老燕行

逢巳花堂

第1話

 草原をゆく馬車は、時おり石や窪みに車輪をとられ、その度に牽いている檻が音を立てて揺れ動いた。


 檻の中にいる五名の男女は、体をぐらつかせながらも、声を立てない。ちょっとでも声を発すれば、たちまち馬に乗っている盗賊二人が馬車を止め、猛烈な折檻を加えてくるからだ。


 それぞれ、異なる場所で盗賊に捕らわれた、年齢もまちまちな男女。両手足を縄で縛られて、逃げようにも逃げられない。


(どの道、私は助からない運命だったんだ)


 囚われの五名のうち、最も年若い少女である玲燕は、己の報われない境遇を呪いながら、うつむいた。


 玲燕は、彼女が生まれるより何十年も前に滅びた王朝の末裔である。その王朝は、北方の異民族国家によって攻め滅ぼされた。皇族はみな北へと連行され、悲惨な末路を辿った、と祖母から昔語りで聞いている。


 ただ、皇女の一人であった玲燕の祖母は、異民族に連行される道中で、運良く逃げ延びることが出来たそうだ。


 そうして辿り着いた隠れ里のような村で、親切にも匿ってもらい、以後はその地に居を定めて、やがて夫を得て、家庭を築き上げていったという。


 玲燕が一〇歳の時に、祖母は亡くなり、その王朝の凄惨な歴史を語る者は誰もいなくなった。


 玲燕の母は、祖母を埋葬した後、


「お母様がいなくなって、せいせいしたわ。ちっちゃい頃から毎日毎日暗い話を聞かされて、うんざりしていたの」


 と笑いながら言っていたものの、その両目には涙が滲んでいた。そのうち嗚咽を漏らし始めた。玲燕の父は、母の両肩にそっと手を触れていた。


 祖母は、家族だけでなく、村の人々から愛されていた。


 気品に溢れていながらも、どこか親しみやすい雰囲気があり、また天真爛漫なところもあった。誰もが祖母の温かさ、明るさに救われていた。だから、暗い昔語りだけはみんな嫌いだったが、愚痴のようなものと思って受け流していた。


 唯一、玲燕が好きだった話がある。


 それはかつての王朝の都の話。


 祖母の口から懐かしそうに語られる王都の様子は、まるで御伽噺に出てくるような華やかさ、輝かしさを備えたものであり、にわかには信じられない、夢のような場所だった。


 その王都の話をする時、必ず祖母はこの言葉で締めくくった。


「あの頃の私は、自分一人だけで王宮から外へと出られる身ではなかった。それでも、私は自由だった」


 何度も王都の話を聞いているうちに、「自由」という言葉が、玲燕の胸に刻みこまれた。


 言葉の意味はわかる。だけど、具体的にどういうことが「自由」というものなのか、玲燕にはまったくわからなかった。


 時が経ち、玲燕が一六になるまで、平和で穏やかな日々は続いていた。


 だが、ある日突然、村は焼け落ちた。


 真夜中に異民族の軍勢が攻め込んできたのだ。


 わけもわからぬまま、次々と惨殺されてゆく村人達。玲燕の父や母も呆気なく命を落とした。


 命からがら脱出した玲燕は、とにかく生き延びようと、必死になって逃げ続けた。


 そうして、川の渡しまで辿り着き、どうやって向こう岸まで渡ろうかと思案しているところで、盗賊に見つかって、捕まってしまったのだ。


 で、檻の中に入れられて、現在に至る。


 馬車は盗賊の砦へと向かっているようだ。これからどうなるのか何も聞いていないが、予想は着く。年若い娘が盗賊に捕まったら、どんな扱いを受けるか、答えは一つしか無い。


「うっ・・・・・・」


 嗚咽が漏れそうになるのを、必死で我慢する。道中、一人の男が大声で命乞いしたせいで、盗賊に殺されてしまった。同じ目に遭いたくなければ、声を発してはならない。


 涙がこぼれ落ちる。膝の上へと、ポタポタと。


「泣きたい時は泣けばいい」


 突然、目の前に座っている老人男性が、みんながギョッとして顔を上げるほどの声量で、玲燕に声をかけてきた。


「気持ちが昂ぶれば叫べばいい。心が浮き立つなら歓喜の声を上げればいい。人が心の底から放つ声を縛る法など、この世のどこにもありはしない。人は、自由に声を出していいんだ」


 他の者達は、みんな口に指を当てて、静かにしろと仕草で示している。馬車馬を駆っている盗賊二人は、当然老人の声が聞こえているだろうが、まだ何も言ってこない。老人を止めるなら、今のうちしかない。


 一方で、玲燕は、逆に盗賊達に対する恐れを忘れて、自らもまた声を発した。


「『自由』・・・・・・?」


 見も知らぬ老人から、まさかその言葉を聞くとは思ってもいなかった。祖母が口にしていた「自由」。それが何かを、この老人は知っているというのだろうか。


「少なくとも、今の我々に、自由は無いな」

「教えて。私の祖母は、昔東京開封府というところに住んでいたの。そこでは自由があったと話していた。私はまだ自由が何かを知らないの。お爺さんは、自由を知っているの?」

「もちろん知っているとも。私は常に自由を求めている」

「じゃあ、お爺さんは、まだ自由を手に入れていないのね」

「お嬢さん。その前に、君は僕のことを『お爺さん』と呼んでいる。確かにここ最近は肉体の衰えを感じる。しかし心まで老いたつもりは無い。『お爺さん』と呼ばれるのは、寂しいものがあるなあ。せめて、『老燕』と呼んでくれないかな」

「『老燕』。老いた燕のこと?」

「ああそうだ。さて、その老燕から、お嬢さんに伺いたいのだが、僕は君のことを何て呼べばいい?」

「とても、これって不思議な話なんだけど」

「ふむ」

「私は玲燕と言うの。美しい燕、という意味だって、母から聞いている。あなたと同じ。燕、が一字入っているわ」

「なるほど。これは天命なのかもしれないな。君と僕、玲燕と老燕、二人の燕が出会うのは」


 天命、という言葉を口にする時、なぜか老燕は苦々しげな表情を浮かべた。


 と、その時、ついに盗賊達が怒鳴り声を上げた。


「さっきから後ろでごちゃごちゃ、うるせえぞ!」

「お前らも首から上を刎ね飛ばされたいのか!」


 これは警告だ。もう一言でも声を発すれば、馬車を止めて、玲燕と老燕に危害を加えてくることだろう。


 さすがに怯えて、口をつぐんだ玲燕に対し、老燕はにこやかな笑みを向けてきた。


「大丈夫だよ。彼らに僕らを殺すことはできない」

「どうして、そう思うの?」

「僕らは戦利品だからさ。察するに、人買いに買い取ってもらうか、労働力としてこき使うか、いずれにせよ生きていてこそ価値がある。最初に一人殺したのは見せしめだ。もうこれ以上無駄な殺生を働くことはあるまい」


 と言ってから、老燕は挑発的な目で、盗賊達の方を見やった。


 盗賊達の顔は怒りで真っ赤になった。


「なめんなよ、ジジイ!」

「てめえだけでも殺してやろうか!」


 不意に、老燕は立ち上がった。


「え・・・・・・?」


 全員、手足を縛られているから、立つことなんて出来ないはずだ。ところが、老燕は両手足の縄をいとも簡単に外し、胸を張って堂々と直立したのである。


「な? ななななな? どうやって外しやがった!」


 盗賊達は狼狽する。


 老燕は涼しげな笑顔を浮かべたまま、両腕を広げて、高らかに声を放った。


「ちょうど良い、何も遊興が無くて、君らも退屈していたことだろう。ここでひとつ、私にこの縄外しの技を教えてくれた、ある大盗賊を讃える歌でも披露してあげよう。題して『鼓上蚤』」


 誰もが呆気に取られている中、老燕の歌が始まった。


 風に乗り、馬車から溢れ出た歌声は、草原一帯に澄んだ音色となってこだまする。


 骨軟かにして身躯健かに 眉濃くして眼目鮮やかなり

 形容は怪族の如く 行走は飛仙に似る

 夜静かにして墻を穿って過ぎ 更深くして奥を遶って懸る

 偸営高手の客 鼓上蚤の時遷


「ええい! もう我慢ならねえ!」


 ついに盗賊達は馬車を止め、檻の扉を開けてきた。中に入ってきて、老燕に向かって剣先を突きつける。


「慌てない、慌てない」


 老燕は少しも動じることなく、何気なく前へと進み出た。


 次の瞬間、盗賊の一人がひっくり返り、檻の床へと叩きつけられた。


(投げた!?)


 玲燕は我が目を疑った。


 盗賊と老燕の間合は、少なくとも剣一本分と、腕一本分は離れていた。老燕には、刃をかいくぐって、相手の懐に潜りこむことなんて出来なかったはずだ。


 それなのに、気が付けば、盗賊の一人は床に倒れてのたうち回っている。


「な、なんなんだ、てめえは!」


 もう一人の盗賊は、声だけは張り上げたが、すっかり腰が引けてしまっている。これでは結果は見るまでもなかった。


 檻の中に、疾風が巻き起こった。


 と思った時には、もう一人の盗賊も床に倒されてしまい、老燕によって足蹴にされていた。


「せめて彼我の実力差を見極められるくらいには精進した方が身のためだね。今後のために言っておくと」

「こ、殺さないで」

「安心してくれ。僕も無益な殺生はいやなんだ。ただし」


 と断ってから、老燕はしゃがみ込み、盗賊に語りかけた。


「案内してもらおうか。君達の頭領のもとへ」

「お、親分のところへ?」

「構わないだろう。もともと僕らを連れていく予定だったんだ。何も問題はないはずだ。他の人達も解放してもらいたいところだが、あいにくこの近くには村もありそうもない」

「あ、ああ、そうだ、ここら辺は草ばかり生えていて、人っ子一人見かけねえ」

「だったら、進み続けるしかない。そして道を知っているのは君達だけだ」


 これには、囚われの者達も戸惑った。老燕の活躍で、もしかしたら解放されるかもしれない、と希望を抱いていたというのに、彼はなぜか盗賊達の頭領のところへわざわざ行こうとしている。


 だけど、周りを見渡せば、遙か彼方まで草原が続いている。集落らしきものは見えない。ここで置いてかれたら、野垂れ死んでしまう可能性は高い。


 みな、老燕とともに、盗賊達の頭領のところへ行くしかなかった。


 結局は元通り、盗賊二人が馬を走らせ、五人が馬車で連れていかれる形となった。しかしさっきまでとは状況は全然違う。老燕は、盗賊二人をまるで従者のように扱い、盗賊達も逆らえずにいる。囚われの身だった五人全員、手足は解放されており、会話も好きなように出来た。


「あなたは、何者なの?」


 月明かりに照らされた夜の草原を、休むことなく馬車は進み続けている。明朝にはいよいよ盗賊達の砦に着けるそうだ。そこまで来てから、ようやく玲燕は、老燕に聞きたかったことを問いかけることが出来た。


 歳はいくつなのだろうか。老いてはいるが、若々しい空気感を保っている。白髪を染め、白い口髭を全て剃れば、まだ四〇代には見えると思う。だが、その何事にも達観したような佇まいからは、相当長い年月の経験の積み重ねを感じさせる。


 また、あれだけの武勇を誇りながら、なぜ盗賊達に捕まっていたのか、その理由もよくわからない。頭領に会いたがっているのも謎だ。


「何者、か。僕は何者だろうね」

「変なの。自分でも自分のことがわからないの?」

「誰もがそうさ。自分は何であるのか、何のために生きているのか、そのことを知らないまま歳を重ねていく。たとえ追究したとしても、その答えが出る前に命は果てる」

「私は、自分が何者かを知っている」

「ほう。面白いな。ぜひ教えてくれ」

「祖母は、大宋国の後宮にいた人間よ」


 たちまち老燕の表情が変化した。先ほどまで笑顔でいたのが、急に眉根を寄せて、真剣な眼差しになっている。


「玲燕。君は、宋の王家の末裔なのか」

「ええ」


 かつて中華の地を支配していた大宋国。しかしながら、内政と外交に悪手を重ね、ついには北方民族が樹立した王朝、金国によって攻め滅ぼされてしまった。


 以来、この中華の地は金国の支配下にある。


 だから、絶対に自分の一族のことを他人に知られてはならない、教えてはいけない、と祖母や母から何度も言い聞かされてきた。


 その言いつけを破り、玲燕は、つい老燕に自分の祖母のことを話してしまった。どんな反応が返ってくるかを確かめたかったこともある。


「なるほど。それはさぞ大変な生活をしていたんだろうね。ところで、僕は君が何者か、を聞いたのだが」

「いま答えたわ」

「それは君の祖母の話だ。君自身のことではない。君は、何者なんだ?」

「私? 私は・・・・・・」


 玲燕は答えに窮してしまった。自分自身が何者か、と問われると、答えるのが難しい。


「君は、自由について尋ねていたね」

「え? う、うん」


 なぜ急にその話題に戻るのかと、玲燕は困惑する。


「自由とは、自分が何者であるかを知ることだ」


 それだけ言うと、老燕は目を閉じて、檻の中で横たわった。馬車の揺れを気にすることもなく、ゆったりとしている。


「やはり歳だな。先ほどの一戦で、くたびれてしまったようだ。少し休ませてもらおう。砦に着いたら起こしてくれ」

「え? 老燕、ちょっと、いきなりそんなこと言われても」


 玲燕は慌てて老燕に近寄ったが、早くも老燕は寝息を立て始めていた。


(この人は、いったいどういう人なんだろう・・・・・・?)


 不思議な老人だ。見た目は白髪白髯のお爺さんだが、老いを感じさせない。かといって、若々しいかというと、そうとも思えない。年齢をまるで感じさせない。


「自分は何者なのか・・・・・・かあ」


 それを知ることが、自由そのものであると、老燕は語った。


 なぜそう断言するのか。どういった人生を送れば、そのような結論が出るのか。玲燕にはまるで想像もつかなかった。

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