第10話 吸血鬼と補習

 宿題やるの忘れた。


 吸血鬼に血を吸われ、家に帰って妹に問い詰められ、逃げるように自室へ入った後にすぐ寝てしまったので、宿題をする暇がなかった。

 どちらにせよ、宿題に集中できる精神状態ではなかったので仕方ない。というわけで俺は今、補習の真っ最中だった。


「────ねえ、この問題よくわからないんだけど?」


 そして隣には、例の吸血鬼が当たり前のように座っている。


「なあ、なんでお前がいるんだよ」

「なんでって、私も宿題やってないからだけど」


 放課後の空き教室。机を並べて美少女と二人きり。青春の一ページを彩るには充分すぎるワンシーンだろう。ただ、残念ながら彼女はただの美少女ではなく、人類を滅ぼす吸血鬼だ。


「それよりなんか顔色悪くない? 寝不足?」

「当たり前だろ。昨日あんなことがあったんだぞ。それでスヤスヤ寝てられるか」

「えぇ~? ちゃんと睡眠取ってよって言ったじゃん。血が不味くなっちゃうよ」

「そんなもん知らねぇよ! 寝れないもんは寝れないの!」

「うぅむ、それは問題だなぁ」


 こいつは自分が睡眠不足の元凶だってちゃんと理解しているんだろうか。天使のせいじゃないぞ。お前のせいだぞ。


「そうだ。私が寝かしつけてあげようか? 毎晩君の家に行ってさ」

「いや、だからお前がいると余計に……」

「首の後ろすとーんとやって眠らせてあげるよ」

「それ二度と起きねぇぞ?」


 首の後ろに当て身を食らわせて気絶するのは漫画の中の話だけで、現実ではそう上手くいかないというのはよく聞く話だ。

 しかし、赤牙の場合は難なく一撃で意識を刈り取って見せるだろう。ついでに頭部丸ごと刈り取ることにはなるだろうが。


「このプリントが終わらない限り帰れないんだから、解くのに集中しろ」

「だから、わからないんだって。難しいよ、これ」

「お前、頭はそんなによくないのか?」

「失敬な。そこまで悪くはないよ。良くもないけど」


 赤牙茜といえば頭脳明晰なイメージだったんだけどな。顔立ちが整っていて、物静かだから何となく賢く見えていただけだったのか。


「特に国語! 国語がわかんない!」

「ああ……お前は苦手そうだな」

「アレってどう思う? 解釈次第で答えが分かれるような問題をテストに出すべきじゃなくない?」


 赤牙は頬を膨らませ猛抗議する。


 一理ある主張だとは思うが、彼女の場合それ以上に感性が人間と違い過ぎるところが致命的だ。登場人物の心理描写を読み解く、現代文の問題なんか解けるわけがない。


「いいから黙ってやれ。俺はもう少しで終わるんだ」

「えぇ? 私を置いていくつもり?」

「当たり前だろ。解き終わったら俺は帰るからな」

「ちょっと待ってよ。今日まだ血を吸ってないんだけど?」


 ヤベ、気づかれたか。昼休みの時に何も言われなかったから、てっきり忘れているのかと思っていた。


「あ、そっか。そうだよ。お腹すいたから集中できないんだ!」


 赤牙は俺に向けてまっすぐ両手を伸ばす。


「ん」


 普通のカップルなら、キスかハグをねだる動作だろう。しかし彼女は吸血鬼。求めているのは愛ではなく血だ。


「……ここ学校だぞ?」

「誰も見てないからバレないって。補習担当の先生も、部活の方を見に行ったからしばらく戻ってこないでしょ」

「ならせめて、これ解き終わってからにしてくれない? 血を吸われた後で集中できる気がしないんだけど」

「だーめ」


 あざとく猫撫で声を出し、血を要求する赤牙。動作自体は可愛らしいが、俺からすれば憂鬱で仕方ない。


「わかった。わかったよ……ならせめて少しにしてくれ。昨日の半分くらい」

「仕方ないなぁ。君がそこまで言うならそうするよ。君のお願いはなるべく聞いてあげたいからね」


 俺が顔を少し前に突き出すと、彼女は首の後ろに手を回してきた。そのまま抱き寄せるようにして口を近づけ、首筋にガプリと牙を刺す。


「痛ッ」


 鈍い痛みが走り、全身が軽く跳ねる。


 二度目とはいえ、やはり痛いものは痛い。わかっているのにどうしても体が驚いてしまう。本能的に感じる恐怖には抗いようがない。


「ほら、ジッとして」


 彼女が俺の肩を抑え、体の震えを強引に止める。軽く手が乗っただけだが、それだけで充分にわかる。彼女の持つ力が一体どれほどのものなのか。


 腕相撲をする時、自分より遥かに強い相手と組むと、手を握った時点で敗北を悟る時がある。あの感覚に近いだろうか。

 彼女はさほど力を入れていないだろうし、俺もそこまで強い力を加えられているとは感じていない。ただひたすらに底知れなさを思い知らされるだけだ。


 このままほんの少し指先に力を入れられるだけで、俺の肩は粘土みたいにもぎ取られるだろう。そう思うと、もはや震えることすらできなくなっていた。


「はい、お終い」


 数秒すると、彼女はパッと両手を放して一歩引き下がった。


 口元から垂れる血を舌で舐め取り、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。


「すぐ終わったでしょ? これくらいなら君も問題ないんじゃない?」

「まあ、昨日よりはマシ……かな」


 それでも一気に血を抜かれ過ぎたせいか眩暈がする。そもそも昨日血を抜かれた分のダメージがまだ戻っていないんだ。頭がクラクラして仕方ない。


「はぁ……やっぱりいいよ。これまで結構色々な人の血を吸ってきたけど、君のはやっぱり格別だ。ものが違うね。私の体の隅々まで馴染んでいくのを感じるよ」


 赤牙は酒にでも酔ったように恍惚とした顔で、ここではないどこかに焦点を合わせている。

 もはやこのまま天に召されて行きそうな勢いだ。いっそのこと本当に召されてほしい。いや、こいつが行くとすれば地の底の方か。天使とは仲が悪いらしいから連れて行ってはもらえないだろう。


「クソ、視界がボヤける……あと一問。これだけ解いてサッサと帰ろう……」


 俺がプリントに向き直り、補習を再開しようとした時────事件が起きた。


 凄まじい轟音と共に何かが突っ込んできて、教室の窓側の壁が一面吹き飛んだのだ。


「どぅわっ⁉」


 俺は風圧に押され、床をコロコロと転がる。いつの間にか正気を取り戻していた赤牙が俺を庇うように立ち、飛んできた瓦礫やガラスの破片を残らず叩き落した。


「一番幸せな時間なのに……邪魔するのは一体誰かな」


 背中越しにも、赤牙が苛立っているのがわかる。この怪物に喧嘩を売るなんて正気の沙汰じゃない。一体誰がこんなことをしたんだ。


「アレは……」


 顔を上げると、窓の外に人が浮かんでいるのが見えた。


 それは小柄な少女だ。桃色の髪に、それと同色の派手な衣装。セーラー服のような形をしてはいるが、あちこちにキラキラ光る装飾がされており、かなり異質な印象を受ける。

 さらに手にはハート型の突起が付いたステッキを持ち、傍らに謎の浮遊する小動物を侍らせている。その姿はまさに────


「……魔法少女?」


 どうやら吸血鬼に引き続きまたしても、妙な奴が俺の前に現れたようだった。

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