第9話 初心者ロック


「おおー……ベースってこんな感じなんだあ……でっかいなあ、かっこいいなあ」


 艶のある黒いエレキベースが細いスタンドに立てかけられて目の前にある。

 太い弦、ボディに残る浅い傷。新品ではない、使い古されたような跡。それがまた、生雲の好奇心をくすぐる。

 生雲はライブ映像やミュージックビデオはいくつも見ているが、この近距離で楽器を見るのは初めてだ。購入意思がないのに店に入るなんて店員に迷惑だと思い、楽器店に足を運んだこともないほどに、内面は臆病でもあった。

 おどおどしながらも、触れないように気を付けながら他にも腰の高さまであるアンプや、光で煌めくドラムセットをまじまじと見る。真っ黒なアンプにはいくつも何かを刺せそうなプラグがあり、その上には英語が書かれている。その意味もわからないが、どれもこれも「かっこいい」以外の感想が出てこない。ドラムセットの深い青色は吸い込まれそうだ。シンバルには錆があり、金色とまではいかないが鈍くも存在感を示す。

 並ぶ楽器と機材。なにもかもが生雲にとって真新しい。ここが物理室であるとは到底思えない。

 すべてが華やかに輝き、気持ちが高揚する。


「ベースは卒業した先輩が置いていったやつでさ。お試し練習にはいいと思うよ。初心者教本はねえ……あ、あったあった。これ、持ち帰っていいからさ。練習曲も載ってるし、できるようになったら合わせてみようか」


 作間から猫塚にベース教本が渡される。端々が折れて曲がったものだ。幾年たっても教本に書かれる内容に相違はない。ペラペラと猫塚はページをめくり、どんなものなのかと見てみる。それをのぞき込む生雲は眉間にしわを寄せた。

 何が何だかわからない。

 四本の横線に書かれる数字。そこに縦棒や点、記号が書かれている。これが譜面なのだろうということは推測できたが、全く理解できなかった。



「ありがとうございます。これで僕、勉強してきます」

「うん、よろしくー。あ、あと智哉の作った曲も。これが譜面。今月中には弾けるようにしたいね。それでもって生雲ちゃんは唄えるようにね」

「今月……なかなかレベル高いですね」

「じゃないと間に合わないからねえ。ひとまずは智哉に見せるレベルにしてきてよ。疑問があればいつでもウェルカームッ。お兄さん、なんでも教えちゃうよ~」



 頭上で繰り広げられる会話。小柄な生雲は二人を交互に見上げる。すると作間が笑いながら言う。



「生雲ちゃんは歌うんだよ。ほーら、歌唱力テストだ。智哉の曲も流しておくから、唄ってみよっか」



 作間がスマートフォンで曲を流し始めた。合わせてすべてのパートを記した楽譜を渡される。そこにはもちろん歌詞も書かれていた。


 耳に入るのは聞いたことのない曲。一斉に楽器が鳴らされて始まる。すべての音の主張が激しい。

 ロックだ。それもゴリゴリの。


 ボーカルの声は入っていないが、もし入っていたならばシャウトしていてもおかしくない。


 普段生雲が聞くのは、好きなWalkerの曲ばかり。それとは系統の異なる曲に何度も瞬きを繰り返した。

 そんな曲に作間が鼻歌でリズムを示し、それに合わせてああでもない、こうでもないとリズムと音程を確認。その横で猫塚が教本を見ながらアンプに繋がずに静かに弦を弾く。

 作間がスティックを叩いてリズムを取りながら、生雲が真似て唄う。しかし、その音程は歪で不安定。だんだんと声も小さくなっていき、次第にスティックの音だけが残った。



「ねえ生雲ちゃん……誰よりも生雲ちゃんの方が練習必要だよ。想定外のレベルの歌唱力だ。こりゃ、時間かかるねえ」

「俺、そんなに下手……? いや、下手ですよね……そうですよね……」



 楽器も歌も何もできない。何をやっても駄目だと、現実が自己嫌悪へと導いていき、言葉通りに肩を落とす生雲。自信も気力も失い、失意の底へと落ちる。



「なんというか、下手っていうか、オンチでもなくて、こう……恥ずかしさがあるでしょ? 声で自信がないのがよくわかるんだよね。そういうのはポーイッてしてもらわないと」

「うぬぬぬ……でも、下手って言われると恥ずかしいし……」



 歌がうまいとは思っていない。けれど、楽器ができない以上、生雲が唄うしかない。

 理解できても、達成できるわけではない。体より頭が動く生雲には羞恥心を捨てることは不可能だった。

 どうやったって恥ずかしい。曇る生雲の顔をじっと見つめる作間の目はいたって真面目で鋭い。



「そうだ。生雲ちゃんが恥ずかしいって思うことは何?」

「何って……唄うことも、目立つことも。俺、そういうのやったことなくて。というか、避けてきたというかなんというか」



 ごにょごにょと過去を振り返り、求められる姿をひたすらに演じてきたことを思い返す。やっと自分の意思で決めたのが、この高校への入学だ。他のことは他人の声に従ってきたのだ。

 目立たず、溶け込み、演じる。それが生雲の得意なこと。言い換えれば、他の事は不得意。



「目立ちたくないのに、バンドやりたいって思ったんでしょ?」

「はい」

「だったらさ、避けずにやらないとねえ」



 わかっている。わかっているけど、できない。苦虫を嚙み潰したような顔を隠すようにうつむく。

 作間はその間も軽くドラムスティックを振ってスネアを叩く。軽くて高いスネアの音が話を遮らない程度に鳴り続ける。そして言った。



「恥ずかしい、下手っぴだからやらない、やれないんじゃなくて、うまくなるためにやるんだよ」

「うまくなるために……」

「そ。最初からできる人なんていないんだから。練習するだけうまくなる、これ俺のモットー」



 決して責めることも、馬鹿にすることもなく、作間はニカッと笑う。その笑顔が、不安に満ちていた生雲の心を解き放つ。

 肩の荷が下りたように、晴れた顔をした生雲が顔を上げて胸を張る。



「もう一回! 教えてください!」

「いいねえ、そのやる気。お兄さんに任せなさーい。生雲ちゃんのレベルをぐーんと上げちゃうよ。目指せ、レベルカンスト!」

「はいっ!」



 二人は再度練習を始めようとすると、横から猫塚が小さく手を挙げて割って入る。



「あの、僕もいいですか?」

「ん、どしたんだい。猫ちゃん」



 ひとりで静かに教本と練習し続けていた猫塚。抱えたベースをチラ見して、作間の呼び名を気に留めずに言う。



「先輩? が作った曲、一通り弾けるかなと思って。合わせられたらな、と」

「え?」

「ええ?」



 生雲同様、猫塚も初心者――のはず。遠慮気味に言った猫塚の言葉に、生雲と作間の声が重なった。



「練習したから大丈夫だと思うんだけども」

「マジで言ってる? え、猫ちゃん、もしかして経験者?」

「いえ、楽器はやったことはないです。けど、この本に書いてあるし、なんとなくわかったし……合わせてみたいな、って」


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