第19話 人は常に機会を待てども、機会は遂に人を待たず

 ただの用務員に戻った私、高砂は当然ながら血塗れの中庭を掃除している。血液は水で流しただけでは油分が残る為、台所用洗剤を含ませた水でゴシゴシとだ。

 まあ、こんな事をやってもルミノール反応を使われたら血液は可視化してしまうので完全に消し去る事は不可能なのだが。

 見た目だけは。

 綺麗になる。

 目に映る世界だけは。

 日常を取り戻す。

 「人が串刺しになった現場だと言うのに随分と太い肝をお持ちのようね?用務員さん」

 教育委員会の偉い御方だった。

 腕を組んで。

 仕事を眺めている。

 いや。

 これは品定めだ。

 気の強い女性は家内がそうだったので好みではあったが、我の強い女性は害悪にしかならない。出来るならば、お引取願いたいものではある。

 「ん。さては用務員さんを知らないね?体調の悪い生徒が吐いてしまった吐瀉物を片付ける事もある。体調の悪い生徒が粗相してしまった排泄物を片付ける事もある。部活動で怪我をしてしまい、流れた血液を綺麗にするのも用務員さんの仕事さ。綺麗にしておかないとね。学ぶ生徒も働く職員の為にも」

 「公衆衛生学を基とするのが用務員。なるほど、面白い考え方です」

 「ん。だから殺人事件の現場だろうとなんだろうと用務員さんは綺麗にするのさ。生徒も教員も支えなくてはならない。よく言うだろう?サポーターは十二番目のサムライブルーだと」

 「……貴方からは私と同じ匂いを感じました。それこそ、鏡を見ているかのように」

 他人の仕事ぶりを腕組みで眺めるって相当に失礼な態度なのだが。

 まあ、仕方ない。

 鏡。

 鏡か。

 そうなのかも、知れないね。

 私はかつて。

 そんな風に映っていたのかも知れないね。

 「鏡を看よといふは反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの幾人ぞ。人は鏡の前に自ら恃み、自ら負ふことありとも。遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。__昔からね、こんな言葉もある。鏡に映る相手とは仲良くしてはならない。私のような一期一会の出会いならば尚更だ」

 「ですが、鏡に映る自分が歪んでいるならば気になるものでしょう?貴方も気付いている筈ですよ、名探偵」


 「ん。私達が鏡を挟んだ境界に存在しているとして、AとBの個体を認識するのは周囲であり其処に自我は存在しない。鏡面を挟んだアイデンティティは互いが互いに影響しあう。つまり実力が拮抗しなければ会話は可能であっても本質でのやり取りは不可能なのだが、しかしながら人間は会話によって意志のやり取りを行う生物だとされている。しかしだ、言葉の表現での限界を超えた先を共有出来るのは似た者同士ではなく同一の存在であり、その矛盾した存在同士が同じ空間と時間を共有し内包出来るのが夫婦であると私は考える。私にとっての虚像は家内だけであり、私にとってのライバルも家内だけであり、意思疎通の矛盾を容認しつつも意思疎通に逡巡せず、互いを尊重し互いを認めあい、互いを自己のように認識するのが鏡面関係だ。


解るかい?

君じゃ私にとってのモリアーティ教授にはなれない。


家内だけだ。私の愛した鏡面を挟んだ存在は」

 少しカチンと来たのでね。

 抑えた力を解放してみた。

 さあ。

 どう出る?

 「随分と口が廻るのね。用務員さん?」

 「ん。そりゃあ美しい家内を口説くのは苦労したさ。職場恋愛でね。かぐや姫をナンパしていた平安貴族より大変だったんじゃないかな。文系の私は言葉を紡ぐしか出来なくてねえ。いや、理系の方々が羨ましいよ」

 生徒会長の彼のように、ね。

 彼が理系ミステリの探偵ならば。

 私は文系ミステリの探偵だ。

 ま。

 少年はまだ拙い。

 少年はまだ幼い。

 しかしだからこそ。

 楽しみなのだが。

 「同じ匂いは変わりませんよ、用務員さん。寧ろ確信しました。“貴方は事件を解決する側の人間”であると」

 「ん。君がそうだとは思えないなぁ。君さぁ?私が話した内容じゃなく私自身の雰囲気を感じ取っただけだろ?世渡りだけ上手くて中身がポンコツな女性が野心を持つとね、行き着く先は女帝の椅子ではなく座敷牢の茣蓙だ。君のような女性が身を落とすのを何人も視てきた。止めておきなさい。世渡り上手が通用するのは学生までだ。社会人には実力以外を求められない」

 偉そうなんだけどね。

 凄そうには視えない。

 家内なんか一目惚れでね。

 見た瞬間ビビッ!とさ。

 凄いっていうか。

 マブいっていうか。

 死語かい?

 マブいって。

 ま、良いじゃないか。

 文系探偵なんだ。

 言葉だって殺すさ。

 「ん。もう満足かい?私はね?全てを日常に戻さなくてはならない。事件や事故を後始末し、つまらなくて退屈な日常を提供しなくてはならない。用務員さんは、だから命懸けなんだ。どっちが凄いんだぞアピールとか、どっちが偉いんだぞアピールとか、構っている暇はない。暇以上に余裕がないんだよ。解ってくれ、美人さん」

 「……ふむ。まあ、美人と評して頂けましたので、この場は去りましょうか」

 二度と来んな、と。

 少年ならば言うのだろうか。

 面倒な女性は放置に限るし。

 面倒な女性は無視に限る。


 「……なーんてね!」

 「!?」


 教育委員会の偉い人が仲間になった!

 


 

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