第33話 吸血衝動

 昔の私は今よりずっと臆病で、平和主義者だった。人間の血を吸わなければ生きていけないくせに、人間を傷付けるのが怖くて森の奥で暮らしていたくらいだ。


 森に棲む動物の血で代用することで、しばらくの間はなんとかなった。けれどそれにも限界がある。

 日に日に自分の中の狂暴性を抑えられなくなっているのを感じていた。吸血鬼としての本能が、人間を殺せと囁いている。その衝動を堪えようとするたびに、力余って森の動物を殺してしまった。


 だから森に私と同い年くらいの人間が踏み込んできた時は驚いた。それほど山奥というわけでもなかったので、子どもが入って来ること自体は不思議じゃない。

 どちらかといえば、人間から離れようとしておきながらあんな街に近い場所に住処を構えていた自分の行動がおかしい。


 きっとそれこそが私の吸血鬼としての本能だったのだろう。理性では人を傷付けたくないと思っていても、吸血衝動には抗えない。知らず知らずの内に、私は子どもでも簡単に入り込めるような場所を選んで寝床にしていたんだ。


 仕方がないので、私は牙を見せて彼を脅かすことにした。そうでなければ、うっかり彼を噛み殺してしまいそうだったからだ。

 しかし、彼は逃げなかった。それどころか、私に血を差し出すと言ってきた。私が吸血鬼の中で異端であるように、彼もまた人間の中で変わり者なのだろうと思った。


 でも、結果としてはそれでよかった。もし彼がその時、悲鳴を上げて逃げ出したりなんてしていたら、それこそ私は本能を抑えきれなかったと思う。

 どうにかこうにか理性をフル稼働させて、彼の腕に極力優しく噛みついた。ほんの少しだけ彼の血を飲むと、暴発しかかっていた赤い衝動が引いていくのを感じた。


 人間の血の味はやはり格別だった。けれど私は美味しくないと言った。それが本能に対して私ができるせめてもの抵抗だった。


 それからも彼は毎日のように私のところへ来た。


 彼は私を恐れず、吸血しても激しく暴れたりはしない。なので力加減を調整して安全に少しずつ血を飲むことができた。

 彼の存在は人間との共生を目指す私にとって、希望そのものだった。吸血鬼の存在に理解を示し、少量の血を提供してくれる人間さえいれば、私は人間を傷付けることなく過ごすことができる。彼がそれを証明してくれていたのだ。


 それだけじゃない。いつしか私は吸血の有無に関係なく、彼と一緒に過ごしたいと思うようになっていた。

 子ども二人、森の中で何をしていたわけでもない。ただダラダラと時間を潰していただけなのに、それがとても心地よかった。吸血衝動と格闘し、一人で悶え苦しんでいた時と比べたら、まさしく至福の一時であったと言ってもいい。


 けれど、そんな時間も長くは続かなかった。


 その日は大雨だった。木々が激しく揺れ、山の斜面が滑り落ちるように崩れた。こんな日に人間が、ましてや非力な子どもが出歩くはずがない。

 それでもなぜか嫌な予感があった。彼はここに来ている。そう確信して、私は雨降る森の中を歩き回った。


「────ッ‼」


 そして見つけた。足場が崩れ、風に煽られ、崖からその身を投げ出す瞬間の彼の姿を、数百メートルは離れた場所から吸血鬼の視力で捉えた。


 僅か数秒後には、彼は地面に激突するだろう。躊躇っている暇などなかった。ずっと隠してきた翼を広げ、強く地面を蹴って飛んだ。


 吹き付ける風よりも速く飛び、彼の体が重力によって打ち付けられる寸前で助け出した。


「大丈夫⁉ 怪我は────」


 抱きかかえた彼の体に視線を落とすと、腹部から大量の血が流れ出ているのが見えた。


「なっ……⁉」


 さっき見た時は、こんな大怪我なんて負っていなかった。地面にぶつかったわけでも、木の枝に引っかけたわけでもないのに、なぜこんなにも出血しているのか。


 気絶した彼を地面に下ろし、自分の体を見返してみた時に気づいた。


 両手にべったりと彼の血が付いている。彼に重傷を負わせたのは私自身だ。彼を救出しようとするあまり、力加減を間違えてしまったのだ。


「……そっか。そうだよね。やっぱり……こうなるんだよね」


 薄々わかっていたことだ。私には吸血鬼として生きるしか道はない。騙し騙し人間と共生したところで、いつかはボロが出ることになる。

 私は血を吸う鬼として、人間を支配して生きていくしかない。傷付けず、仲良く暮らすだなんて有り得ないんだ。


「……ごめん。私が間違ってた。君をこんな目に遭わせて……」


 私はすぐに彼の傷口の血を舐め取り、唾液で治療を行った。彼の傷が塞がっていくのと同時に、私の中に大量の血が流れ込んでくる。


「……………………う、うう、ううううううう、ううううあああああああ‼」


 体の震えが止まらない。今までどうにか抑え込んでいた本能が決壊していくのを感じる。


「ん……? アレ? ここは……?」


 傷が完治し、彼が目を覚ます。むくりと起き上がった彼を見て、衝動を抑え込む理性も限界に近づいていた。


「もう、駄目だ。君は、二度と、私の前に現れちゃ……‼」


 私は彼の両肩を掴み、赤い目を見開いた。


 人間の血をたっぷり飲んだばかりの私なら、吸血鬼の力を存分に発揮できる。私の瞳が彼の瞳と合わさり、魅了チャームが発動した。


「ここで、あったことは全て、忘れて。私のことも、吸血鬼のことも、何もかも」


 彼は返事をしなかったが、とろんとした目で立ち上がり、覚束ない足取りで帰路に着いた。本当は安全な場所まで送ってあげたかったけど、私の方も限界だった。


 近くの水溜まりに覆い被さるようにして、水面に映る自分を見る。


 吸血鬼は鏡に映らないという話があるが、アレは嘘だ。魅了の力を鏡で跳ね返されないようにするために先祖が流したデマでしかない。


 吹き込む雨風で水面が激しく揺れる中、朧げな鏡像の瞳を見つめ、私は自分自身に暗示をかけた。


 人を傷付けたくないという想いを捨てて、躊躇いなく人間を利用できるようになること。その残酷な行いに抵抗を覚えないよう、自分の意識を改ざんした。


 そして自分が吸血鬼であることに対する嫌悪感を抹消した。普通の人間になりたいと思ったことは数えきれないほどあったが、二度とそんな世迷言を言わないよう自分に言い聞かせた。


 最後に、彼のことを、ここで過ごしたひと夏の思い出を忘れること。叶わぬ希望を持たないように、無用な記憶には蓋をした。


 こうして私は森から出て、夜に紛れて人間を襲う吸血鬼になった。


 ────けれどなぜだろうか。私は人間を殺さず、自分から血を差し出すよう仕向けることに拘ったり、学校に通って人間と一緒に過ごしたりしていた。

 私は結局、自分を魅了し切れていなかったんだ。だから自分でも気づかない内に彼と再会することを望んでいた。


 私にとっての希望であり、他の人間とは違う特別な存在。


 彼の名前は風見恵太。そうであったことを、たった今思い出した。

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