第4話 4日目 君の最期に賭けようと思った。
手術が始まり、俺は純恋の叔父さん、
たった0.3%の確率でも――俺は、純恋を信じると決めた。
――『私もだよ、恋輝。あっちの世界でも、絶対に忘れない』
柔らかで、でも意志のある透き通った黒の瞳で、まっすぐ俺を見て逸らさなかった純恋。
――絶対に、生きて欲しい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ガチャリ……
いつのまにか日は昇っていた。
外から鳥の声が聞こえるほど静かだった手術室の前のベンチに、ドアが開く音がやけに大きく響いた。
俺も、健二さんも、バッと顔を上げる。
こちらに向かってくるのは、白衣を着て、帽子とマスクと『
目を凝らすと……少しだけ、暗い顔だった。
「――手術、終わったよ」
終わった、ってどういうことですか?
純恋は助かったんですか?
そんな問いだって、どんどんと大きく聞こえてくる動悸のせいで、喉からつっかえて声が出てこない。
「純恋は⁉」
健二さんが、先に声を上げた。
幸奈さんは……下を向いた後、俺と叔父さんを見つめた。
「なんとか一命は取り留めたけど……予断を許さない状況です」
いつになく真剣な顔で、小さく、低く、そう言った。
予断を、許さない、状況って……。
「摘出が終わって、あとは頭を閉めれば終わりってところでやってる人がちょっとミスしちゃって……1回、心肺停止になったの」
心肺、停止――⁉
おうむ返ししかできなくなるくらい、俺の頭は混乱していた。
それでも、今、純恋は生きている。
そう思って、心を落ち着かせた。
純恋を助けてくれたことだけでも、お礼を言いたかった。
「あの……とりあえず、純恋を助けてくれて、本当にありがとうございました」
これさえも叶わない確率が、限りなく高かったのだから。
「そんなのはいいよ。すみちゃんを、全力で助けようって話してたから。あとは、すみちゃんの目が覚めるかどうかだね。体は、あと持って夜までだから」
夜、まで……。
このままだったら、ほぼ確実に、純恋は死んでしまうってこと?
「私たち医者は、すみちゃんが助かるように、全力を尽くします」
もう一度、叔母さんは、そう言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「純恋……純恋……」
病室で、俺は純恋の手を握ったまま、名前を呼ぶことしかできなかった。
酸素マスクをつけて、体中から
もしかしたら、もうこの目を開いてくれないかもしれない。
分かっていた事実に、どうしようもなく涙が出てきた。
叔父さんも、反対側の純恋の傍で手を組んでいる。
ガラッ
急に、スライド式の病室のドアが開いた。
「純恋っ⁉」
入ってきたのは……誰だ?
見覚えがない。
でも、どこかで見たことがある気がした。
「幸加さん……!」
健二さんが声を上げる。
健二さんの知り合い?
「健二さんっ! 純恋はっ⁉」
「一命は取り留めたようですが……予断を許さないようです」
「そう……」
純恋に目を落として、その次にずっと手を握っていた俺に視線を移す女性。
「あれ……あなたは?」
「あ……えっと……」
同じ学校の人間です、って言うのはやっぱり弱い。
純恋の手を強く握り、
「郁人さんの……戦友、の息子です」
「郁人……⁉」
純恋のお父さんの名前を出した瞬間、女性の目が大きく見開かれた。
「勝さんの……息子さん? っていうことは、恋輝くん⁉」
やっぱり、郁人さんのことも、俺のお父さんのことも知っているんだ。
でも、誰だ――?
「私……純恋の母の、
純恋の……お母さん⁉
確かに、優しく包み込んでくれるような瞳が、とても似ている。
「はい……つい、
「そう……」
それが、信じられなかった。
もしかしたら、もしかしたら。
この出会いは、運命だったのかもしれない。
ピッ、ピッ、ピッ……と、いつまでも鳴り続ける心電図。
酸素マスクの中から微かに聞こえる、純恋の吐息。
握っている手からの……暖かい陽だまりのような熱。
その全てが、今、俺の心を落ち着かせてくれる。
たとえ、目を覚まさなくとも。
手を、握り返してくれなくとも。
今、純恋が生きている存在証明がされているから。
「あのね……純恋の部屋に、こんなものが置いてあったの」
そう言って、幸加さんは、大きな細長い荷物を、俺に手渡した。
これは――トロンボーンだ。
そして、渡された小さな紙。
すぐに目を落とす。
『これを見たら、恋輝に渡してください。
これが、私の存在証明の一つです。 純恋より』
純恋らしい、薄くて綺麗で儚い字。
純恋の、存在証明の、一つ……。
これを俺が見る頃、きっと純恋は自分が死んでいると思っているだろう。
だとしたら、俺に何ができる――?
そこまで思って、たった一つ、思い当たった。
いや、でも。もしその間に、純恋が死んでしまったら?
俺は、最期、純恋の傍に居られないのか?
そんなのは……絶対に、嫌だ。
それでも――。
今、何もせずに、ここで純恋の手を握っていたって、きっと目は覚まさない。
俺は、もう一度、純恋の手を強く握った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――行って来ます」
今も純恋の隣に座っている健二さん、幸加さん、書類とにらめっこしている幸奈さんに向かって、まっすぐと、そう言った。
「行ってらっしゃい」
「気を付けてね」
「信じてるよ」
優しく、俺を病室から送り出してくれた。
俺が真っ先に向かったのは、海だ。
「懐かしい……」
つい、24時間前のことなのに、この景色が懐かしくなり、口から言葉が漏れる。
夕日は沈みかけていた。
俺は、もう決めたんだ。
この夕日が沈んだら、もう純恋は死んでしまうかもしれない。
でも――今、何もやらないのは、俺らしくない。
父さんがトロンボーン奏者だったから、俺も絶対音感くらいある。
昨日聴いた純恋の腕の動きと音色を、思い出すんだ――!
すぐに砂浜にケースを置き、中からトロンボーンを取り出す。
「ごめん、純恋」
一昨日、音楽室で純恋が、奥から違うトロンボーンを持ってきたのは、俺がマウスピースに口を付けることを嫌がったからだということは、重々承知している。
それでも……今、俺にはこれくらいしかできないんだ。
純恋の名残が感じられるマウスピースを、カシャッとトロンボーンにはめる。
セットが終わり、すでに群青色に染まり始めている東の空に浮かぶ月に向かって、
「お願いします」
と呟いた。
トロンボーンを持ち上げる。
一昨日より、少しトロンボーンが重く感じられた。
すっ……と息を吸う。
ボー……
最初の、ファの一音。
歌と同じ旋律を辿る。
ねぇ、純恋。
君と僕が、この世界に、この瞬間、生きていることが、紛れもない奇跡なんだ。
たった、0.3%の奇跡なんだよ。
もし、その奇跡が消えてしまった時、俺は君の傍にはいられないけれど。
この奇跡を大事にするなら、この方法しかない。
この奇跡を事実にするんだ。
この音が君に届く頃に。
君は、この世にいないかもしれない。
それでも、純恋に届くと願って、
一音一音を大切に、純恋に届くように、重く、軽く、意志を込めて吹いた。
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