第1話 『蛇谷村大蛇伝説考』
北陸の某県の西端のO市に、蛇谷村という村がある。
この村は、北蛇谷村・南蛇谷村の2つの村で構成されており、その両村は、矢水川によって他のO市の街や村と分断されている、O市の中でも特に一風変わった伝説と風習が今も伝わっている村なのである。全国の一部のマニアや民族学者には、昔から結構知られた村なのだ。
何しろ、この村には、かって巨大な蛇が実在したという伝説が伝わっており、現在でもそれを裏付けるかのように、『蛇舞祭り(蛇舞盆)』という奇祭が、古くから伝わっていたからである。
相川真之介は、現在28歳で、O市の総務課に勤務しており、世間でも一流といわれている東京の某私立大学法学部を卒業後、4年間近くオカルトものやUFOものの特集記事を主に扱っていた某雑誌社に勤務していた事から、総務課内の市史編纂室勤務を拝命しており、市制70周年に合わせて刊行予定の、市史編纂に係る資料集めに没頭している毎日であった。
実は、この市史編纂室勤務は、相川自身が自ら希望した部署でもあった。
相川は、東京の雑誌社に勤務していた時、日本の各地の伝承、例えば河童やツチノコ等のUMA(未確認生物)の特集記事を任された時、自らの血が騒ぐのを押さえきれなかった。
相川は、小さい時からネス湖のネッシー等のUMAの存在を堅く信じていたからである。
しかし、自らの力を発揮する間も無く、各地に伝わるUMAの特集記事の執筆に取り組んでいる最中に、自分の勤務していた雑誌社自体がその内容のあまりの奇抜さ故に、あえなく倒産してしまったのだった。
困ってしまった相川は、郷里のO市で職員採用をしているのを知って、急遽、帰郷し、採用試験を受けた次第。
実は、郷里に帰る決心をしたのには、他にも事情があった。
まだ勤務していた雑誌社が倒産する前、特集記事の参考にと図書館巡りをしていた時に、国立国会図書館で、自分の出身市であるO市の蛇谷村に古くから伝わる「大蛇伝説」を徹底的に検証解説した『蛇谷村大蛇伝説考』を執筆した著者が、郷里のO市近くの、T市で精神神経科の病院を開設している事を知ったからでもある。
その本は、実際に蛇谷村にその著者自身が出向き、踏査調査した結果、数々の状況証拠から蛇谷村の大蛇は確かに存在したのだと断言した、驚くべき内容のものであったのだ。
相川は、その内容に大ショックを受けた。
勤務先の雑誌社の取材費を使い込み、独自で、蛇谷村の大蛇伝説の研究を行っていのである。まあ、ある意味、こんな放漫経営をしていた事が、出版社の倒産の一因となったと言えない事もない程であったのだが……。
ともかく郷里に帰ってこの先生に会い、蛇谷村の大蛇伝説の裏話を直接聞き、自分でもこの大蛇伝説等の話を元に、日本のUMA関連の本を出版してみたい。そんな、野望も密かに持っていた。
さて、相川が、市史編纂のためにと、文献やその他から古里の伝承探しに没頭していたある日、つまり西暦202×年の5月3日のゴールデンウイーク中に、驚愕の事件が勃発したのである。
それは、日本国民の想像を絶する、まさに前代未聞の、残虐事件であった。
その事件とは、富山県と石川県の県境近くにある石川県の某森林公園のキャンプ地の外れで、3組のアベックが幼児の惨殺死体を発見した事に端を発するのだが、それはまた、日本のあらゆる犯罪史上の中でも最も残虐な部類に入る殺害事件でもあったからである。
最初、地元の警察署では、残された幼児の死体のあまりの惨さに、野犬や熊による襲撃事件ではないか?と錯覚した程である。
何しろ、その幼児の死体の惨たらしさと言ったら、とてもとても言語にできるようなものではなかったからだ。
それでも敢えてその現場を語彙少ない言葉で再現してみれば、幼児の死体は、パンツだけ履いたほぼ全裸状態で、幼児の頭部は無惨にも叩き割られ、頭蓋骨の中からあふれ出た脳髄が、半分以上舐め尽くされ喰われていたのだ。
また、全身には、大きな牙による咬み傷、それも、大蛇にでもかまれたような2本の牙による咬傷跡が、5箇所程あったのである。
これでは、地元警察署が当初、野犬等による襲撃事件ではないかと考えたのも無理はなかった。いくら犯罪とはいえ、正常な人間のできる行為のようには思われなかったからだ。
ただ、現場に駆けつけた石川県警本部の百戦錬磨の一人の刑事の一言により、これは人間による殺人事件である、即座に断定されたのである。
その最大の理由となったのは、幼児の最大の死因が、最初に石で頭を叩き割られていた事からで、事実、付近に殺害に使用されたと思われる血痕のついた大きな石が転がっていた事もあり、こればっかりは、野犬や野鳥では不可能だっただからだ。
警察は、直ちに幼児の身元の確認に全力を挙げ、また、第一発見者でもある3組のアベックの身元も調査されたが、この3組のアベックは共に愛知県の大学生で、前日は、間違いなく愛知県のアパートにいた事が証明された。
アパート付近のホームセンターでキャンピング用品の購入をしていた事実も確認された事から、死亡後ほぼ一日以上経過していたと想定される死体の状況からみても100%犯人でない事は明白であった。
このような事件の残虐性だけでも、全国的なニュースになるのは当然と言えば当然なのだが、しかし、この事件が、全日本中で一大論争をもたらしたのには、それのみならず、更に、二つの後日談があったのである。
というのも、アベックの内の一人の男の大学生が、無惨に転がっていた幼児の死体写真を、そのキャンプ場に持参していた超高性能デジカメで数十枚を激写。
そのメモリーチップ(ミニSDカード)をこっそりと自分のズックの中に隠し通し、警察には提出せず、そのまま愛知県へ持ち帰っていたのである。
そのデジカメは販売価格だけで実売価格20万円以上する市販されているデジカメでは日本でも最高級クラスのカメラであり、画素数も多く非常に鮮明なものであったのだ。
この大学生が、このメモリーチップを警察に提出しなっかったのにはある理由があった。
彼の兄は、東京の出版社の某写真週刊誌の編集部に勤務しており、最近、売り上げが激減している事から、スクープ写真の必要性を、常々、実の弟である当該大学生に、電話等で訴えていたからだ。
そこで、この大学生は、少しでも兄のためになればと、常々、スクープ写真を撮るべく
そのデジカメを持ち歩く習慣となっていたのだ。
ともかく、普通の人間なら見ただけで卒倒するほどの悲惨な幼児殺害現場写真は、こうやって撮られ、そして当該メモリーチップは、即、パソコンに取り込まれメールに添付されて東京の出版社に送られたのである。
石川県警の動きは早かった。幼児の死体が、石川・富山の両県の境で発見された事から、富山県警と連携を取り合い、事件が発見された前日から失踪届けが出ていた富山県O市の北蛇谷村に在住する一家の子供と断定され、直ちに、両親による死体の確認行為が行われた。
しかしながら、幼児の顔面は石で殴られたたせいで両眼球は飛び出しており、そのあまりに無惨な姿のため、母親には検視させる事ができなかった。
そこで父親のみでの確認となったものの、やはりそのあまりの惨い状態のため、父親も最初、実の我が子と対面した時に思わず、気絶しかけたほどである。
それでも何とか気を取り直して、幼児の死体を確認、自分の子であるとの面影は確認する事ができた。
ただ、幼児の着ていたパンツに縫いつけられていた子供の名前等により、被害者は間違いなくその両親の子供と断定された。まだ、5歳の男の子で、近くの公園で一人遊んでいた時に誘拐されたのではないかと推測されたのである。
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