第35話 天使の誘惑

「────何を考えているのかわからないわね」


 保健室から出ると、天塚が待ち伏せていた。


 変な噂を立てられないようにするため、赤牙とは別々で教室へ戻ることにしたのだが、先に出て行った赤牙と遭遇していない様子であるところを見ると、どうやら俺を狙って待ち伏せていたらしい。


「せっかく吸血鬼から解放されるチャンスだったのよ? どうしてそれでも吸血鬼の餌であろうとし続けるのかしら」

「餌ってお前……嫌味な言い方するなぁ」

「だってそうじゃない。あなたは吸血鬼の食料にされているのよ? それがわかっているの?」

「わかってるよ。でも、あいつを放っておく気になれないんだ。仕方ないだろ」


 俺は平穏に暮らしたい。毎日のようにいざこざが起きる生活は嫌だ。その気持ちに偽りはないはずだ。だが、赤牙が俺の手の届かないところへ行ってしまうのは嫌だと思う気持ちもまた本物だ。


 率直に言ってしまえば、俺は彼女に執着しているんだ。一緒に居た時間は最悪のものだったはずなのに、何故か離れたくないと思ってしまっている。


「その気持ちが作られたものだとしたらどうする?」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味よ。彼女は人間を魅了し、意のままに操る力を持つ。あなたの感情を操って、自分に好意を向けさせることも可能なのよ? あなたは自分の気持ちが本当に本物だと確信を持てるの?」

「……まあ、妙だと思うことはいくつかあるよ。多分、何かされてるのは間違いないんだと思う」

「だったら……」


 天塚が何か言おうとするのを手で制し、首を横に振る。


「ぼんやりだけど憶えてるんだ。多分俺と赤牙は昔出会っている。それがきっと俺にとっていい思い出だったから、この選択をしたんだろう。あいつにとっては忘れさせたいような記憶だったみたいだけどな」


 あいつがあんな弱気な顔をするくらいだ。よほどの記憶だったに違いない。


「そんなもんがあるとわかったら、気になるに決まってるだろ? だからあいつと別れるわけにはいかないんだ」

「……あくまで消された記憶を取り戻すためだと言い張るわけね」

「どう捉えてもらっても構わないよ。これは俺の偽りない本心だ」

「……納得できないわね。理解に苦しむわ」


 天塚は不機嫌そうな顔をして唸っている。


 そりゃそうだ。俺だってなんであんなことを言ったのか、本当のところはよくわかっていないんだ。それを人間ですらないお前に理解できるわけがない。


「それより、お前こそどうなんだよ。なんで吸血鬼と休戦協定なんか結んだ?」

「あなたのせいよ」

「……俺?」

「そうよ。あなたのせいでタイミングを逃したのよ」


 天塚は恨みの籠った視線を俺にぶつけてくる。


「私としたことが迂闊だったわ。あなたには直前に天使の力を流し込んだばかりだったものね。そのせいで時間停止が効かなかった。おかげで吸血鬼を仕留めるチャンスを失ったわ」


 あれはそういう理屈だったのか。てっきり俺にも何か隠された才能とか、定められた運命とか、由緒正しい血統とか、そういう少年マンガ的な展開があるのかと思っちゃったじゃないか。

 俺も男の子なので、平穏を愛するとか気取ったことは言いつつも、そういう妄想は嫌いじゃない。ただ、本気でそう思っていただけに自分一人で舞い上がっていたみたいでちょっと恥ずかしい。


「でも、俺はすぐ気を失ったんだし、その後で決着をつければよかったじゃないか」

「言ったでしょう。私たち天使は、人間を傷付けるわけにはいかないの。あなたが彼女を庇うように飛び出してきたせいで、こっちは手が出せなかったのよ」

「赤牙は俺を盾にして交渉したってことか?」

「……それだったらまだ面目も立つのだけど」


 何かを思い出したように、天塚は露骨に苛立ち始めた。


 俺の乱入で計画が狂ったことは事実なのだろうが、直接の敗因はそこではないというところか。きっと赤牙の自己申告通り、二人にはかなりの実力差があったんだろうな。


「まあ、仕方ないだろ。赤牙って吸血鬼の中でも最強らしいし」

「そのようね……あんな強い吸血鬼は初めて見たわ。くぅ……神の力を二つも借りておきながら敗北するなんて……」

「……で、これからどうするんだ? 隙を見て暗殺でもするのか?」

「まさか、そんなことしないわよ。彼女には無暗に人を襲わないことを条件にしばらくの間様子を見ると約束したのよ。天使が約束を違えるわけにはいかないでしょう」


 やはりこいつは真面目だな。天使が皆そうなのか、それともこいつがこういう性格なのかは知らないが、もう少し卑怯にならないと吸血鬼の相手は苦労するんじゃないかと思う。


「それよりも、今気になっているのはあなたよ」

「……俺?」

「吸血鬼に心酔しているわけでもないくせに、吸血鬼の味方をする人間なんて初めて見たわ。今後の吸血鬼狩りを円滑に進めるために、あなたという人間の生態を詳しく知っておく必要がありそうね」

「えぇ……?」


 確かにちょっと特殊な選択をした自覚はあるが、そんな珍獣みたいな扱いするほどじゃないだろ。


「どう? やっぱり私と付き合わない? あなたのことを間近で観察させてほしいのよ」


 天塚は怖いくらいに曇りなき眼で俺を見つめ、ハッキリとした口調で言う。


「またそれか……嫌だって言ってるだろ。お前がどれだけ美少女だろうが、天使となんか付き合えるか」

「吸血鬼とは付き合ってるのに?」

「あ、あれは……形式上の話だ。血を吸うのにはそれが都合がいいってだけで」

「だったら私も同じよ。あなたを観察するのに、付き合っていることにした方が都合がいいわ。常に一緒に行動していても不審に思われないもの」


 常に一緒に行動するつもりなのかよ。勘弁してくれ。


「それに、私はそんな形式上の付き合いなんかにさせないわ。付き合うなら付き合うで恋人らしいこともちゃんとやるわよ」

「恋人らしいことって、例えば?」

「それは……その……」


 天塚は途端に口ごもり、顔を両手で覆う。


「あなたの要望なら……何でも……。迷惑をかける分のお礼くらいはするわ……」


 指の隙間から覗きつつ、細々とした声で言う。


 振る舞い自体は可愛らしいが、それで落ちるほど俺もチョロい男ではない。そもそも俺は恋愛に興味なんかないんだ。


 ……そう言えば、俺はいつからそんなことを思うようになったんだろう。あれだけ人との繋がりに執着していたのに、恋愛だけは遠ざけるなんて。

 昔は普通に恋愛にも興味があったはずなんだけどな……十歳くらいの時には好きな女の子とかもいたような気が……アレ、誰だったっけ?


「……ちょっと、無視しないでもらえる? こっちも恥ずかしいんだけど」


 遥か過去の朧げな記憶を漁っていた意識を引き戻し、正面を見ると肩を小さく震わせながら俺を睨む天塚の姿があった。


「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」

「考え事⁉ 上級天使である私がこんなに体を張っているのに……⁉」

「そもそも、俺がここで了承したらまた天使と吸血鬼の戦争が始まるんじゃないのか? 休戦協定はどうなる?」

「……なかなか痛いところを突くわね。流石人間、ズル賢いわ」


 酷い言い草だな。傷ついたぞ。お前は人間のことを守るのが役目なんじゃなかったのか。


「仕方ないわね。無理やり強奪すると角が立つわ。ゆっくり時間をかけて、あなたの方から私に惚れるよう仕向けることにしましょう」

「……諦めるという選択肢は?」

「ない。吸血鬼を根絶するために必要なことはなんだってするわ。あなたもこのまま吸血鬼の味方をするつもりなら覚悟しておくことね」


 天塚はそんな捨て台詞を残し、背を向けて立ち去った。


「俺、平にどんな顔して協力すればいいんだよ……」


 数少ない友人にとんでもない隠し事ができてしまった。殺されたくなければ、何か上手い言い訳を考えておく必要がありそうだな。

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