カーネーションとテディベア

鍋谷葵

カーネーションとテディベア

 雨上がりの傾斜が急な山道には、降り注ぐ春の陽で温められた生ぬるい空気とペトリコール、枯れ葉の腐った匂いと苔の蒸した匂いで満ち満ちている。黒々としたアスファルトの歩道は、茶こけた桜の花びらと杉の葉で彩られている。歩道の左手に一様の間隔で立ち並ぶ花を失った桜たちは、青々とした緑を茂らせている。歩道の空を覆う青いその葉たちは、みな雨露に頭をもたげている。僕にとってどうしたことのない露さえ、彼らからすれば重たいのだろう。重みに堪え切れなくなった葉は露をするりと落ち、僕の鼻先に着地する。それは飛沫となって、顔のあちらこちらに飛び散る。


 ぴしゃり、ぴしゃりと、露が降ってきて、僕の顔を湿らせる。一滴、二滴であれば厭わしいとは思わない。けれど何十滴と続けば、卸したばかりのスーツが汚れるのが憚られることもあって、傘を差したくなる。


 でも、僕はビニール傘をバスに置き忘れてしまった。僕の手元にあるのは、一束の赤いカーネーションだけ。


 空にかかげれば、花も傘になってくれるかな?


 白い紙に包まれる濃緑の茎を把持して、空に掲げてみても赤い花弁が赤い傘には成り代わらない。赤い花弁は青々とした葉が垂らす露に濡れ、木漏れ日に輝くだけ。


 濡れて一層艶やかになったカーネーションに溜息を吹きかける。花弁の上の水滴は揺れ、向こう側の赤を弛ませる。


 花弁との境界を失った赤。見惚れてしまう赤。泣きじゃくって、ただひたすらにわめいていた僕が欲した色。


 あの頃、まだ幼かったころ、この山道に似た道を友達と一緒に駆けあがって、僕だけが転んで、膝と肘と顔をすりむいて、痛みに悶えながら赤を、いや、赤の温もりを求めた。それは雨上がりの空気が澄んでいた夕暮れ時だった。


 *


 幼い僕には儀式がわからなかった。沈痛な表情をしてお坊さんの訳の分からない言葉を聞いて、畳の上に正座をして、じっと俯く大人たちの意図が掴めなかった。陽気に鼻歌を歌う叔母さんも、ずっと家に居て毎日飽きもせず窓から空を眺めていた叔父さんも、怒りっぽくてずっと苛々していたおじいちゃんも、みんな押しなべて黙りこくって、みんな同じ表情を浮かべている理屈がわからなかった。仏壇も、お香も、喪服も、数珠も、黒い鉢植みたいな鐘の音も、全部意味不明だった。僕はいつものように訳が分からないことをあの人に尋ねようとした。けれど、いつでも僕の隣に居てくれたあの人は僕の隣にはいなかった。僕の隣には、父親とあの人が作ってくれたテディベアしかいなかった。


 青いボタンの右目と黒いボタンの左目、黒いプラスチックの鼻、にっこりといつでも笑っている黒い刺繍の口、そして首に巻かれた赤いリボン、ちょっと不格好なタオル地の小さなテディベア。彼は僕の右隣にちょこんと座っていた。意味の分からない目の前の儀式が退屈だった僕はテディベアを持ち上げて、顔にこすりつけたり、撫でまわしたり、にらめっこしたり、お話をしたり、いろんな遊びに興じていた。


 僕の左隣に座っていた父親は、お人形遊びに興じる幼い僕を時折見つめては鼻をすすり、時折見つめては目を擦ったりしていた。僕は意味の分からない言動を取る父親に首を傾げて、テディベアと一緒に見上げた。浅黒い肌で黒髪をポマードで固め、パリッと七三分けにした父親は、僕らを見ると唇をぎゅっと噛みしめ、視線をお坊さんへに向けた。


 父親を追従して僕はお坊さんを見た。蝋燭に灯る火と磨りガラスの雨戸から差し込む光で頭をぴかぴかと光らせる頭に、僕は噴き出しそうになった。けれど、僕は笑いをグッと堪えた。幼くても、時と場合はわかった。だから僕はテディベアと再び遊び始めた。


 退屈は儀式が終わると、大人たちは力を合わせて白装束を纏ったあの人を持ち上げると、桐の棺に閉じ込めた。そして、棺を仏間から黒くて長細い車の後ろへ運び入れた。


 僕とテディベアは一緒にシルバーのミニバスに乗り込んだ。叔母さんと叔父さんも一緒に乗ってくれた。僕の隣に座った叔母さんの香水の匂いは強かった。


 ただ、叔母さんは僕の頭を撫でてくれた。僕は恥ずかしくて、ぎゅっとテディベアを抱いて、彼の後頭部に顔をこすりつけていた。ミニバスが動き出してからも、僕は叔母さんに頭をずっと撫でられていた。もっとも臆病で引っ込み事案な僕は、『やめて』と言えず、あの人がずっと使っていた柔軟剤の匂いが染み付いた彼の後頭部に顔をうずめていた。


 花の散った桜並木がずっと続く山道をミニバスは進んでいった。杉が鬱蒼と生い茂る森の薄暗さは生来の怖がりを刺激して恐ろしかった。けれど、いつしか薄暗い森を抜けて、ミニバスは山の中腹にある開けた場所で止まった。雨を落としきった白い雲は、隙間から赤らんだ太陽をのぞかせていた。


 幼かった僕は明るい場所に出れて、叔母さんの手から離れられて嬉しかった。


 ただ、開けた場所にぽつんと建つ低い屋根からギラギラと光る銀色の煙突が伸びるベージュの建物は、それがなんであるか分からなくとも僕を怖がらせた。僕はテディベアをギュッと抱きしめた。


 父親と数人の大人たちは梯子を横にして滑車をつけたような大きい台車に、あの人が閉じ込められた棺を載せた。そして、ベージュの建物へ入っていった。僕は叔母さんに手を引かれるがまま、彼らの後ろをついて行った。


 白い御影石の床と桐のつやつやとした壁に囲われる広い室内の中央には、あの人が眠る棺桶が置かれた。枕元にはお坊さんが立っていた。棺桶の小さな窓は開けられ、花の強烈な匂いを漂わせていた。ただその花の匂いも、お坊さんの傍らに置かれた香炉からゆらゆらと立ち昇る薄紫の煙に上書きされた。


 お香の匂いは随分ときつかった。そして、お坊さんのお経を諳んじる声は眠気を誘った。眠い目を擦る僕は叔母さんに手を引かれ、ふらふらとあの人の枕元に立った。お坊さんが目を閉じて、ぺらぺらとお経を唱えている様は眠いながらも滑稽だった。


 叔母さんは僕の脇を抱きかかえて、僕にもあの人の顔が見えるようにしてくれた。桐の棺の小窓から見えるあの人は安らかに眠っていた。短い黒髪を極彩の花の上にはらりと散らし、あのとき『痛い……』と言って玉のような汗を浮かべていた額は白雪のようだった。


 あの人は夕飯をリビングのテーブルに並べ終えると、壁に手をついて倒れた。それが最期に見たあの人の姿だった。


 だから苦痛を、苦悩を、すべてを忘れて安らかに眠っている様子に僕は安堵した。そして、いつもみたいに笑ってくれるだろうと思って、大好きなあの人に手を伸ばした。夕方、幼稚園の迎えに来てくれるとき、いつもニコニコと和やかに笑っていた赤みを帯びた温かい顔に、その頬に僕は小さな掌を押し付けた。


 掌から伝わってくる感触は硬くて、冷たかった。あの人が僕を抱きしめてくれた時に感じた赤い温もりは無くなっていた。けれど、どうして冷たくなっているのか僕にはわからなかった。


 ぺたぺたとあの人の頬に触れる僕を見て、叔母さんは静かに泣き始めた。そしてこれ以上は見ていられないと言わんばかりに、僕をそっと地面に降ろした。叔母さんは泣きながら、棺の小窓に手を伸ばし、あの人に触れた。僕は陽気な叔母さんが悲壮に染まっている様を呆然と見上げていた。


「姉さん。早すぎるわよ」


 叔母さんはたった一言、惜別の言葉をあの人に投げかけると、僕の手を握りしめた。力強く、僕の手が赤らむほど力強く。


 僕は痛みを覚えた。けれども、痛みなんかどうでも良かった。僕はあの人が棺から起き上がって、暖かい体で僕を包み込んでくれることをずっと想像していた。

 あの人が入った棺は、僕らの目の前にあった銀色の扉の前に置かれた。黒いスーツの右胸に白い名札を付けた若いお兄さんが何かを言って、お坊さんも何か言った。何を言ったのかは分からない。


 ただ、深刻そうな顔を二人がしていたことと、皆が泣いていたことだけを覚えている。


 お兄さんが扉の左隣にあるスイッチを押すと、扉は重々しい音を立てて開いた。扉の先には棺がすっぽり埋まる空間があった。お兄さんは一礼すると、あの人を入る棺の小窓を閉じた。そして、台車に乗った棺は台車ごと扉の中に入れられ、銀色の扉はお兄さんによって閉まった。


 重苦しい音が部屋に響き渡ると、お兄さんの指示に従ってみんな目を瞑って、手を合わせた。僕はただぼうっと銀色の扉に、あの人の抱擁を投影していた。


 僕は扉の先を知らなかった。だから皆が目を開けて、沈黙がお兄さんの声によって破られた瞬間、叔母さんに尋ねた。


「どこに行くの?」


 主語のない僕の質問に、叔母さんは顔を歪めた。そして屈みこんで僕を力一杯抱きしめると、僕の背中を何度も摩ってくれた


「このお山よりもずっとずっと高い、お空に行くのよ」


「お空?」


「そう、お月様の隣でKちゃんを見守るためにね」


 叔母さんは僕の両頬を両手で挟むと、涙を零して、笑いながら僕を守ってくれた。僕は『お空の上に行くだけなのに、どうして泣く必要があるんだろう』と思った。幼い僕はあの人が帰ってくると、無邪気に信じていたんだ。


 あの人が銀色の扉に閉じ込められた後、僕たちは隣室へ入って夕飯を食べた。妙に豪華なご飯はあまり美味しくなかった。


 食事を終えると、父親と叔母さん、叔父さんと僕はお兄さんに別室へと連れていかれた。もちろん、テディベアも一緒に。


 僕は何だろうと思って父親に尋ねた。けれど、父親は眉間に皴を寄せ、涙を零すだけで何も答えてくれなかった。その代わりに叔母さんが「お別れの挨拶よ』と、ひどく沈んだ心持を無理やり明るくした震える声で耳打ちしてくれた。『何に別れを告げるんだろう?』と僕は思った。


 けれど、そんな疑問を僕はすぐに忘れた。いや、忘れさせられた。

 僕は台車の上に転がる髑髏を見た。

 灰の上に転がる骨を見た。

 綺麗な形をしたあの人の白い中身を見た。


 瞬間、僕は理解した。叔母さんの言っていた『お別れの挨拶』は、一時の別れではなく永遠の別れであると。二度とあの人が僕に暖かい抱擁をしてくれないのだと、直感的に理解した。


 理解は僕を内側からめくりあげるような悲しみを与えた。そして、悲しみは衝動となった。僕は父親と、叔父さんと、叔母さんと、お兄さんの静止を聞かずに、テディベアだけを連れて駆けだした。叔母さんが言っていたお山の上を目指して、僕は夕暮れ時の外へ走り出した。


 山道は薄暗くて、傾斜も急だった。


 明かりは空に沈みゆく夕陽だけだった。茜色の光は空と杉の森を燃やすよう、世界に満ち満ちていた。生来の怖がりなんて無かった。僕は坂道を上り切って、きっと空にも続いている山を上って、あの人に会うために必死になって澄み渡る雨上がりの坂道を走った。

 汗が服をぐしょぐしょに濡らして、息が切れて、脚がおぼつかなくなっても僕は走り続けた。ずっとずっと走り続けた。


 けれど、濡れたアスファルトは、ふらつく僕の足元を容赦なく奪った。


 僕はテディベアを抱きかかえながら転んだ。アスファルトの小石は、黒い服を、黒いズボンを貫き、皮膚を切り裂いた。


 僕はうわんうわんと泣いた。それは痛みによる涙じゃなかった。永遠の離別への慟哭だった。


 悲しみを爆発させるようにうずくまって泣き叫んでいると、夕陽は色を失っていった。空は紫色に染まり、一番星に光を与えた。薄暗い森はさらに暗くなり、僕は生来の怖がりを思い出した。あの人が慰めてくれなければ、絶対に乗り越えられないと信じ切っていた恐怖を覚えた。僕は二重の恐れの中で泣いた。泣いて、泣いて、泣きわめいた。


 泣いている最中も闇は深まっていった。僕はテディベアを力一杯抱きしめた。


 でも、恐れは消えなかった。


 恐れの中で、僕はうずくまって泣いていた。きっと、ここで誰にも見つけられないまま死んでしまうんだろうと、独りぼっちで死んでしまうんだろうとすら思った。だから、僕はテディベアに顔をうずめて「助けて」と一言呟いた。


 泣きわめいたせいで枯れた声の一言は、テディベアに吸い込まれていった。

 すると、聞こえてるはずのない声が聞こえた。『大丈夫。私がずっと見守っているから。だから、安心して』と、あの人は僕に語りかけてくれた。そして、僕の体を温もりで包み込んでくれた。僕は声に、温もりに安堵した。そして、いつもあの人の腕の中で眠っていたように眠ってしまった。


 *


 あの後、僕は駆け付けた父親に発見された。そして、『あの人の心配を無駄にする気か!』とかなんとか散々怒鳴られたような思い出がある。


 父親の言い分は正しい。あの人は最期の瞬間も僕のことを考えてくれていた。意識を失う一瞬間前に『愛している』とあの人は声にならない声で言ってくれた。だから、父親の怒りはもっともだ。


 とはいえ、僕はこうして生きている。

 きっと、あの人が願ってくれているように僕は生きて、二十を迎えた。

 あの頃の小さな僕はもう居ない。


 いま存在するのは赤いリボンのテディベアの代わりに赤いカーネーションを持って、破れた黒い服と黒いズボンの代わりに卸したばかりの喪服を纏って、生来の恐怖を独力で乗り越えた僕だ。


 僕は大人になった。

 けれど、いまだに赤を、あの人の赤の温もりを忘れられずにいる。


 でも、これはきっと不自然な感情じゃないと思う。

 だって、あの人を想う日が世界中で名づけられているんだから。


「母さん。ずっと見守ってくれてありがとう。そして、これからもよろしくね」


 少し照れ臭い言葉を吐きながら、僕は感謝を伝えるために一歩一歩、今度は転ばない様に坂道を歩んで行く。母さんが眠る霊園に行くために。

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