第24話 修羅場
全身を流れる血が凍り付いた。心臓は完全に動きを止め、脳も芯から冷えて固まっていく。対して指先は震え、膝はガクガクと大笑いを始める。
ただ一睨みされただけでその有様だった。失禁しなかったのが奇跡的と言えるほどだ。
「上級天使は人の姿をしていて、下級天使よりも気配を探り辛い。だから目視して初めて、それが天使であると認識できる。逆に言えば目視さえすれば大抵わかるから、教室に入って来た瞬間には、彼女が天使であることはすぐわかったよ」
声音はいつも通りだ。特に怒っている気配は感じられない。しかし放っている威圧感は明らかに普段とは一線を画している。
「だから一度隠れることにしたんだ。多分向こうは見ただけじゃ私の正体には気づけないと思うけど、一応様子を見たくてさ。私も君の血を安全に吸える今の環境を大事にしたいんだよ。君にストレスをかけず、私に惚れるように仕向けるためにはこの生活を維持していくのがベストだと思ってるからさ」
滑らかに着地した赤牙は、ゆったりとした足取りで俺の周りを歩き、背後から肩に手を置く。
「けど、君はそう思ってないのかな? 私から天使に鞍替えするつもり?」
「い、いや……そんなわけ……」
小刻みに震える唇で必死に弁明する。
「私のこと好きじゃないの? 他の女の方が気になる? 吸血鬼より天使の方が可愛いと思ってるんだ?」
ものすごく正直に答えるならば、どっちも怖い。二人とも俺より細い腕で、数百倍どころじゃないほどの怪力なんだぞ。怖くないわけないだろ。
「私たち、付き合ってるよね? なんで付き合ってるか忘れた? 君が他の女とくっつかないようにするためだよ? なのになんでよりにもよって天使とイチャイチャしてるわけ?」
「イチャイチャしてるわけではなく……その……急にキスされただけで……」
「ほう、急に? 天使が? 人間に? 意味もなく急に?」
「
「……へぇ」
赤牙は少し間を置き、低く呟く。
「なるほど、味覚への介入……か」
「……味覚?」
「人間が唯一吸血鬼より優れているものだよ。血しか飲まない私たちより、雑食の人間の方が味覚が発達してるんだ」
「へ、へぇ……」
前に赤牙が作った料理を食べた時は酷かったな。味覚が発達していないというのにも説得力がある。
「吸血鬼に魅了された人間を助け出す方法はいくつかある。その一つが、強い刺激を与えて自我を呼び覚ます方法。この場合、視覚、聴覚、嗅覚、触覚では吸血鬼の支配を上回れない場合が多いんだよ。最も確実なのは、味覚に刺激を与えること。薬なんかを飲ませるのが一般的だと思うけど、上級天使が直接舌に触れるなんて、それこそ最上級の対処法だね。そこまでされたら流石の私でも魅了を維持できないと思う」
あの突然のキスにはそんな意味があったのか。随分と破廉恥な解除方法だとは思ったけど、実際にかなり特殊なやり方ではあったんだな。
「だから風見君が私に魅了されていると勘違いしたなら、いきなりキスをしてくるのも有り得ない話ではないね」
「じゃ、じゃあ……!」
「ただし! それは許すかどうかとは別問題だよ」
赤牙は俺を校舎の壁際まで追い込み、顔の横に右手をつく。
「気に食わないんだよね」
「……な、なにが?」
「君の態度だよ。急にされただけとか言ってるけど、なんだかんだ満更でもなかったんじゃないの? 上級天使は人間にとって最も理想的な姿になると言われてるし」
「ま、まさかそんな……俺だって突然のことで……」
「そうかなぁ。じゃあ私の目を見て言ってよ。『天使なんか興味ない。赤牙茜だけを愛してる』ってさ」
そんな恥ずかしいセリフを目を見ながら言えと⁉ なんだそれは。拷問か⁉ 拷問なのか⁉
「ちょっと……それは……勘弁してほしいというか……」
「ふぅん、言えないんだぁ」
「お前以外に誰とも付き合うつもりはないってことは断言するから……というか本当はお前とも付き合うつもりは……」
「付き合うつもりは?」
「い、いえ、何でもないです」
血のように真っ赤な目で迫られては、もう何も言えない。
「仕方ないなぁ。やっぱり多少は強引な手段に出た方がいいのかな」
赤牙は左手も俺の顔の横に突き付ける。
「私ともキスしよっか。それも天使より長く、濃いやつを」
「……な、なんで?」
「恋人同士なら、キスくらいするでしょ? 君にストレスを与えないようにじっくり待つつもりだったけど、悠長に構えてたら他の女に盗られるから。人間同士の恋愛でも、時にはこうやって強引に迫ることもあるんじゃない? だったらこれもセーフかなって」
「お前の場合、強引の意味がまた変わってくるんだよ。この腕だって、もう少し力を込めるだけで校舎を吹き飛ばせるんだろ?」
「いいじゃん、それはそれでさ。誰よりも力強く君を抱きしめてあげられるよ?」
その時は背骨も内臓も何もかも木端微塵だけどな。
「さあ、早く」
赤牙は目を閉じ、いつでも受け入れられる態勢を整える。
仕方ないな。キスをすれば満足すると言うのなら、ここは大人しくしておく以外にないだろう。別に命の危険を冒してまで、キスをしたくない理由はない。
俺は観念して目を閉じ、ゆっくりと唇を近づけた。
「────お取込み中のところ申し訳ないのだけど」
唇同士が触れ合う寸前、形だけでも熱々だった現場に冷めた声が投げ込まれる。
「まだ話は終わっていないわよ。風見恵太君」
そこには神々しい金髪をなびかせた天塚リエが、酷く不愉快そうな顔をして立っていた。
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