第22話 天使の救済
俺は逃げた。脱兎のごとく駆け出した。
教室には何十人という生徒が集まっていたし、廊下に溢れ出ている人も含めれば全校の三割くらいはいたかもしれない。それら全員の視線が一挙に集まるのは軽く恐怖だ。
だから反射的に体が動いた。
平和ボケしていたかつての俺ならあそこで呆然とするばかりだったのだろうが、吸血鬼や魔法少女との修羅場を潜り抜けてきた俺は一味違う。
数秒後、俺はここにいる生徒たちにもみくちゃにされるであろうことは容易に想像できた。先んじてそれを回避し、人気のない方向へと走り続けた俺は、やがて校舎の屋上へと辿り着いた。
「ふぅ……ここまで来ればいいだろ」
屋上は立ち入り禁止だが、扉につけられた南京錠が壊れているため、簡単に入ることができる。このことは一部の生徒しか知らないので、ここに大勢で押しかけてくるようなことはないだろう。
ここでしばらく息を潜め、一時間目をサボってしまおう。二時間目が始まる頃に教室へ戻れば、ほとぼりもある程度冷めているはずだ。
「それにしても、なんであいつは俺のことを知ってたんだ……?」
言うまでもないことだが、頭上に輪のある知り合いなんて俺にはいない。しかし名前を知られていた以上、人違いをしているということもあるまい。
「名前を知られる機会なんかないと思うんだけどな。有名人じゃあるまいし」
俺の名前が赤の他人に知られる機会なんてどれだけあるだろうか。交友関係は狭いので、人づてに知られる可能性は低そうだ。SNSはアカウントこそ持っているが実名ではないしほとんど稼働させてすらいない。
なんにせよ、これはマズい状況だ。姿を消した赤牙の行方も気になるし、極力天塚とは接触しないようにしなくては。
「────そこにいたのね」
誰もいないはずの屋上に、透き通る声が響き渡る。慌てて辺りを見回すも、そこにはやはり誰の姿もない。
「上よ」
バサッという音と共に、屋上に大きな影が落ちる。見上げれば、そこには純白の翼を左右に広げた天塚リエがいた。
「……やっぱりそうか」
頭の輪っかに、白い翼。これでもう確定的であると言っていいだろう。俺の目の前で宙に浮く彼女の姿はまさしく、イメージ通りの天使そのものだった。
「あまり驚かないのね。人型の天使を見るのは初めてでしょう?」
天塚は綿のようにふわりと屋上に降り立ち、その巨大な翼を折りたたむ。
「なんでそこまで知られてるんだよ……」
「人間が天使を欺けるとでも思ったの? あなたが吸血鬼と行動を共にし、下級天使を破壊したことは既に把握しているわ」
「……っ⁉」
赤牙の正体を初めて知り、彼女の家に招かれた帰り道。夜空を飛行していた最中に、俺たちは奇妙な球体型の何かに攻撃を受けた。
アレこそが天塚の言う下級天使だろう。赤牙も似たようなことを言っていた気がする。
「下級天使が破壊されたことを確認した我々は、この街に吸血鬼が潜んでいると仮定して調査することにしたわ。すると、同じ日に奇妙な交通事故が発生していることに気づいたの」
俺に吸血鬼の脅威を知らしめるため、赤牙がトラックにわざとぶつかったあの事故のことか。
あの一件は学校のすぐ近くで起きたということもあって、校内でもそこそこ噂になっており、様々な憶測が飛び交っている。流石に吸血鬼の存在をピタリと言い当てている噂は、俺の知る限り存在しないが。
「道路の真ん中でトラックが突然大破した事故。しかし一体何にぶつかったのかは定かではなく、運転手は事故そのものが記憶にないと答えている」
運転手は衝突の直前に赤牙によって助け出され、その後
「……ん? 答えているって、運転手に直接話を聞いたのか?」
「二日前にね。吸血鬼のくせに丁寧に証拠を隠滅していたから、特定するのに少し手間取ったけれど。それでも、わざわざ話を聞きに行った甲斐はあったわ」
「……なんでだよ。記憶になかったんじゃないのか?」
「ええ、吸血鬼の記憶はね」
天塚が放つプレッシャーに当てられ、背筋に冷たい汗が流れる。
「運転手は記憶が途切れる直前、男子高校生が道路に飛び出してきたということだけはハッキリ憶えていたのよ。だからこの学校に、吸血鬼と行動を共にしている人間がいると特定できた。そしてそれがあなたであると突き止めたわ」
あ、赤牙の奴……俺に関する記憶は消さずに残しやがったのか。なんでだよ。ついでに消してくれてもいいじゃないか。雑な仕事しやがってあいつ……!
「大丈夫、安心して。きっと吸血鬼に魅了されてしまったのでしょう。上級天使である私なら、それを解除できるわ。ちゃんと私が吸血鬼を始末してあげる」
「え、ああ、いや……」
そうか、彼女からすれば俺は吸血鬼に操られて付き従っている哀れな人間としか映らないのか。共犯者扱いされなかったのはある意味幸運と言えるのかな。
「言っておくけど、抵抗しても無駄よ。人間が天使に敵うわけもないんだから」
「それは薄々わかってます」
最近は人間より遥かに強い奴と出会う機会が多いからな。彼女が人間ではないと悟った時点で、抵抗する気など皆無だ。
「目を閉じて、そのままジッとしていなさい」
俺は魅了などされていないので無駄なのだが、一応指示には従っておくか。
瞼を下ろし、視界を暗転させる。天塚の気配が近づいて来るのを肌で感じる。
(……まさか、いきなりビンタされたりしないよな? 大丈夫だよな? なんかちょっと不安になってきたんだけど。少しだけなら目を開けてもいいかな?)
そんな不安に駆られていると、両頬に手を添えられたのがわかった。
(な、なんだ……まさか頭突きか⁉ 天使がそんなことするのか⁉)
どうにも落ち着かなかったので、僅かに瞼を持ち上げて、細目で前を確認する。
すると、目の前には天塚の整った顔が迫っていた。
「えっ」
そして彼女はそのまま直前で止まることもなく、俺に口づけをした。唇と唇を触れ合わせ、歯の隙間から舌まで差し込んできた。
「ぐふっ」
とっさに離れようとするが、とてつもない力で両頬を固定されているため、このまま引き下がると首がすっぽ抜ける。俺にはどうすることもできず、ただ天塚の接吻を受け入れるしかなかった。
「────ああああああああああああああああああああああああああああっ‼」
鬱陶しいほど甘ったるいその時間に、割り込む怒鳴り声があった。
「風見……! 君って奴は……うらやましい‼」
そこにいたのは平だ。そういえば、屋上へ続く扉の鍵が壊れていることは、こいつと一緒に発見したんだった。
「マジで! マジでふざけんなよ! 僕が狙ってたのに……というか、君には赤牙さんがいるじゃないか! これは浮気だ! 赤牙さんに言いつけてやる! そして僕が赤牙さんと付き合うんだーい!」
怒っているんだか喜んでいるんだかよくわからないハイテンションで、平は屋上から走り去っていった。
(……マズい。超マズい)
命に関わる緊急事態だというのに、俺は濃厚なキスを仕掛けてくる天塚を振りほどけないまま硬直するしかなかった。
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