第8話 人生初の彼女

 何が何だかわからなかったので、わかる範囲で話そうと思う。


 まず、赤牙は俺を抱えたまま天使に急接近した。どこが目でどこが耳なのか、そもそもそれに準ずるものがあるのかないのかも定かではない天使だが、吸血鬼の接近は敏感に察知したらしく、すぐさま形を変えた。


 その変形っぷりは、四角が三角になるとか、三角が丸になるとか、そんな次元のものではなかった。

 天使を形作っていた輪郭そのものが歪み、万華鏡みたいに予測不能なシルエットを描き始めたのだ。


 何がどうなったのかよくわからなかったが、とにかく敵意を感じた。アレが天使の迎撃態勢ということらしい。


「そーれっ!」


 赤牙がそんな声を上げたのと同時に、俺の体は重力から解き放たれた。


「は?」


 どうやら上に向かって放り投げられたらしいというのはすぐにわかった。ある程度の高さまで上昇すると、一瞬だけ空中で制止した後、今度は地面に向かって落下し始める。


「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 絶対放さないって言ったじゃん! 絶対放さないって言ったじゃん!」


 凄まじい速度で落ちていく俺だが、天使の速度はそれ以上だった。周回していた三角錐が赤牙に向かっていき、鋭い斬撃を放つ。

 だが、赤牙はそれをいとも容易く回避した。まるで居酒屋の暖簾でも潜るみたいに軽々と手で払い、天使の本体と思しきものへと近づく。


「血の通ってない君に用はないんだよ!」


 赤牙が捨て台詞を吐いた。その瞬間には、もう全てが終わっていた。


 彼女がどんな攻撃をしたのか、俺の目では全く捉えられなかった。ただ、いつの間にか彼女の鋭い爪が天使を粉々に引き裂き、夜空に散布していた。恐ろしいほど呆気なく、天使と吸血鬼の決戦は決着がついてしまった。


「一体何が……って、それよりも! 助けてくれえええええええええええええええええええええ! 落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる!」

「はーい。オーライ、オーライ」


 オーライだろうが何だろうが羽根のない俺はそのまま落ちていくしかない。


「はい、キャッチ」


 成すがままに地面へ引き寄せられていた俺は、激突寸前で赤牙に受け止められた。そのまま少しずつ減速し、そっと地上に降り立つ。


「たはっー! はぁ……はぁ……死ぬかと思った」

「私が付いているのに君が死ぬわけないでしょ」

「いや……天使とか言うから……これからとんでもない頂上決戦が始まるのかと」

「それは舐められたものだね。あんな小物相手に私が苦戦するとでも? 私は世界最強の吸血鬼だよ?」


 赤牙は得意げに胸を張る。それがちっとも頼もしくない。せめてもう少し弱ければよかったのに。


「でも、もう空を飛ぶのは止めた方がいいだろうね。いくら雑魚だからって、鬱陶しいことに変わりはないし」

「ああ……じゃあここからは歩いて帰るよ」

「いいの?」

「もう近所だから」


 流石に疲れた。ただでさえ疲れていたのに今のフライトでそれが十倍になった。こんなことならゆっくり歩いて帰った方がずっと楽だったな。


「君がそう言うならいいけど」


 赤牙は不満げに唇を尖らせつつも了承してくれた。


「けど、その前に改めて確認しておこうか」

「……確認?」

「本当は君を縛り付けて、家で保管しておきたいんだ。でもそんなことしたら確実に血の質が落ちるから、ちゃんと帰してあげる。ただ、それは自由にしてあげるって意味じゃないからね。君はこれからもずっと私のパートナーだ」

「パートナーね……」

「もし君が逃げようとしたり、私を殺そうとするようなら、私は君以外の人類を滅亡させるかもしれない。そこまではしないかもしれないけど、街の一つを滅ぼすくらいはするだろうね。その辺は私の気分次第だけど、とにかくそれはお互いに望まない未来のはずだよ」


 人質は俺以外の全人類というわけか。何ともスケールのデカい話だが、大型トラックの激突にも耐える耐久力と、夜空でも自在に飛び回れる機動力。そして天使とやらを簡単に破壊して見せた攻撃力を総合的に考えれば、決して不可能だとは言い切れないと思う。


「君は吸血鬼を前にしてもそれほど取り乱さなかったし、今の戦いも理解できないなりに呑み込めてるっぽいよね。だからそれなりに賢い人間だと信用することにするよ」

「それはどーも」

「ちゃんと家でも栄養のある食事を取ること。最低でも七時間は睡眠時間を確保すること。事故と病気には気を付けること。あと……そうだなぁ、私以外の吸血鬼に血をあげないこと」

「お前以外に吸血鬼の知り合いなんかいねぇよ!」


 ただ質のいい血が飲みたいだけのくせに、独り暮らしを始めた三か月後に電話をかけてくる母親みたいなこと言いやがって。


「ああ、それとなるべく早く私に惚れること。私は別に何十年だろうが待ってもいいんだけど、君はどんどん歳を取っていくし、十年くらい経ったら血の質も落ちてくるだろうからさ」

「惚れろと言われて惚れるほど簡単な話じゃないと思うんだが」

「そうだね。人間の心は難しいよ。無理やりじゃ意味ないし、自由にさせ過ぎても上手くいかないし、ほどほどの加減で君を束縛しないといけないのかな?」


 そんなの知らねぇよ。恋愛の仕方を俺に聞くな。しかもお前の言う惚れるってのは人間基準の惚れるとはだいぶ違うんだよな。話がややこしくて仕方ない。


「彼女なんかできたことないし、他の奴に聞いてくれ」

「……彼女? あ、そうだ。それも大事だよね。私以外の誰かに惚れられたらそれこそ一大事だよね」

「え?」

「じゃあさっきも言ったけど、私と付き合おうよ。私が君の彼女で、君が私の彼氏。今はまだ気持ちが向かなくても、いつか必ず惚れさせるから、まずは形から入るってのはどうかな?」

「…………マジで言ってんのか」

「マジマジ。大マジだよ」


 俺はガックリと項垂れ、しばらく考える。どうせ選択肢はない。考えても無駄と言えば無駄なのだが、少しだけ時間を置きたかった。


「……わかったよ。付き合おう。お前が俺の彼女……ってことでいいんだな?」

「そうそう! いいね、これで他の女に目が向くことはないよね。もし浮気とかしたらタダじゃおかないよ?」


 お前から浮気できるほど肝の太い男なんかこの世にいないと思うけどな。もしバレたら喧嘩じゃ済まないぞ。


「そういうことで、これからよろしくね、風見君」


 赤牙は滲み出る吸血鬼の凄惨な気配を隠すつもりもなく、ニッコリと口角を吊り上げた。


 こうして俺は、人生で初めて彼女ができたのだった。

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