3.魔女に口付け、犬にはご褒美を


 リビングのローテーブルに置かれていた新聞を手に、ジェイドはソファに仰向けで寝転んでいた。何気なく手に取った新聞は、ロベリアが今朝がた険しい顔で読んでいたものだ。

 細かく並ぶ文字に目を通しながら彼女の悩みの種を探していると、ジェイドの腹が鳴った。壁に掛かった時計にちらりと視線を送り、夕食の時間を確認する。もう夜の九時を過ぎているというのに、ロベリアはまだ二階から降りてこない。


 ジェイドの食事は日に四回だ。起きている時間が長ければその分回数も増える。もともと夜型のジェイドは、ロベリアが家にいる限り日中は寝ていることが多い。彼女の生活に合わせて夜も眠るようにしているが、やはり日の出ている時間帯は体質的に眠くなるのだ。

 この日も食事の時間以外は今のようにほとんどソファで寝て過ごした。ロベリアが自室に籠りきりで、まったく相手にしてもらえなかったからだ。


 ジェイドは大きな欠伸をすると、新聞をテーブルに置いた。二階にある部屋の扉が開いて、ロベリアが階段を降りてくる音がする。退屈そうに寝転んでいる間も全神経をロベリアに注いでいたので、彼女が先程から外出の準備をしていることには気付いていた。


 飼い主に置いて行かれることを察した犬のように、あからさまに拗ねた様子でジェイドは立ち上がる。


「今日もパーティーとやらに出掛けるのか」


 不機嫌を隠すことのないジェイドに、ロベリアは困ったように微笑んだ。ダイニングの椅子に掛けていたコートを黒の膝丈ドレスの上に羽織り、首を横に振る。


「今日は穴場のバーに行ってくるわ」


「バー? 珍しいな。探している奴が見つかったのか?」


「ええ、この間のパーティーで有力な情報が手に入ったわ。私の探している男が、そのバーに出入りしているらしいの」


 ロベリアの言うこの間とは、パーティー後にホテルでシャワーを浴びていた日だろう。どうやって情報を聞き出したのかは、残っていた男の臭いで検討がつく。


「俺も行く」


「近くまで送ってくれればいいのよ、ジェイド」


「危険かもしれない男と接触するのに、一人で行くつもりなのか」


「人の目があるから問題ないわ」


 ジェイドを見つめる薄紫の瞳は、これ以上踏み込んでくるなと告げている。「待て」と主人に言われたら、犬は待つしかないのだ。飼い犬であるためには、飼い主の都合がもっとも優先されるのは仕方がない。

 頭では理解していても、従順なだけの犬でいるのはジェイドには難しい。


「……いつもそうやって理由をつけて、俺を置いていくんだな」


 乾いた笑いを漏らして、ジェイドはロベリアに近付いた。外出用に施された濃いめの化粧が、ロベリアの美しさを際立てている。どんなに美しくても、自分の知らない男と会うために着飾っているロベリアを見るのは気分が悪い。


 ジェイドはダイニングテーブルを背にして立つロベリアの前まで行くと、自分より頭ひとつ分は背の低い彼女を見下ろした。

 出逢った当初はロベリアより低かった身長も、一年ほどですぐに追い越してしまった。単純な力であれば当然ロベリアよりも強く、華奢な彼女の身体を簡単に腕の中に閉じ込めることができる。それでもロベリアを守るには劣っているのかと、ジェイドは置いて行かれるたびに思わずにはいられない。

 番犬としての役割すら、まともに与えてもらえないのだ。


 ロベリアの透き通ったアメジストの瞳に吸い込まれるように、ジェイドはそっと顔を近付けた。すぐにロベリアの両手がジェイドの胸板に触れ、動きを止める。ただ添えられただけの両手は、抵抗と呼ぶにはあまりに弱々しい。


「ジェイド、だめよ……口紅が付いちゃう」


 吐息がかかる至近距離で、果実のように艶めいた唇が動く。魅惑的に薄く開いた唇をジェイドは伏せた目で見つめたまま、胸板に触れるロベリアの左手を掴んだ。


「それじゃ俺を止められないって、分かっているだろ」


 一瞬揺れた瞳がロベリアの睫に隠れると、ジェイドは紅く色付いた果実をゆっくりと唇で食んだ。避けようと思えばいつでもそれが可能なように、たっぷりと時間をかけて。


 このキスが拒まれないことは、最初から分かっていた。中途半端にジェイドの想いを受け入れて、本気を示せばするりと腕の中から逃れてしまう。狡くて愛しいジェイドの飼い主魔女は、そうして心を掴んで離さない。


 口紅を拭うように柔らかな唇を何度か優しく挟み込み、角度を変えてロベリアの舌を捕まえる。深く重なり合うほどに吐息が隙間から漏れ出し、口内で混ざり合った熱がロベリアの喉を滑り落ちていった。


「っ……ん」


 追い詰められたロベリアの足が一歩後ろに下がると、背後のダイニングテーブルがかたんと揺れる。


「ジェイド、待って……だめ……貴方の匂いが付いたら困るのよ」


 ロベリアのスカートをたくし上げるように太腿を滑るジェイドの手に、制止の手が重なる。この手の温度を無視することはできない。


 僅かに息を乱したロベリアの瞳をじっと覗き込み、昂る熱の欠片を探してみる。ジェイドの望むものはそこにはなく、このキスが一時的な魔女の気まぐれであったと思い知らされた。


 期待して落とされるのはいつものことだ。

 ジェイドは深い溜め息を吐いておとなしくロベリアの言葉を受け入れると、項垂れるように額を彼女の肩に押し当てた。


を飼うなら、あまり放っておかないでくれ……。いつもあんただけを待ってるんだ……俺にはロベリアしかいない」


「ジェイド……」


 胸の内を素直に打ち明ければ、ロベリアの手がそっとジェイドの髪を撫でた。


「ごめんなさい……貴方を巻き込みたくないだけなのよ」


「俺は巻き込まれたいんだよ、ロベリアのことなら全部」


「……貴方は私にはもったいないくらい献身的ね」


「馬鹿言うな……お前にだけだ。ロベリアこそ過保護すぎるんじゃないのか? 俺をひ弱な人間と同じように扱わないでくれ」


 ロベリアの身体を挟み込むようにテーブルに両手を置いて訴えると、彼女は困ったように笑みを浮かべた。


「過保護でなにが悪いの、ジェイド。貴方を魔女の使にした覚えはないわ。パートナーとして大事にしているつもりよ。貴方が人でも人でなくても、それは同じことなのよ」


 そう言ってロベリアの手がジェイドの頬を滑り、口紅が付着して紅くなった唇を指先で拭った。


「もう出掛けるわ……口紅を直さなくちゃ。貴方はどうするの? 私は一人で行ってもいいけれど」


 いつもの宥めるような声音にジェイドは恨めしげな視線を送ると、頬に触れるロベリアの手を取る。彼女の柔らかい手のひらに優しく口付け、小さく呟いた。


「……送ってく」


「そう……ありがとう、ジェイド」


 満足そうに笑うロベリアを見れば、結局彼女の思い通りに動くしかないのだと、ジェイドは肩を竦めて自虐的に口の端を吊りあげた。



 ● ○ ●



 ロベリアがバーに行った夜から、数日が過ぎた。


 ジェイドの目の前でふわふわとひとりでに宙に浮かぶティーポットは、淡い茶色の液体をカップに注ぎ入れている。茶葉の香りを漂わせながら揺蕩う湯気が舞う様子は、昼下がりのリビングでは見慣れた光景だ。


 ソファに座ってロベリアの焼いたクッキーを頬張るジェイドの横で、麗しの魔女は静かに読書を楽しんでいた。彼女の日常的な魔法はまるで息をするのと同じように使われ、本に集中している間でさえ、手を使わずに愛飲しているミルクティーをカップに注ぐことなど容易い。


 ロベリアは読んでいた本を閉じてローテーブルに置くと、紅茶の注がれたティーカップを手に取った。


「ねえ、ジェイド。今の仕事が終わったら、少し遠くに出掛けましょうか。素敵な街を散策して、美味しいものをいっぱい食べるの。どう? 楽しそうでしょう?」


 隣で無邪気な笑顔を向けるロベリアを一瞥し、ジェイドはクッキーを口に放り込む。皿の上に山盛りにのっていたクッキーは、今や数枚しか残っていない。


「……デート?」


「そうね、デートよ」


「ふうん」


「嬉しい? せっかくだからホテルで一泊してもいいわよ」


「同じ部屋ならいいけど」


「……あなた、いやらしいこと考えているでしょう」


「当然だろ。それしか頭にない」


「呆れた……えっちな子ね」


 溜め息混じりにそう言うと、ロベリアは紅茶を一口飲んでソーサーの上に戻した。


 日当たりのいいリビングでのんびりとした時間を過ごせる日は、お互いに機嫌がよかった。ロベリアはゆったりとしたワンピースを着ているし、化粧もしていない。こういう無防備な状態のときはジェイドと一緒に過ごすと決めている日であり、彼女を独り占めにできる最高の時間だ。


 昼間の魔女は防御が緩くなる。恐らくジェイドの前でだけ。


 ジェイドは隣に座るロベリアに手を伸ばすと、彼女の長い髪を耳にかけた。艶のあるブロンドヘアは、陽の光を浴びて美しく輝いている。


「同じ部屋に泊まろう」


「寝込みを襲わないと約束できるなら、それでもいいわよ」


「襲ったことないだろ、寝てるときは」


 ジェイドが剥き出しになった耳にキスをすると、ロベリアは擽ったそうに身を捩じった。そのまま頬にキスをして、顎から首へと唇を滑らせる。


「こらっ……ジェイド」


 ソファに膝を乗り上げたジェイドは、ロベリアの身体を柔らかなクッションの上に押し倒した。じゃれる大型犬を叱るようにくすくすと笑うロベリアの唇に、触れるだけのキスを落とす。


「キスが好きね、ジェイド」


「……これしか許されてないからな。犬が飼い主の唇を舐めるのは、愛情表現のひとつだろう」


「貴方の愛はいつも真っ直ぐで、眩しいわ」


 目を細めて微笑むロベリアを見下ろし、ジェイドは彼女の細い首に指先を滑らせた。


「ロベリア……闇の住人と深く関わるのはやめてくれ」


 低く静かに発したジェイドの声に、ロベリアは大きな瞳を一度瞬いた。


「どういう意味?」


「分かっているだろ。前にパーティーから帰ってきた日以来、同じ男の臭いが染み付いている。人間の匂いはこんなに染み付かない。いくら魔女でも、人ならざるものと何度も深い関わりをもつべきじゃない」


「……いやだわ、ジェイド。貴方に隠し事はできないのね」


 ロベリアは小さく息を吐くと、ジェイドの首から垂れ下がる鎖に触れた。


「深い関係なら、貴方だってそうじゃない」


「俺はペットなんだろう。一線を引いているじゃないか」


「ペットであり、パートナーよ。ジェイド、もしかして妬いてるの?」


「……そうだと言ったら、やめてくれるのか?」


 表情ひとつ変えないジェイドをじっと見つめたあと、ロベリアは妖艶に微笑んだ。化粧などしていなくても、ロベリアの美しさはありのままの素顔にある。両腕をジェイドの首に絡ませ、薄紅の唇で甘く囁いた。


「そんなに言うなら……? 深い関係、今すぐなってみましょうか」


 ロベリアの言葉に、ジェイドは眉を寄せた。散々待ち望んでいた誘いも、本質をはぐらかされてはがっつく気にもなれない。


「そういう冗談は好きじゃない」


 ジェイドは首に絡み付くロベリアの手を引き離すと、体勢を戻してソファの背もたれに寄りかかった。


「もー、本当に気難しい子ね」


「俺は真面目な話をしてるんだぞ」


「はいはい、分かったわ。今度またパーティーに参加する予定だから、その時は貴方も一緒に来なさい。ただし、きちんといい子にしているのよ」


 ロベリアは諦めたように言いながら身体を起こすと、ソファに脚を組んで座り直した。


「その男も来るのか?」


「ええ、来るわ。でも、いきなり噛み付いてはだめよ」


「そんなの相手の出方次第だろ」


「どんな挑発をされても、だめなものはだめ。約束できるなら、さっきのお泊まりの話、同じ部屋にしてあげるわ。ご褒美に添い寝も許可しましょうか?」


 にっこりと笑うロベリアに、ジェイドは不審なものでも見るように顔を顰めた。

 どこまでジェイドを単純な飼い犬だと思っているのか知らないが、ロベリアの発言は絶大な効力をもっているらしい。


「……約束する」


「ふふ、決まりね」



 

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