2、あざなえる縄の如し

 その日の晩。

 店の中から客の姿が少なくなる時間、俺たちは『ムーラン』の片隅に集まった。

 余計なおまけ付きで。


「なんでいるんだよ、お前」


 指先から絵具を出しつつ、大きなスケッチブックらしいものに、上機嫌で絵を描き続ける鈴来すずき

 会議に来てくれた仲間たちも、落ち付かない様子でヤギの方を見ていた。


「暇だから。仕事、終わったしぃ」

「こっちは、これから建設的なお話をするんですよ。部外者の方は帰って」

「でーきたー。ほらぁ、おにいさんの、なんとかってヒト風自画像ぅ」


 そこに描かれていたのは、確かに俺の自画像らしきものだった。

 灰色の帽子をかぶったネズミ、青い上着、のたくる炎のような青い背景。


「ゴッホの自画像かよ……つーか、絶妙にうまいのがムカつくな」

「ふへへ、褒められたぁ」


 びりっと端から破ると、それをこちらに手渡してくる。それを受け取り、テーブルの脇に置いた。


「満足したら、お帰りいただけないですかね。大作家先生」

「やーだ。おにいさんで、もぅちょっと描けそうだからぁ、描いていくですだよぉ」

「あと、その絵具、だだ漏れしてるじゃねえか。店が汚れるだろ」


 実際にはテーブルや床に、様々な色の絵の具が飛び散って、目も当てられないことになっている。

 そこでようやく、ヤギは困ったような顔で、カウンターの乙女さんに振りかえった。


「雑巾、欲しいって、おにいさんがぁ」

「お前が片付けるんじゃないんかい!」

「諦めなよ、リーダー。鈴来って、こうなるとテコでも動かないから」


 このワガママ絵描きに振り回され済みらしい柑奈が、ため息をつく。その隣で苦笑する紡も、似たような顔だった。


「オレも描いてもらったけど、なんか、目とか顎とかがズレまくった、変なのだった」

「なるほどピカソ風か。器用過ぎんだろ」

「あたしは確か、こう、目がイッてて川に流れてく感じ、きれいだったけど、微妙に反応に困ったわー」

「そっちはミレーの『オフィーリア』ね。で、文城は?」

「……なんか、僕の顔が、猫でできてた……ちょっと、こわかったよ」


 猫で顔を作ったって? 俺はちょっと首を傾げ、ぽんと手で打った。


「国芳の『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』か! 浮世絵もいけるのかよ。しかも、文城がネコだってのに掛けて、猫絵師の歌川国芳とはね」

「うへへ……おにいさぁん、絵、詳しいですだねぇ」


 俺は失言を悟った。

 前髪で隠れがちなヤギの目が、つやつやと輝いて、こっちを見つめる。


「た、たまたまだよ! 雑学として知ってるだけだ!」

「うち、絵とか画家さんの名前、憶えられないからぁ。おにいさん、頭いいなぁって」

「やめろって! なにやってもいいから、今はどっかヨソ行っててくれ!」


 俺は両手いっぱいに色鉛筆を取り出して、迷惑な芸術家に押し付けた。


「これ使っていいから、端っこでおとなしく、絵だけ描いててくれ!」

「……これ、おにいさんの、ギフテッド?」

「そうだよ! いいから」

「……仲間だ」


 それは、心臓をわしづかみされるような、嫌な言葉だった。

 目の前のヤギは、無邪気に笑って言った。


「おにいさん、うちとおなじ。絵描き仲間ぁ」

「やめろ!」


 気が付いた時には、ヤギの体が店の床にしりもちをついていた。

 伸ばされた俺の両手が、相手を拒絶していた。

 ぶちまけられた色鉛筆が、辺りに散らばっている。


「ご……ごめ、ん。頭とか、打ってないか」

「おにいさん? うち、だいじょうぶ、だけど」


 俺は散らばったものを拾い集めてカウンターに置くと、雑巾を手に戻る。

 なるべく、みんなと顔を合わせないようにして、俺は呻くように告げた。


「今日は解散にしてくれ。次の会議は、俺から連絡する」


 いったい何だってんだよ、これは。

 今朝までは気持ちよく、仕事の話ができてたのに。

 なんで、よりにもよって。


「なんで今更、こんなこと、思い出させんだよ」


 そのまま、惨めな気分を拭うように、床の絵の具を雑巾に吸わせていく。

 忘れろ、忘れてしまえ。

 もう俺は、過去の自分とは違うんだ。

 必死に言い聞かせるようにして、俺はただ、目に付く嫌なものを、拭い去ることに没頭した。

 


 そいつは、ヘラヘラと笑っていた。

 こともなげに、自分のやりたいことをやり続けていた。

 挙句、とんでもないことを、言ってのけた。


『お前も一緒にやろうよ』


 できると思っていた。

 できると思っていたんだ。

 ずっと昔から、誰に何を言われても、好きなようにやってたはずなのに。


『――――っ!』


 ぐしゃぐしゃになっていく画用紙。へし折った木炭の欠片が床に散らばる。


『大丈夫だって、俺でも描けるんだから』


 違う。


『簡単だよ。お前だってできるって』


 違う。


『見たまま、感じたまま描けばいい』


 違う。


『俺もお前も、なにも違わないって』


 違うんだ。

 大きく、バツを付ける。

 描いたものに、描けなかったものに、バツを付ける。

 分からない、どうやって描いたらいいのか、わからない。


『そんなに苦しいなら、無理してやることないじゃないか』


 俺は振り返る。

 そこに立っている影を見つめる。二つの影、信頼していた両親の言葉。


『どこ行くんだよ』


 呼びかける声に耳を塞ぐ。塞いで、二人の影の方へ。


『一緒に、描くんじゃなかったのか』

『趣味で描けばいいじゃないか』


 二つの声の一つをひねりつぶし、もう一つの声を、一杯に思い浮かべて歩く。

 そうだ。趣味だったら、こんな気持ちにならなくても済むんだ。

 いつの間にか、腕に抱いていたスケッチブックを、開く。


『■■商事さんの案件がまだ終わってないだろ』


 何かを描くはずの白い面積に、びっしりと、文字が刻まれていた。

 社内稟議、案件資料、納期、予算申請、経費、打ち合わせ、納期、会議議事録、作成資料、納期、休日出勤、納期、納期、納期、納期、納期、納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期納期。


 必要と要求が、両手両足を真っ黒に染めていく。

 どぶ川のような臭いが、誰かの勝手な欲望が、俺の体いっぱいに詰め込まれて、息が出来なくなる。

 助けて、誰か助けて。

 誰か。 

 そして向こうから、鋼鉄の箱がやって来て。


 がつんっ。



 気が付けば、朝だった。

 窓の外が明るくなっていく。胸元に乗っているのは、文城の太い腕。いつものようにどかそうとして、そのままにする。

 両手を差し上げ、毛の生えた両腕を見て、安堵を吐いた。

 そうだ、もう俺は人間じゃない。

 ブラック企業も、過去の選択も、関係のない場所に来たはずだ。

 それなのに。


「ああ……そうか」


 俺は、2Bの鉛筆を取り出し、笑った。


「そういう意味かよ、ギフテッドってのは」


 逃げられない業。死してなお、忘れられない残念。

 その人間の持つ『悔悟リグレット』の現れ。

 それこそが、あの皮肉な超越者の与えた『贈り物ギフテッド』なんだ。


「あ……」


 目元が、じわじわと圧力でにじむ。

 仰向けのまま、涙が流れていくのに任せる。

 毛皮が濡れて後頭部に伝わって、それでも流れるのが止まらない。


「……っく……ふ……ぐぅ……っ」


 同居人は静かに寝息を立てている。

 声を殺して、俺は泣いた。

 文城が朝に弱くて、本当に良かった。そう思いながら。

 


「まずは、みんなごめんな」


 事の起こった次の日の夜。急な呼び出しにもかかわらず、みんなはちゃんと店に顔を出してくれた。正直、話さえ聞いてくれないかも、と思ってたけど。

 

「特に、鈴来。ケガがなかったとは聞いたけど、突き飛ばして、悪かった」


 ヤギの顔には困惑と、微妙な陰りがあった。こっちに対する不信感だろうが、やったことが直接的だったし、愛想よくしてもらえるとは思ってない。


「簡単に、経緯だけ説明するよ。要するに、過去のトラウマ、みたいなもんだ」


 俺は自分の手の中に鉛筆を取り出して、それにまつわる話を、淡々と告げた。


「ガキの頃、絵をかくのが好きで、自分もうまいと勘違いしてた。で、中学の頃に、友達だった奴と、一緒に絵を描くようになった。ちなみに、友達の方はガチに才能があった」


 俺の個人的な都合なんてどうでもいいとは思うけど、事の顛末も知らせずに『もう大丈夫だから』なんて、通用しないだろう。

 

「高校に上がる頃、俺は気が付いた。致命的に、絵心が無かったんだ。具体的には、生き物とか人物像とかが、まともに描けなかった」

「……それは、デッサンとか、そう言ったことですか?」

「うん。建築物や風景は、そこそこだった、と思うけど、もう分からないな。それで、俺からあいつと絶交して……絵とは関係ない仕事に入った」


 あいつを裏切って、二度と顔を合わせなくなってから、絵筆は取っていない。鉛筆だって、こっちに来て久しぶりに握ったぐらいだ。


「システムエンジニア……会社の管理システムとか、そういうのを作るやつに。俺はあいつみたいには描けない。だったら、絵なんて片手間の遊びでやっておけばいい、ってさ」

「……で、絵は、描けたのかよ」

「無理に決まってるだろ。毎日毎日、やっつけ仕事のブラック案件で、暇なんてない。たまの休みでも、酒飲んで動画かDVDでも見るかしかなかったよ」


 自分のろくでもない過去を語るなんて、どんな罰ゲームだ。でも、人を傷つけかけた報いだし、むしろ軽いぐらいかもな。


「それで、まあ、その先は聞かないでくれ。とにかく俺の、人としての生き方は、終わったんだ」

「その思い出したくもない過去を、鈴来の言葉で思い出した、ってわけ?」

「……ぜんぜん、もう平気だと思ってたんだけどなあ」


 俺は手に持っていた鉛筆を、テーブルの上に投げ出した。


「これが2Bだった理由も、思い出したよ。ガキの頃、俺が絵を描くってんで、親戚のおじさんがくれたんだ。ホントは4Bくらいの柔らかいのがいいんだけど、子供じゃ筆圧のコントロールが難しいから、硬いのからやってみろってさ」

「その……ホントに、駄目だったの?」


 無表情に近い顔で、柑奈かんなが問いかける。その指に、投げ出された鉛筆を持って。


「練習、とか、学校とかに行ってれば、もしかしたら」

「頼む……柑奈。それ以上、言わないでくれ」


 叫び出したい気持ちを、必死に抑える。

 分かってる。別に柑奈は俺を責めたいんじゃない、もしかすると、あったかもしれない未来を、慰めにしたいんだってことぐらいは。

 でも、


「俺は、もうここにいるんだ。そして、戻る方法もない」

「……ごめん」

「その、友達って、その後どうしたんだ?」


 つむぐの問いかけに、俺は苦く笑った。


「俺が仕事に入るまでは、年賀状とか、手紙とか、送ってくれてたよ。返事も書かなかったけど。俺がこうなる一年ぐらい前に、個展をやるって招待状が来てたな」

「い、行ってあげたの?」

「破って捨てた。銅板エッチングで、そこそこメジャーな作家になったとは聞いたよ」


 俺は無理に笑顔を作って、両手を広げた。

 これできれいさっぱり、何も隠すところはない。


「今回のことで分かったよ。俺たちに授けられた『ギフテッド』ってのは、そいつが死に際になっても、忘れられなかった無念や、願いが源なんだって」

「それで、どうするの?」

「自分の過去と向き合って、何が心残りかわかった。あとは、元通りしまいこむだけさ」


 しまい込むという一言に、それぞれが表情を動かす。

 その一切を、俺は見なかった。

 俺のギフテッドがこうである以上、みんなのそれも、それぞれに事情があるんだろう。

 そんな、くだらないことを突いたところで、何の意味もない。


「それに、この能力がダンジョン攻略に役立つのは証明済みだ。商売道具にもなるし、過去の心残りも、意外と悪くないかもな」


 さて、こんなくだらない話はここまでだ。

 俺は会議用の資料をテーブルに出す。それから、テーブルの端に座るヤギに向き直る。


「鈴来、悪いけど、ここからは俺たちの話になる。外してくれ」

「……わかった、ですだよ」


 しょげかえった背中が店を出て行ったが、俺に何かできるわけもない。

 そもそも、俺はアーティストなんて、嫌いなんだ。

 自分勝手で、みんなが自分と同じ才能の翼を持ってると勘違いして。

 地面を這いずるネズミが、空の高みに上がるなんて、無理に決まってるじゃないか。 


「それじゃ、今回はそれぞれの課題と、パーティの努力目標について」


 俺は出来る限り、声のトーンを上げて話し出す。

 今や、俺に対する信頼なんて地の底だろう。それでも、トラブルでプロジェクトがぎくしゃくすることなんて、今までいくらでもあった。

 大丈夫。いつだって乗り越えてきたはず。


「あ――」


 ぼたぼたと、手にした紙に雫が降り注いでいく。

 吸い込んだ息が、しゃくりあげて、栓が壊れたみたいに、涙が止まらない。


「こ、孝人……っ!」

「だ、だいじょ、うっ……」


 必死に両手を当てても、どうにもならない。

 頭の中に黒くて重いものが、一杯に広がって、涙になって流れ落ちる。

 いつも乗り越えられたなんて、嘘じゃないか。

 それならどうして、お前はここにいるんだよ。


「あ、う……っ、ち、ちが、だいじょ、だいじょうぶ」

「全然、大丈夫じゃないでしょ」


 ひょいと、俺の体が持ち上がって、大きくて柔らかいものに包まれる。

 それは乙女さんの、胸の中だった。

 思わず両手を突っ張って逃げ出そうとするが、向こうの方が大きくて、力も強かった。


「みんな、とりあえず今日は解散ね」

「だ、だめ、俺の、俺の事なんかで、仕事が」

「いい加減にしなさい」


 ぴしゃりと言い放つと、そのまま俺を抱いて、二階へ上がっていく。


「文城君と柑奈ちゃんは、店の片づけと戸締りをお願い。紡君はしおりちゃんを送ってあげてね」


 それぞれが、乙女さんの一言で動き始める。

 俺は抵抗をすることも出来ず、部屋に戻されて、寝床に据えられた。


「ちくしょう……なんだよ、これ」


 悔しくて、涙が止まらなかった。

 ここに来て、新しい生活を始めて、何かができると思ってたのに。


「……ちょっとだけ、がんばりすぎちゃったのね」

「でも、俺、俺は、俺は頑張って、やれることをやって、それで」

「そうね。孝人君は、本当に、がんばったんだものね」


 そうやって、がんばった先にあったのが、今の俺じゃないか。

 社会に使い潰されただけの、ただのニンゲン。


「明日から、しばらくお休みしなさいね。甲山さんには、わたしから言っておくから」

「で、でも……」

「これはギルドマスター命令よ。分かった?」


 その一言が、体の芯に響いた。

 張りつめていたものが完全に切れて、力が抜けてしまう。

 後はただ、子供みたいに、しゃくりあげるしかなかった。

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