一本の水
笠井 野里
一本の水
花の金曜、深夜の東京――眠らない街とはいえ、西側の
だが、そんな夜にスーツ姿の若い男が一人、ふらふらした足取りで現れた。男は小さなリュックを背負った背を丸め、崩れかけた前髪をそのままに、赤信号に気がつかないまま横断歩道の真ん中まで渡っていた。そして――そこでそのまま、へなへなと座り込んだ。幸い、車の往来はない。
信号の色が変わり、また変わり、それを五度ほど繰り返しても、男はぼおっと動かなかった。二度、車が来たが、彼の座った車線と別車線だったため、気がつかないまま疾走していった。黒いスーツは、彼を夜の空気に溶け込ませていた。
そんな横断歩道に、一人の女が現れた。半袖の服は黒く、ニルヴァーナの”In Utero”のジャケット写真がプリントされている。ズボンも灰色のデニムで、染めたばかりの短い金髪ばかりが眩しい。口元に咥えられたタバコの先が赤黒く光る。銘柄はピースのライト。目は大きく、まんまるだったが、それ以外ではバンドでもやっていそうな雰囲気の若い女だった。
赤信号を待つあいだ、女は、目元を細めた。道のど真ん中に何かある。三度ほど目を凝らしたが、それがなにかわからなかった。信号の色が変わり、歩いているうちにそれが人だとようやくわかった。女は男の前に立ち止まり、声をかけた。ききとりやすい、低い声だ。
「大丈夫すか?」
男は無反応だった。女はタバコを捨て、足でもみ消してからしゃがんで、男の肩をやさしく揺らしながらもう一度声をかけた。
「大丈夫すか」
男は女と目をあわせた。男の目元は真っ赤に充血している。半開きの口から、かすれたうめき声が聞えた。信号が赤に変わった。
「危ないっすよここ」
男はこくりと頷いて、また下を向いてしまった。女はため息をつき、男の両肩をかかえ、
「ほら、立って、とりあえずここ危ないんで、道路行きましょ」
女は男を無理やり引きずった。抵抗はなかったが、引きずるに苦労する重さだった。運び終えた女は、男を横目にもう一度ため息をつき、煙草を取り出し、火をつけ、
「酔ってます? 死ぬっすよ、あんなとこいたら。マジであぶねえっすから。よく死ななかったっすね、車来ませんでした?」
男は答えなかった。ただ女の顔を見上げ、一度立ち上がろうとして、よろけてまた座った。女はそれをみて、あのまんまるの目を細めて笑って、
「とりあえずそこ座っといてください。コンビニで水買ってきますから」
と言って男のもとを去った。男はすわった目で地面を見つめている。――コンクリートの上に女の煙草の灰がパラパラと落ちていた。
一、二分たち、帰ってきた女は、ペットボトルに入った水を男の
「大丈夫っすか? 向こうの道の奧に公園あるんで、そこのベンチで休んだほうがいっすよ。なんなら私そこまで送ります? ――あぁー、ウチ。ウチもあるのか。タクシー呼びます?」
男は、すくっと立ち上がり、またよろめき、なんとか立って彼女の顔を見た。男の充血した目はクルクルと回っている。
「すみません、心配ありがとうございます。そこまで、やってもらわなくて、大丈夫。自分で、タクシー呼んで、帰るんで」
「そっすか。じゃ、私は安心してお家に帰るとします」
目の前の信号はもう青だった。女は歩いて男から遠ざかっていく。男は女の後ろ姿を未だ歪んだ視界で眺めていた。青が点滅し始めたころ、女は振り返り、
「酒には気をつけたほうがいっすよー!」
と、男に聞こえるように大きな声で、叫んだ。そしてまた歩く。煙草の
――翌朝、自分の住むワンルームの賃貸に帰ってきた男は、泥酔のせいでうす汚れてしまったスーツを脱ぎ捨て、ベッドに倒れこんだ。入社ひとつきを前にして、こんな社会人生活があと四十年は続くことを、二日酔いで頭が痛むまま考え、昨晩とまったく同じように自殺をしたくなった。が、彼が首をすこし傾けると、机の上には一本のペットボトルがある。女に貰った、中身がもう二割しか残らないペットボトルが。
そうして、女は男の命を救い、男の人生にうっすらとした希望を与えたことに気がつかないまま、人生を送るのだろう。ほんの小さな善い行いは、溶けるようにしてわすれてしまうものだから。
一本の水 笠井 野里 @good-kura
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