第29話

「え、あの、もしかして……あの、アルシス・フォードですか? 剣聖の?」

「元、だけどな。今はギルドを辞めて、しがない鍛冶師見習いだ」

 苦笑して返すと、騎士がぱっと表情を輝かせた。

 アルシスが渡した旅券を握りしめ、身を乗り出す勢いで言った。

「アルシスさん! お、お目にかかれて光栄です……! 実はウィゴット戦役で、従騎士の時分にご一緒させていただいたんです。あなたの剣技の素晴らしさは、今でも目に焼き付いています。まさか、こんなところでお会いできるとは……」

「ああ、ウィゴットか。……ずいぶんと昔の話だな。それにしても……あの戦場を生き残った従騎士と、こうして会えるとは驚きだ」

 アルシスは過去に思いを馳せながら、懐かしむというには苦さの混じる声で言った。

 ウィゴットは国北東部、隣国との国境近くにある地下遺跡の名だ。今から八年ほど前に隣国との小競り合いが起きて、それに端を発した紛争が長く続いていた。

 その紛争を終わらせたのは政治ではなく、地下遺跡から発生した獣海嘯だった。

 遺跡から溢れ出た魔物たちは、近隣の村町になだれ込むだけに飽き足らず、戦端を開いていた両陣営をも飲み込んだのだ。

 災害に等しい現象前に、戦場を維持することなど不可能だった。

 戦争には不干渉を貫く冒険者ギルドだが、獣海嘯が起こったとなれば話は別だ。

 国内から多くの冒険者が集められ、当然、アルシスも戦場に駆り出されることになった。

 多くの人々を喰らった魔物たちは、常よりも凶悪で厄介な存在と化していた。魔物たちに蹂躙された戦場は酷いありさまで、積み上げられた死者の数は計り知れないほどだった。

 あの戦場をくぐり抜けることができたのは、ひとえに運が良かったからに他ならない。

 倒しても倒しても湧いて出てくる魔物を前に、当時のアルシスは何度死を覚悟したか分からなかった。そしてアルシスが剣聖の称号を与えられたのは、そのウィゴット戦役での働きが認められたからだった。

 騎士は恭しい態度で旅券をアルシスに返すと、音を立てて踵を揃え、略式ではない敬礼を取った。

「ウィゴットの英雄に感謝を。――すぐに司令に報告いたしますので、こちらの天幕でお待ち下さい。狭いところで、大変申し訳ないのですが……」

 恐縮しきって言う騎士に、アルシスはひらりと手を振った。

「慣れてるから、気にしなくて良い。それと、あまり大事にしないでくれると助かる」

 たぶん無理だろうな、と胸中で零しながら言うと、騎士は命じられた猟犬のように姿勢を正し、それから足早に去って行った。

 アルシスはやれやれと肩を竦め、天幕の入り口を開けてからエリックを振り返った。

「ほら、少年。中に入って少し休むといい。さっきの騎士はああ言ったが、司令に連絡をつけるには時間がかかるはずだ。律儀に立って待つ必要はないぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 エリックはもの言いたげな顔をしていたが、アルシスになにを問うでもなく天幕の入り口を潜った。

 取り敢えずの待機所、という設えの天幕内は、木のベンチと小さな机があるだけの殺風景さだった。

 ぎしぎしと軋むベンチにエリックを座らせて、アルシスは入り口側に陣取る。ふと視線を感じてそちらに目をやると、エリックが困惑たっぷりといった表情でアルシスを見ていた。

 少年は躊躇うように口を開け閉めしてから、ようやくといったふうに言った。

「あの、先ほど騎士の方が話していたことですが……」

「俺が元剣聖、ってやつかい?」

 言いにくそうにしているのを察して、アルシスは先回りして口にする。

 エリックはこくりと頷くと、座ったまま小さく頭を下げた。

「いくら物を知らないとは言え、大変な失礼をいたしました。剣聖と言えば、国にふたりといない英雄です。そのような立派な方に、付き添いを頼むなんて軽率でした」

「元、と言っただろう? ……さっきも言ったが、今の俺はただの鍛冶師見習いだ。それに剣聖なんていうものは、国が勝手に寄越しただけの称号に過ぎない。そう畏まる必要もねえよ」

「ですが……」

 貴族の子息で身分を識る立場だからこそ、納得できないらしい。

 すっかり萎縮してしまった少年がちょっと気の毒で、アルシスは、だが、といたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。

「おかげで騎士団やら警備隊やらには、こうやって顔が利くことがある。便利な拾い物をした、とでも思っておけば良い。それに良い領主というものは、人の使い方も長けておく必要があるらしいぞ」

 いい勉強になったんじゃないか? とからかいを含めた声の調子で言うと、エリックは複雑そうな表情を浮かべ、それでも素直に頷いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る