第2話

「それで、引退……ですか?」

 冒険者ギルドの二階、もっぱら貴人との会合でのみ使用する応接間で、アルシスはギルド長と向き合っていた。

 ギルド長は三十絡みの、神経質そうな見た目の男だ。茶色の髪をきれいに撫で付けて、綺麗に磨かれたモノクルのレンズにには、指紋汚れひとつついていない。荒くれ者である冒険者を統率しているとは思えない細身で、仕立ての良い上着を身に着けた姿は、ひとかどの名士に見える。

 来歴の不明な人物だが、組織をまとめるその実力は折り紙付きである。そして洗練された立ち居振る舞いは上流階級に受けがよく、彼が手を入れた箇所にはそれが如実に表われていた。

 応接室は、その最たるものだろう。布張りの長椅子はいかにもな高級品で、座り心地が良いだけに、アルシスにはいささか居心地が悪い。

 落ち着きなく足を組み換えたアルシスは、手にしていたカップをソーサーに戻した。

 傍目には異変ひとつなさそうな手を、ひらりと振ってみせる。

「医者が言うには、左手首から先の神経が駄目になってるらしい。日常生活を送る分にはさして問題ないが、武器を握るにはかなりの支障が出る。ほとんど力が入らないからな。これではまともに戦えない」

 そうきっぱり言うと、ギルド長が細く溜め息を吐いた。

 モノクルから下がる鎖を指で払って言う。

「それは……報告を受けていますから承知しています。ですが、だからと言って前線を退き、剣聖の称号まで返上する必要はないでしょう。――アルシス、あなたは先日の獣海嘯でも、その称号に相応しい活躍ぶりを示したでありませんか」

「ただ小物を潰しただけだぞ? あれを活躍と言うのは、さすがに無理があるだろうよ」

 森の最深部にある地下遺跡から魔物が溢れたのは、クローベアの出現から三日後のことだった。

 溢れた魔物たちに近隣の村がひとつ飲み込まれたが、ギルドの指示で避難を終えていたおかげで、幸いにも人的被害は発生しなかった。

 獣海嘯の規模を思えば、被害は最小限に抑えられたと言っても良いだろう。

 そして魔物たちが共食いを始めた頃合いで、冒険者ギルドが後処理に駆り出された訳だが、アルシスにとって苦いばかりの討伐戦となった。

 なにせ負傷した左手が上手く動かないのだ。片手でも戦えなくはないが、戦力は格段に落ちてしまっている。体感で言えば六割減、といったところだろうか。

 今は慣れと経験で戦えても、いずれ無様を晒すことになる。そうなる前に潔く身を引くべきだろう。

 アルシスがそう述べると、ギルド長が分かりやすく肩を落とした。

「……アルシス、あなたがいなくなれば、このギルドは立ち行かなくなるでしょう。剣聖であるあなたがいるからこそ、人も依頼も集まっているのですよ」

「それは買いかぶりが過ぎるってもんだろ。名前に引き寄せられる連中がいることは否定しないが、そうやって集まった奴らだって今や立派な戦力だ。俺とは違って目端が利くのもいるし、人を率いる才があるものもいる。……俺ひとりが消えても、ギルドはびくともせんさ」

 引き留めてくれるのは嬉しいんだがな、と言ってアルシスは苦笑する。

 その言動と態度を見て、アルシスの意思を覆すことができないと分かったのだろう。ギルド長は深く溜め息を吐いてから、普段どおりの淡々とした口調で言った。

「それで――ギルドを辞めて、どうするつもりですか? 剣聖であれば引く手あまたでしょうが、称号を返上すれば話は違ってきます。負傷した元冒険者が、新たに仕事を見つけるのは難しいですよ。完全にリタイアするとしても、ギルドから年休が支給されるまで十年以上はありますし……」

「蓄えた稼ぎがあるから、つつましく暮らしていく分には問題ないだろう。時間を持て余すようならフリーで仕事を請け負っても良いし、未踏破の遺跡に潜ってみるのも良いかもしれん」

「遺跡に? まさか、冗談でしょう? 私が言われるまでもなくご存知でしょうが、非ギルド会員が回収した遺物は、買い叩かれて大した値がつきません。遺跡に潜るというなら、そもそもギルドを辞める必要もないでしょう」

「だが高ランクの冒険者には、一定数の依頼を受注する義務が発生する。元剣聖の俺に寄越されるのは、間違いなく面倒で厄介な難易度の高いものになるはずだ。それをこの手でこなすのは難しい」

 クロウベア程度ならば、左手が動かずとも討伐は可能だろう。だが竜種のいくつかや幻獣の類は、万全の態勢でなければ返り討ちに遭うだけだ。

 冒険者仲間の中には、老いや病ではなく戦いの最中に死ぬことを望む者もいる。だがアルシスはできれば平穏無事に人生を全うしたいと思っていた。家族に囲まれて、とは思っていないが、できれば人生の最期はベッドの上で迎えたい。

 だからこそ剣聖の称号を返上し、現役を退くのだ。

 ろくに戦えない剣聖など、厄介なことに巻き込まれるだけなのは目に見えている。

 実際、先だって家出娘を助けた一件では、我が家においで頂けないだろうか、と当主から思惑の透けた誘いをかけられている。どう考えても、先日のお礼にお茶でもどうぞ、といった雰囲気ではなかった。

 良くてあのおちびさんの護衛役がお目付け役、そうでなければ箔をつける為のお飾りにしたいのだろう。そんな面倒はまっぴらごめんである。

 そうした諸々を飲み込んで、アルシスは思っていたのとは別のことを口にした。

「引退した冒険者の再就職先、と言えば剣術道場が定番なんだろうが……この手じゃそれも難しいからなあ」

「元剣聖なら問題ないですよ、と言いたいところですが……今は剣術道場も増えて、街に飽和している状況ですからね。人が集まらず資金繰りに失敗して潰れた、という道場も少なくありません。あなたが貴族や名家の子息相手に、個人授業をしてもいい、と言うなら斡旋しても構わないのですが……」

「悪いが、その気持ちだけ受け取らせてくれ」

 アルシスは苦笑して言う。面倒事から逃れるための引退なのに、余計な柵に囚われては本末転倒だろう。だがギルド長は、彼にしては珍しく食い下がって言った。

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