第36話

 別棟を繋ぐ渡り廊下をちらと見てから、そちらへは向かわず玄関ホールへと引き返す。日が暮れるまでまだ余裕があったので、この際だからホールと会議室も覗いてみようと考えたのだ。

 玄関ホールを正面に、今度は左手側へと進む。

 有事でもなければ会議室など使う機会もないようで、扉は施錠されて室内にも人の気配は感じられない。それで会議室を覗くのを諦めて、ホールへと足を向けた時だった。

「おい、貴様」

 そう横柄に呼びかけられて、アルシスはのんびりと振り返った。

 近づく足音には気づいていたが、まさかここで釣り上げ、、、、ることになるとは、ちょっと思っていなかったのだ。

 アルシスは内心で苦笑しつつ、声をかけてきた人物をまじまじと眺めた。エリックと同じ栗毛に、緑色の瞳。中肉中背の体型だが、腹回りにだらしなさが現れていた。

 面差しは肖像画の先代領主に似ている。ただし浮かべる表情は似ても似つかず、薄ら笑いが下卑た印象を濃くしていた。

 アルシスは、ふっと笑うと、首を傾げて問いかけた。

「俺になにか用かい?」

 アルシスの飄々とした物言いをなにと思ったのか、男は不愉快げに顔を顰めて言った。

「エリックが雇った、という護衛だろう。元剣聖だと言っていたが、本当か?」

「さて、どうだろうな。案外、護衛に雇って貰うために、吹かしたのかもしれないぞ。そういうのは、よく聞く話だろ?」

「ふん、妙にふてぶてしい奴め。……まあ、いい。そういう男の方が、こちらとしては扱いやすいからな」

 そう横柄に言って、男は居丈高に顎を反らした。

「私はクリフ・ノルディン。現領主の後見人だ。すなわちエリックは私の許可なしには、領地についてなにひとつ決定を下すことができない、ということだ。であれば、あの子どもと私、どちらに付くのが正解なのか分かるだろう?」

「……それは、つまり引き抜きのお誘いかい?」

「引き抜き? 馬鹿を言え。身の回りに危険もないのに、護衛など雇っても金の無駄にしかならん。私が言いたいのは、エリックの情報をこちらに寄越せ、ということだ」

 アルシスは、おや、というふうに眉を上げた。

 エリックや使用人たちの評価が最低なクリフだが、まるきり無分別、という訳ではないらしい。

 彼の高価そうな上着を眺めながら、アルシスはのらりくらりとした態度で言った。

「話によっては、受けてやらなくもないんだが……」

「なんだ、金か? がめつい奴め。……今はこちらにも余裕はないが、万事うまく行ったあかつきには、それ相応の処遇を考えてやっても構わん」

 つまり金を支払う気はないらしい。

 ここで誘いを跳ね除けるのは簡単だが、エリックからの頼まれごともある。

 アルシスは考えて込む顔で、ざらりと顎を撫でた。

「参考までに訊きたいんだが、あんたの欲しい情報ってのは、具体的にどういうのを言うんだ?」

「弱みになるものならなんでも構わん。品行方正を装っているようだが、あれだって男だ。好きな女のひとりやふたりいてもおかしくない。あのメイドなんて、その為に側付きにしているに決まっている。あの愛想の無さは気に食わんが、細い腰と手足は悪くないからな」

 舌なめずりするように言う。

 まったく反吐が出る。呆れてものも言えない、とはこのことを言うのだろう。

 アルシスは表情を繕うのを止めると、嫌悪たっぷりの顔で言った。

「相手は子どもだぞ」

「子ども? もう十二だ。私がその歳のころには、遊ぶ相手が何人もいたものだ」

 そう自慢げな口振りだが、使用人たちの話を聞いた限り、実際のところがどうだったのかは推して知るべしである。

 それを当然のこととして、少しも悪びれずに口にできる性根なのだろう。

 このことだけでも、クリフ・ノルディンという人物の底の浅さが分かろうというものだ。

 エリックには後で詫びを入れることにして、アルシスは肩を竦めて言った。

「悪いが、他所を当たってくれ。そういうのは、俺の趣味じゃないんでね」

「――は? おい、貴様、ここまで聞いておいて逃げるつもりか?」

「逃げるだって? 馬鹿を言うなよ。勝手にべらべらと喋ったのはそっちだろ。俺は考えても良い、と言っただけだ」

 自分でも虫のいいことを言っていると思ったが、言われた方は余計にそう感じたらしい。怒りに顔を赤くして、アルシスに向かって足を踏み出した。

「ふざけるな。貴様、私を誰だと思っている。現領主の後見人で、貴族だぞ。貴様などが舐めた口を利いていい相手ではないのだからな!」

「やかましい。怒鳴らなくても聞こえてる。それと……これは親切心で言ってやるんだが、俺を脅しても意味はないぞ。そういう権力を振りかざすやり方は、俺みたいな根無し草には効果がないからな」

 煽り抜きの親切心は、だがクリフには通じなかったらしい。真っ赤な顔に青筋立てて、拳を振り上げ殴りかかってくる。

 だが直線的で威力も乏しいそれは、避ける必要すらないものだった。

 さっと足を引っ掛けただけで、クリフはべしゃりと床に転がって、そのまま立ち上がれずに呻いている。

 明らかに運動不足である。

 アルシスは呆れた溜め息を吐くと、手を差し出してクリフを立ち上がらせてやった。上着に付いた埃も払ってやって、それから同情する声で言った。

「……これで暴力も意味がない、って分かっただろ? そもそも喧嘩を売っていい相手かどうかも見定められないのに、慣れないことはするもんじゃない。大人しく部屋に引っ込んでおくんだな」

 呆然としているクリフにそう言い置いて、アルシスはその場を後にした。

 釣りが失敗に終わったことをエリックに報告して、メイドのベティと護衛の分担を話し合う。夕食の誘いを受けたがそれは断って、アルシスは早々に客室へ引っ込んだ。

 襲撃があったのは、その日の夜のことだった。

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