Episode.27 chain of despair

 その父子家庭は幸せな日常を送っていた。

 父親の名は、ゴペル。四十代後半の、平凡な顔立ちをした痩せぎみの男だ。彼が二つ年下の妻と結婚したのは、ちょうど7年前になる。

 いわゆる、恋愛結婚。仕事帰りに寄った酒場で、同じく一人で飲んでいた彼女を見かけひと目惚れした。勇気を出し声を掛けると、二人はたちまち意気投合し、その日を境に交際を始めた。

 彼女は動物が好きだった。ゴペルもそうだったことから、二人のデートは決まって、動物を見たり触れたりすることのできる街の中心部にあるパークエリアであった。そうして愛を深めていくうちに二人の間に子どもができた。彼女に似て、一重まぶたにスッキリした顔立ちの女の子である。アメリ、と名付けた。

 ゴペルは妻を深く愛していたし、我が子のことも同じくらいに愛した。だが、アメリを出産してから2年後、妻は病によりこの世を去ってしまう。

 ゴペルに悲しむ余裕はなかった。アメリがいたからだ。愛する妻との子を命に代えても守り育てていく。そう神に誓った。

 ただ、一つの命を抱えて生きていくには、十分なお金がいる。今の仕事を変えるわけにはいかない。かといって、アメリを家に一人置いておくわけにもいかない。そこで、自分が留守にしている間、娘の面倒を見てくれる知り合いのベビーシッターに頼んだ。大事な娘をどこの馬の骨ともわからない人間には預けたくなかった。

 仕事は毎日夜遅くまでかかったが、どんなに疲れていても娘のためと思えば頑張れた。家に帰れば、ベビーシッターと楽しそうに遊ぶ娘が「パパおかえり!」とバンザイして飛びついてくれる。その幸せが一生続くだけで、この上ない喜びだった。

 その日、いつものように夜中の10時に帰宅すると、家の中はどこか不自然だった。まったく人の声がしない。いつもなら、ベビーシッターと娘がキャッキャとはしゃいでいるのに。もう寝てしまったのだろうか。パパおかえりと抱きつくまで眠らない娘だって、時には遊び疲れてぐっすり眠るはずだ。別におかしなことではない、と首を振った。

 扉の閉まったリビングは明かりがついていた。あそこを開ければ、布団に眠る娘と側で優しく見守る若いベビーシッターの姿がある、そんな想像をしながらドアノブに手を伸ばす。

 引き開けるが、正面には誰もいない。中へ入ると、左側に人の気配を感じた。見知らぬ男と目が合った。

 ゴペルは泡を食った。男の斜め後ろに視線を移すと、ベビーシッターが死んでいた。横向きに倒れ、目を剥き、首から血を流している。


 「ハ…ッ、ハア…」


 さらに視線を移すと、男の手元に果物ナイフと、ガムテープで口を塞がれた娘が座らされていた。幼い首筋に鋭く冷たいものが触れている。娘は目をいっぱいに見開き、涙を滲ませ、震えていた。


 「アメリ…アメリ…!!」


 ゴペルは男を見た。彼は線の細い少年だ。質素な鼠色の服。フードで前髪を隠す下は、ひどく顔色が悪い。たまにゴペルと目が合うも、どことなく落ち着きが悪く、すぐにそらしてしまう。


 「何なんだ、君は…。なぜ、こんなことをする!娘を離せ!今すぐに」


 相手が気の弱そうな少年だとわかるや、ゴペルは強気な態度を取れた。


 「こんなことをしていいと思っているのか。君はすでに人を一人殺しているんだぞ。わかっているのか。君がどれほど罪深い行為をしているのか。次はその刃を娘に向けるのか。そんなことをすれば、この私が許さない。これ以上の過ちを犯す前に、そのナイフをこちらに渡すんだ。さあ、早く!」


 ゴペルが右手を強く差し出すが、少年はずっとうつむいている。今すぐにでもナイフを奪いたいところだが、少しでも動いてもし相手を刺激してしまったら、娘の命がさらに危険にさらされるかもしれない。それだけは何としてでも避けねばならない。ゴペルはふぅーっと息を吐くと、右手をゆっくり下ろした。


 「…わかった。君の要求を聞こう。君は何が欲しいんだ?金か?だったら、今出せる全てを君に渡す。だから、頼む、娘だけは殺さないでくれ。その子は私の、人生のすべてなんだ。このとおりだ」


 文字どおり、地に頭をつける思いで懇願した。ゴペルは相手からの返答を待った。


 「…わかり、ました」


 脅えたようにか細く震えた声。優位に立つ側の相手が何に脅えているかは、意味不明だ。だが、ゴペルは鋭く息を吸い込む。


 「じゃあ、娘を――」

 「あなたの、娘さんへの思いがわかれば、十分です」

 「何を、言ってる?」

 「前回の親は、あなたみたいに、息子を返せと命乞いしておきながら、結局ダメだった。失敗だった。あの母親は、口ではああ言いながら、自分のほうがずっと可愛かったんだろうと、思います」

 「さっきから何がいいたいんだ?娘を、解放してくれるんだろう?その手を、離してくれ、頼む。娘はずっと、泣いてるじゃないか。可哀想だ」

 

 幼い肩を掴む手にギリッと力がこもり、娘は身をよじらせた。


 「いいなあ、君は。親から深く愛されていて。僕は母親にまったく愛されていなかった。あの人は僕のことを都合のいい召使いとしか見ていなかった。同じ親なのに、何でだろうね。僕と君は一体何が違うんだろう。ただ、優しい親のもとに生まれたか、そうじゃないかの違いなのに」


 少年は突然すらすらと喋りはじめた。 小刻みに震えるつむじを見下ろす目は、激しく興奮しはじめている。


 「あの人がとっかえひっかえした男たちに、僕は何度も暴力を振るわれた。だから、大人の男の家を狙うのは嫌だったんだ。でも、仕方がないじゃないか。君と父親が幸せそうにしている姿を見てしまったら、そりゃあ狙うしかないじゃないか。それが僕の仕事だ。僕の役目だ。僕は君が、心底憎い」

 「アメリ!!」


 少年がナイフを持つ手に力を込めた。ゴペルは手を伸ばし走り出す。やわらかな首筋に鋭い切れ込みが走り、鮮血が飛び出す。床から壁にかけて血がびしゃっとかかった。少年が手を離して後ろへ下がると、小さな体は前へぐたりと倒れ込みそこをゴペルが抱きとめた。


 「ああ!アメリ…アメリ…!!」


 首を押さえつけるが、血が溢れ出して止まらない。そもそも、アメリはすでに絶命していた。父親の絶叫を聞くことも、絶望に嘆く悲愴な顔を見ることも、決してない。自ら動かない体は骨が折れそうになるまで力強く抱きしめ続けられる。ゴペルはフーッフーッと息を荒らげ、目を血走らせ、少年をゆっくりと見上げた。


 「妻を亡くして…私にはもう、この子しかいなかったのに…。よくも…よくも…」


 少年はさらに後ろへ下がっていった。ゴペルは娘の亡骸を床に下ろし、膝に手を添えて立ち上がる。


 「娘の仇を取り、私も死ぬ。こんな地獄のような思いは耐えられない。耐えられないぃぃいいいいいいいいいいいイイイイイイガァアアアアアア!!」


 頭を抑えて苦しみだした体が背中を大きくのけ反らせ、両眼が一瞬真っ赤に光った。少年は荒んだ目でその様子を見据えている。人間のものでなくなった絶叫が部屋の外にまで漏れ出すと、急激に変化した肉体は天井を突き破り、夜の町に死の宴の始まりを告げた。


          ❖❖❖


 リクセ・シャイは物心がついたときから、ひたすら異性のことばかり考えていた。

 好きになった男は数知れない。想いを告げたうち二人の男と付き合うまでに至ったが、そのどちらも間もなく破綻している。片想いに終わった男たちは、一方的な愛を伝えられる中でリクセに嫌悪感を抱き、遠ざかっていった。原因は、強い愛ゆえの行き過ぎた行動にある。

 リクセは想い人ができると、彼との性的な空想にふけこむ癖があった。それは一日数時間、長いときで半日以上を費やした。そうする中で、次第に彼と自分は両想いの関係にあると思い込み、現実との乖離が生じる。現実世界で想い人に話しかけると、相手は決まって眉をひそめた。

 結婚願望がひときわ強いリクセは、二十代半ばになったあたりから、まったく恋人ができない状況に焦りを感じはじめた。結婚するなら相思相愛になった相手と、この条件だけは絶対に譲れない。しかし、好きな人ができても相手が振り向く気配はなく、いいなと思った男には必ず女がいる。

 自分を磨くことに一層力を入れた。焦げ茶色の髪がモデルのような美しさになることを目指して高級なオイルに手を伸ばし、お世辞にもきれいとはいえない顔を化粧で細部まで整えた。男は色気のある女が好きだという持論から、服装は毎回体のラインがはっきり出るものを選んだ。姿勢にも気をつけた。食事をするときもゆったり食べることを心がけ、気品のある女を演じた。

 運命の相手を見つけるための努力を始めてから、10年の月日が経った。未だにそんな相手は現れない。歳を重ねるごとに皺も増え、体は痩せにくくなる一方。自暴自棄になりたまに男をホテルに誘うが、断わられ現実を思い知る。やがて、リクセはお洒落で人目を惹く女を憎むようになった。とくに若い女。男がいればなおさら殺意は増した。異性関係が豊かな女は全員敵に見えた。男女が手を繋ぎ、キスしているところを目撃すると、怒りが全身を貫き、あの幸せを根こそぎ奪い取ってやりたいと思った。そして、なぜ自分には異性との幸せが巡ってこないのか、と来る日も来る日も嘆き続けた。

 今、リクセの足元には、ロープで両手両足を縛った若い女が転がっている。女は金色の髪を恐らく自分で整えたのか綺麗にカールさせ、男が好きそうな女性らしい服装を着込んでいる。リクセの背中側にもこれまた両手両足を縛られた若い男が横たわる。男はすらっとした背丈に茶色がかったハンサム風の髪型をしており、彼等はとてもお似合いの男女に思えた。


 「お願い…。た、助けて…」


 女はひどく震えた様子だ。見上げる先に刃渡り25センチの包丁がある。突き刺されでもすれば、ひとたまりもない。ここは周囲の民家から少し離れた立派な一軒家のリビングで、叫んだところで誰も助けには来てくれない。資産家の彼とリッチなデートを楽しんだあと、家の扉を開けようとしたら背後から強い衝撃を受け、気がついたときにはこうなっていた。


 「助けてほしいの?じゃあ、謝れよ」

 「な、何を」


 リクセはしゃがみ込むと、女の前髪をわし掴み強く引っ張った。


 「あんた、さっきあたしとすれ違ったとき、あたしのことを見下したでしょ」

 「な、何を言ってるの」

 「とぼけてんじゃねぇよ。あたしのほうをちらっと見て、ニヤけてただろうが」

 「そんなことしてない。わたしは、あなたのことなんて知らない、見てない」

 「嘘つけよ。自分にはいい男がいて、あたしにはいないからって、どうせ自分のほうが価値のある女だと思ってんだろ。見え透いてんだよ」


 女の顔を床に叩きつけた。男のほうが吠えた。


 「おい!彼女に触るな!彼女が一体何をしたっていうんだ。被害妄想もいい加減にしろよ」


 リクセは奥歯をギリッと噛みしめた。それから、悲しい顔をして天井を仰いだ。


 「あーあ…。なんでそんな、傷つくようなことを言うのよ。彼女彼女って。あたしはそんなふうに好きな人から大切に思われたことなんて一度もないのに。ほんと、羨ましくて、この上なく、殺したい」


 リクセの目がギロリと女を見下ろす。女はヒッと青ざめた。体をくねらせて後ろへ下がるが、包丁はすぐそこまで迫っている。


 「おい!やめろ!やめろぉお!!」

 「いや!お願い!助けて…。何でもするから」

 「何でもするんだったら、さっさと死ねよ。売女が」

 「いやぁあああああ」

 「ぁああッ。アンドレ!そんな、ウソだ!」

 「ああぁああ!痛い!やめてぇ」

 「うるっせェんだよ。キーキー鳴くなよ。キーキー、キーキー、キーキー、キーキー」

 「やめろ!もうやめてくれ!」

 「ぁが…あ……」


 女の周囲は一面血の海になった。横たわる体はしばしの間痙攣を続け、やがて息絶えた。


 「アンドレ…アンドレ…アンドレ…」


 男の呼びかけにも、当然答えない。彼は悲愴な顔から大量の涙を流した。


 「殺したのか…?彼女を…死んだのか…」


 ぼう然とする表情から一転、急激な怒りの形相へと変わった。


 「この薄汚れた豚女がァ!!殺してやる!!お前の醜い顔を引き裂き、腸を細かく千切り、二度と生まれ変われないよう谷底へ沈めてやる!死ねぇぇ阿婆擦れがぁああアアアギィヤアアアアアアア」


 背後で周囲の物を巻き込む破壊音が聞こえた。リクセは唇をひきつらせて笑い、目からは一筋の涙が溢れた。

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