何十人も力を合わせて、巨大な旗を高々と掲げた。その旗には四つの文字が記されている。
替天行道。
「老燕よ、お前の歳ならあるいは聞いたこともあるかもしれんな! かつてこの中華を宋が支配していた頃、腐りきった国に立ち向かった義賊達の伝説を!」
「梁山泊・・・・・・」
「そうだ! 梁山泊の英雄達だ! 俺は彼らの生き様に憧れを抱き、この旗を掲げている! 天に替わって道を行う! 大義のために生き、大義のために死ぬ! それが俺の選んだ道だ!」
「天命とやらに縛られて生きる、そんな生き方を、僕は自由とは思わないな」
「知った風な口をききやがって」
吐き捨てるように潘仁は言うと、馬上から弓矢を構えた。
「俺達の仲間にならないっていうのなら、仕方がねえ。ここで死んでもらおうか」
「やめて!」
その瞬間、なりゆきを見守っていた玲燕は馬車から飛び出し、老燕と潘仁の間に入ると、両腕を広げて、老燕のことを守るように立ち塞がった。
なぜこんな行動を取ったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、老燕をここで死なせるわけにはいかない、という想いだけが彼女のことを突き動かしていた。
「何を考えてやがる。そこをどけ」
「い、いやよ」
「てめえには使い道がある。出来れば殺したくはねえ」
「そんなこと言っている暇があったら、さっさと殺せばいいじゃない!」
命が惜しくない、と思えるのが不思議だった。まるで自分以外の何者かに、体を操られているような感覚だった。
「・・・・・・ちっ」
潘仁は舌打ちすると、弓矢を下ろした。
「面倒だが、こうなりゃ、勝負と行こう」
「勝負?」
玲燕は首を傾げた。それに対して、潘仁はフンと鼻を鳴らす。
「てめえは関係ねえよ。後ろにいる爺さんに言っているんだ」
背後から、玲燕は肩を叩かれた。横をすり抜けて、老燕が前へと進み出てくる。
「ありがとう。いい流れになってきた」
横を通る時に、玲燕の耳元に、老燕は囁きかけてきた。
その声音の、実に艶なること。
(ああ、そうか。私はもしかすると・・・・・・)
初めて話しかけられた時から、玲燕の中にその兆候はあったが、この瞬間まで気が付いていなかった。
老燕に対して、男性としての魅力を感じていることを。
祖父とその孫ほどの歳の差があるにもかかわらず、玲燕は老燕から目が離せなくなっていた。
何が心を惹くのか? 声音なのか、端整な顔立ちなのか、語り口の軽妙さなのか、常に崩れない飄々とした態度なのか。
(違う。私が惹かれているのは――)
老燕が何度も口にしている「自由」という言葉。
その二文字に込められた音の響きは、この世界の全ての苦しみや悲しみから魂を解放してくれるような、温かな安らぎがある。ただし、それは老燕が言葉にしてこそ有効なものであり、潘仁が語る「自由」はどこか違うもののように感じられた。
「さて、潘仁君。どういった勝負を所望するのかな」
「簡単だ。俺とお前で武芸の腕を競い合う。俺が勝てば、お前は俺達の仲間になるか殺されるか、だ。しかし、お前が勝てば、ここから解放してやろう」
「で、その競い合う方法とは?」
「弓だ」
潘仁はニヤリと笑った。そして、いきなり天に向かって弓を構えたかと思うと、目にも止まらぬ速さで矢をつがえ、撃ち放った。
上空から鳥の甲高い悲鳴が聞こえ、直後、矢の刺さった雁が墜落してきた。しかも、一本の矢に二羽も射貫かれている。
「おおお、さすが頭領だ!」
「あんな高い所を飛んでいる雁を射貫くばかりか、同時に二羽も射落とすなんて!」
盗賊達は歓声を上げた。やがてみんなで「万里箭! 万里箭!」と大合唱を始めた。
「なるほど。万里の先をも射貫くから、『万里箭』か」
「その通り。俺を超える弓使いなんてこの世にいねえさ。俺は弓術を極めたんだよ。もしも他に弓の達人がいるとしたら、かの梁山泊の英雄豪傑くらいなもんだろうて」
「つまり、自分の得意分野で勝負をしようというわけか。思ったよりも、せこい男だな」
「ほざけ! 本来なら有無を言わさず殺しているところを、寛大な心で譲歩してやっているんだ! てめえに条件のことで文句を言われる筋合いはねえんだよ!」
ふう、と老燕はため息をついた。潘仁に射殺された二羽の雁のそばへと寄り、しゃがみ込んで、その亡骸を撫でてやる。
「どうしたどうした? たかが雁だろうが。お前もその肉くらい食ったことがあるだろ。何をそんなに悲しむ必要がある」
潘仁はハハハと笑った。
「・・・・・・雁には雁の世界がある」
「あん? なんだって?」
「この鳥は仁義礼智信の五常を兼ね備えている。群れ集って飛びながら、互いに譲り合い、序列を正し、空中から死んだ仲間を見た時には皆で哀悼の意を表して鳴く」
玲燕は耳を澄ませてみた。確かに、老燕の言う通り、雁の群れは去らずに上空を旋回しながら、悲しげに鳴き声を上げている。
「空を行く雁の群れは、ちょうど、君と、君の仲間達の関係のようなものだ。親は違えども、兄弟のような仲だろう? もしも兄弟が二人殺されたら、君はどのような気持ちになる?」
それから老燕は続けて歌を歌い始めた。
山嶺は崎嶇として水は渺茫たり 空に横たわる雁陣三行
忽然として双飛の伴を失脚す 月冷かに風清くまた断腸
「な、なんだあ?」
いきなりの歌に、潘仁は面食らっている。だが、透き通った歌声に載せて流れてくる、その詩のあまりの流麗さに、つい聞き惚れてしまった様子だ。
突然、老燕は大地を両脚でしっかりと踏み締め、仁王立ちした。その体勢から、天を見上げ、深く息を吸う。
何も武器を持っていない。にもかかわらず、まるで弓矢を両手で構えるかのように、腕を上げて、上空に向かって弦を引く仕草を始めた。
「疾ッ!」
気合とともに、老燕は矢を放つ動きをした。
たちまち、上空から雁の群れが一斉に悲鳴を上げるのが聞こえてきた。次の瞬間、まるで雨の如く、何十羽もの雁が、次々と老燕の周りに力を失って落ちてきた。
それはあっという間の出来事だった。
もはや空を飛ぶ雁は一羽もいない。皆、老燕を囲むようにして、息を失って倒れている。
「弓を極めた、と言ったね」
「あ・・・・・・うああ・・・・・・」
潘仁は突然、馬上から転げ落ちるように地面へと下りると、頭を大地にこすりつけんばかりに土下座を始めた。
「申し訳ありませんでした!」
「ええええ、頭領ォ!?」
頭領のあんまりな姿を見て、盗賊達は驚きの声を上げた。だが、潘仁に「てめえらも頭下げろ!」と怒鳴られて、慌ててみんなその場で土下座した。
「極める、とはこういうことを言うんだよ、潘仁君」
「き、聞いたことがある・・・・・・真の弓術の達人は、弓と矢を使うことなく、発する気だけで、相手を射貫くことが出来ると・・・・・・ま、まさか、あんたが、その達人とは・・・・・・」
「矢を射れば命を刈り取る。射なければ何も死なない。ならばその道を極めようと思った。ただ、それだけだ」
老燕は片足を上げ、地面を思いきり踏み叩いた。
途端に、死んだように倒れていた雁達が、揃って息を吹き返し、群れをなして空へと舞い飛び始めた。
「殺して、いなかったのか」
潘仁は目を丸くした。
「さて、勝負は僕の勝ちだ。解放ついでに、頼みを聞いてもらおうか。馬、それから三日分の食糧と水も用意してほしい」
「ま、待ってくれ。後生だ。俺の代わりに頭領をやってくれ」
「断る」
「頼む! ここを守り切るのは、俺だけでは限界がある。もっと素質のあるやつが必要なんだ! あんたみたいな達人なら、きっと上手くいく!」
「自由のない生き方に興味はないんだ、あいにくね」
老燕は、他の盗賊に頼んで、四頭の馬と、五人分の食糧、水を持ってこさせた。
荷を積んで、立ち去ろうとする老燕の背後から、潘仁は追いすがるように声をかけた。
「せめて教えてくれ! どうしてあんたは俺達の所へ来た!? わざと捕まったんだろ! 理由を、教えてくれ!」
馬にまたがった老燕は、ほほ笑みとともに振り返った。
「随分と懐かしい言葉を旗に掲げている集団が、この山にいると聞いたものでね。ちょっと会ってみたくなったんだよ」
「懐かしい、言葉・・・・・・?」
潘仁は首を傾げ、それから、部下が掲げている旗を見た。
旗には「替天行道」と書かれている。かつて宋王朝の時代に反乱を起こした義賊達、梁山泊において謳われていた言葉。
その時、ようやく潘仁は気が付いた。慌てて老燕の方を向き直ったが、すでに馬に乗って走り去った後だった。
☆ ☆ ☆
玲燕と老燕が、一緒に捕らわれていた親子三人を近くの村へと送り届けた頃には、日はすっかり落ちていた。
「君もここに留まったほうがいい」
夜にもかかわらず、一人で旅立とうとする老燕に対して、玲燕は頬をふくらませて、こう言った。
「いやよ。あなたに着いていく」
「無茶を言うな。僕はああいった荒事に巻きこまれやすい性格なんだ。そばにいたら、命がいくつあっても足りない」
「あの時、話の途中で、あなたは寝ちゃったじゃない」
「うん? 何を話していたっけ?」
「『自由』のことよ。自由とは自分が何者であるかを知ること、としか教えてくれなかったわ。それだけじゃ全然わからない」
「ああ・・・・・・そうだな、確かに・・・・・・」
老燕は頭を掻いた。
「ならば着いてくるんだ。道中で話そう」
月明かりで青白く照らされた平原を、二頭の馬が並んで進んでゆく。その上に乗るのは、自由を知るがいまだ自由を得られていない老人と、自由とは何かを知りたい少女、の二人。
「色々な地を旅して回った。かつての仲間の手伝いで暹羅国まで渡ったこともある。だけど、どこへ行っても、自由は無かった。僕は、ただ役割を演じていただけ。本当の僕がどこにいるのか、どこにあるのかは、いまだ見つけられていない」
老燕は語る。その言葉に玲燕は耳を傾けたが、結局、言いたいことはわかるようでわからなかった。
「あーもう! 難しい言い回ししないでよ!」
とうとう玲燕は耐えきれなくなった。
「だいたい、あなたは自分の話を全然しないじゃない! 昔は何をやっていたとか、どこで生まれたとか! そういうことを自然に話せもしないで、何が『本当の僕』よ!」
玲燕に文句を言われて、老燕はハッとした表情になった。
「僕は、まだ君に、自分のことを話していなかったのかい?」
「まったく、ちっとも、これっぽっちも聞いてない」
「あはは、そういうことか。それは確かによくないな。自分の過去のことも話せずに、本当の自分も何も無い」
「別に、話したくなかったら、話さなくてもいいけど」
「ううん、ぜひ語らせてほしい。僕がどのような人生を送ってきたか、その物語を」
そして、老燕は馬上で居住まいを正すと、玲燕のことを真正面から見据えた。
「まず名乗らせてもらおう。僕の名は燕青。かつて宋国に反旗を翻した梁山泊において、第三六位の頭領に就いていた――」
やがて始まるは、水のほとりの物語。
かつて浪子燕青と呼ばれた男の、自由を求める最後の旅が、いま幕を開けようとしていた。
老燕行 逢巳花堂 @oumikado
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