第9話 日日是厄日――4
廃墟ビルに斬撃音が響き渡る。
肉を断つ、耳に堪えない音。
「あ……?」
椿は、突如切り裂かれた自分の触手に小さく声を漏らした。
驚いて紅い目を見開く。
「に――兄さん! あぁ、兄さんが、また兄さんが傷つけられて……!!」
「兄さん? そんな気色の悪いものがお前の兄さんなのか?」
のたうつ触手を見下ろしながら、ナイフを構え直す笹原が呟いた。
「兄さんを傷付ける者は誰であれ許しません……私と兄さんの邪魔をする者は……誰であれ……」
「さっきまで俺の愛を祝福するとか言っていたのにな」
まるであり得ないほどの豹変ぶりだった。清廉な聖女のような彼女が、蛇のような眼光を迸らせていた。
「これだから鬼人種は」
口の端を歪めて笹原は笑う。
自由で気まぐれで、それでいて残虐なバケモノ。
自分もまた、そんな存在に成り果ててしまったが、――それは笹原自身も望むところだった。
人間から鬼人種になることはできてもその逆はあり得ない、不可逆の変性。
もう引き返すことはできない。
――そう言えば、親父は昔、俺が人殺しになることを恐れていた。そのとき俺は、親父になんて言ったか。
『アンタだって人殺しのクセに』
あのときは悪いことを言ったと思って、謝りたかった。
でも、謝罪する暇もなく親父は死んだ。
今の自分はバケモノだ。親父が恐れた人殺し以上の咎を背負っている。
◆
「彼と戦うことに戸惑いはないのですか?」
「ないよ。こういう日が来るって前から覚悟はしていたからね」
人っ子一人いない『放置区域』に、二人分の足音が響く。
「彼はどういう男なのですか?」
「会ったことない? 二十年前の抗争に巻き込まれた高校生だよ。あいつの父親も退魔士だったけど」
「さぁ、どうでしょう。人の顔を覚えるのは苦手ですから」
いつもの胡散臭い笑みを浮かべて何でもないかのように不動は言った。
――ま、そうだよね。鬼人種ってそういう連中だったね。
不動の言動に気を取り直しつつ、話を戻した。
「僕と同じチンピラ上がりの退魔士だよ。でも若い頃から喧嘩っ早い退魔士じゃなかった。戦うことより、鬼人種自体に執着があったみたいでね」
街のチンピラから退魔士になった連中は大抵、暴れたいだけの脳筋であることが多い――古賀も元はどちらかと言えばそちらよりだった。
「あいつの父親も退魔士だった。――もう死んだけど。色々と確執があったみたいでね。父親の方は海外で傭兵として戦っていたらしい。だが――海外の戦場で鬼人種を見たんだと。その地で彼はき人種の魔力に魅入られた。そして帰国後、淀代で退魔士になった、ってわけだ。――あいつは、父親が一体何に魅入られたのかを知りたくて退魔士になったんだと」
「変わってしまった父親が、どうして変わってしまったのかを、知りたかったんでしょうかね」
「どうだろうね。強い父親を変えてしまうほどの何かがこの世にある、っていう事実に、その時点でもう魅入られていたのかもね」
力は人を惑わせる。それは、鬼人種という強力な存在を相手取る退魔士なら嫌というほど知っている。
「力に魅了されて力に溺れる退魔士なんて珍しい話でもなんでもないよ。今までだって何人も鬼人種化していくのを見た。鬼人種になったヤツに殺された退魔士だっていたし、そのまま消息を絶ったヤツもいる。次にそうなるのが自分と親しい人間かもしれない。ひょっとすると自分自身かもしれない。僕たちはそんな薄氷の上で戦ってるんだよ」
「脆いですよね、人間は。肉体強度も精神も」
――ならばどうして。
口を噤んで、不動は心で問う。
――そんな脆弱な身で、どうして戦い続けられるのでしょうか。
千年のときを生き、八十年人間と共に戦い続けてなお、その答えはわからない。
道中、その辺にいた(なぜかすでにボロボロの)チンピラに話を聞いて笹原がいると思しき廃墟に侵入した。
廃墟のビルには誰もいなかった。ただ、血の臭いが充満していた。
階段を上ってひとフロアずつ確認するが――なかなか笹原のもとにたどり着けない。もうとっくにここを離れているのだろうか。
「あれ」
四階の廊下に見知った二人がいた。
「あ、古賀さん。お疲れ様です」
箱崎翼と、臨時監視官、痣神月夏がいた。
「翼ちゃんも笹原を探しに?」
「はい。この辺にたむろしている人にちょーっとお話を聞いてみたら、このビルに笹原さんがいるって聞いたので来てみたんですけど……」
「もしかして下のチンピラボコボコにしたの翼ちゃん?」
「いやあの、誤解しないでくださいね? あっちから胸倉掴んで来たんですよ。さすがに鬼人種じゃなかったんで関節キメて顔面に膝入れただけで……」
「一般人相手にそれはオーバーキルだよ、翼ちゃん。ちょっと戦意喪失させる程度にしようねって前にも言ったよね」
「はい……」
古賀の言葉に視線を下に泳がせながら苦笑いを浮かべた。
「あのさ、説教なら事務所に戻ってからしてもらえるか? 例の退魔士、多分もう死んでるぞ」
「え」
翼の臨時監視官――痣神月夏の言葉に有親が顔を上げた。
これ、と月夏が差し出した「ソレ」を受け取ると、古賀は「……そうか」と言葉を漏らす。
「TOSHIHISA SASABARU」の名前が刻まれたアルミニウム製の認識票だ。退魔士の誰もが所持しているソレと、笹原愛用のナイフ。すでに笹原がここにいないことを示していた。
「戦闘の痕跡もあるようですね。負傷して逃走したという線はないのですか?」
不動の問いかけに月夏が「いや、その可能性は低い」と返した。
「笹原利久がこの建物に入ったという証言はあるが、出たという証言はない。何より――件の修道女の鬼人種が目撃されている」
月夏が言うと、翼がポケットから瓶を取り出して掲げた。そこには、赤黒く変色しつつある肉片があった。
「恋さんに昨日の戦闘で採取した肉片と照合してもらいます」
「そっか。わかったよ。僕が恋ちゃんに頼んでおくよ」
事務所に戻り、翼は家に帰った。
古賀は残り、冷え切った缶コーヒーを片手に窓の外を眺めていた。
「どうされました? もうじき一時になりますよ」
背後からのうっとおしい声に古賀はため息を零した。
「ご友人の件、大変残念でしたね。大事な仕事仲間の最期に立ち会えないのは誰だってお辛いものでしょうから」
「……思ってもないことをつらつらと」
照合の結果はまだ出ていない。だが結果は目に見えている。
「思っていなくとも、与えるべき言葉を与えようと思ったまでですよ」
「アンタから欲しい言葉なんかないよ」
残ったコーヒーを一口飲む。まだ半分以上残っている。
「アイツのロッカーからこれが出てきた」
古賀が上着のポケットから取り出したのは、袋に入ったショッキングピンクの錠剤だった。
「『ブラッディ・ベリィ』。アンタも知ってるでしょ」
「人間を鬼人種化させる薬物ですか。日本中の指定治安地区で頻繁に押収されていますので、もちろん知ってますよ」
「『ブラッディ・ベリィ』の摂取は、退魔士が鬼人種化する手段として一番使われる手法だよ。売買ルートを知っている退魔士も少なくはないからね」
本来人間が鬼人種に成る方法は一つ。鬼人種の血液を飲み、儀式を行うこと。
ただ鬼人種の血液を飲み、その霊気を体内に取り込んだとしても鬼人種には成れない。
鬼人種の霊気は人間には濃度が高すぎるため取り込んでしばらくすると肉体が崩壊する。だから儀式によって肉体に霊気を定着させるのだ。
しかし『ブラッディ・ベリィ』は儀式をせずに人間を鬼人種化させることができる。
この錠剤の原材料は鬼人種の血液だ。さらに霊気が肉体に定着するための術式も施されている。手軽に鬼人種を増やせるが、術式が体に馴染まず崩壊する場合もある諸刃の剣だ。
「笹原氏は自ら売買ルートを利用して鬼人種化したということですか」
「それもある――けど、別の考えもある。――アイツが鬼人種の力に魅入られていることを利用した売人がいるかもしれない」
人間が鬼人種になると、高い身体能力を得ることができる。だが身体スペックは元の肉体のスペックに依存するため、全ての元人間の鬼人種が強力な力を得られるとは限らない。
だとすれば、戦闘職種である退魔士は格好の餌食だ。
「他の退魔士も狙われる可能性も捨てられない」
これ以上仲間が死んだり、仲間を殺したりするようなことがあってはならない。
「明日、用心棒を頼んでもいいかな」
「構いませんよ。退魔士の監視はワタシの役目ですから」
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