第8話 日日是厄日――3

 あれは笹原が高校生のときだった。


 いつものように仲間とつるんでいると、連絡がとれなくなっていた友人とばったり会った。

 どこ行ってたんだよ、メールくらい返せよな、と久しぶりの友人との再会を喜んでいた――のも束の間。友人は、「ちょっと先輩が呼んでて人手が必要なんだ」と笹原たちをとある場所へと案内した。


 そこは東区の繁華街から少しばかり離れた路地裏だった。呑気な笹原は、きっと喧嘩に駆り出されるんだろう、とか、いつものように何も考えていなかった。


 しかし――そこで待ち受けていたのは――惨劇だった。


 やって来たのは笹原もよく知っている先輩だった。この先輩もまたしばらく見かけていなかった。のだが――笹原は何か嫌な予感を感じ取っていた。


 突然、仲間のうち一人が首から噴水のように鮮血を吹き出して倒れた。先輩が動かなくなったそいつの腕を掴むと、躊躇いなく首筋に歯を立てて咀嚼し始めた。

 その場にいた全員、何が起こっているのか理解できなかった。


 俺たちは喧嘩に呼ばれたんじゃないのか?

 なんで先輩があいつを食っているのか?


 先輩がおかしくなったのか、自分の目がおかしくなったのか、何も考えることができずに誰もがその場に立ち尽くしていた。

 誰かが悲鳴を上げる。

 もしかするとそれは笹原自身だったかもしれないし、別の誰かだったかもしれない。

 そんなことは思えてないし、どうでもいい。


 悲鳴を合図に堰を切ったように笹原たちは逃げ出した。

 だが、繁華街に通じる道はいつの間にか封鎖されており、どこにも逃げ場はない。


 逃げ惑うも、口元を血で汚し、瞳を紅に染めた先輩が不気味に笑いながらこちらに歩み寄って来る。

 ――次は自分かもしれない。

 助け合う仲間だったはずの笹原たちは、「自分だけは助かろう」と躍起になった。目の前にいた誰かの背中を押して先輩に突き出す。

 アスファルトに転がったの情けない悲鳴が路地裏に谺した。

 何とかして逃げ切らないと。笹原は破裂しそうな心臓で命がけの鬼ごっこを繰り返す――そんなときだった。


 渇いた発砲音と共に血に濡れた先輩の頭が爆ぜた。

 静寂と共に、黒い服に身を包んだ大人たちが路地裏へとやって来た。その中に――笹原の父がいた。


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 目の前で祈る少女は、その身にこの世ならざる異形を宿していた。

 タコのような複数の触手を蠢かせ人間を捕食してみせると、それは修道服の中に収納されていった。金属のものは吸収できないのか、青年が付けていたピアスやベルトは吐き出される。


「お嬢ちゃん、何者だ?」

 笹原は腰から提げたナイフを抜く。


「そんな物騒なバケモノ体の中に飼って、そうやって大勢の人間を喰らって来たんだな?」

 笹原の声に、少女が瞳を開ける。紅い瞳が、笹原を捉えた。


「あなたは退魔士――いいえ、あなたは鬼の方ですか」

 紅く瞳を滾らせる笹原に椿は微笑みを向けた。


「――俺の親父は元々傭兵で、多分海外で鬼人種を目撃したんだ。それから帰国して傭兵はやめて退魔士になった。どうして親父は退魔士になったんだって疑問に思っていたが――ようやく俺は答えにたどり着いたみたいだな」

 鬼人種化した先輩に襲われていたところを、父親たち退魔士に助けられたあの夜、笹原は父に詰め寄った。


 ――警備員になったんじゃないのか。

 笹原の問いに父は「そうだ」と返した。


 ――警備は警備でも、俺は人間専門じゃねぇんだ。

 そう答えた父の視線は、笹原がそれまで知っていたものではなかった。


 笹原が見ていた景色とは違うものを見てきた瞳。

 その奥に、恋慕とも崇高とも違ったものがあるのだと、笹原は直感した。


 それから笹原はその場で頼み込んで退魔士になった。所詮はチンピラだが、夜の街で無為に喧嘩に明け暮れるくらいなら社会奉仕として退魔士になった方がこの街のためだ、という判断もあって、『宰都特殊警備』のアルバイトとして働くことになった。

 だが――ほどなくして父は行方不明となった。


「親父は、アンタみたいな異形に魅入られちまったんだ。普通なら目を逸らして逃げ出すものなのに釘付けになった。親父はおかしくなってたんだ。人じゃない存在を、この世にあっちゃいけない事象を、愛してしまった」

 それはどこまでも、人としての矜持から外れたことわり


「親父はおかしくなった。それは事実だ。――だが、その気持は今の俺ならよくわかる」

 父は行方不明になった。そして、鬼人種の姿に変じて発見された。

 それが怪異に魅入られた者の末路なのだと、笹原は今になってようやく実感した。


「私たちは貴方と貴方のお父上の愛を祝福します」椿は柔和に笑みを浮かべる。「何者にも何かを愛する権利があり、この世のあらゆるものは愛される権利があるのですから」

 ねぇ、兄さん、と、椿は優しく囁いた。


 あぁ、だからこそ。

 愛したからこそ、美しいからこそ、


 誰よりも、その最期は自分が与えたかった。



 那汰川付近から『放置区域』へと向かう道中、那汰川に架かる橋を渡りながら翼は気になっていたことを口にした。


「そう言えば月夏さんって、二十年前に淀代に来たことあるんですよね」

「あぁ、一度だけだがな」


「もしかして、笹原さんとか古賀さんとかとも面識あったりします? 昔の古賀さんってどんな感じだったんですか? 噂だと結構やんちゃしてたとか聞きますけど今の感じからだと全然想像つかないんですよね~」

「そんなの覚えてるわけないだろ」

「えっ、二十年前ですよ? 覚えてないんですか? 鬼人種みたいな長命種からしたら先週のことみたいな感じじゃないんですか?」

「興味ないからな」

 素っ気なく返した月夏に翼は「えっ」と声を上げた。


「人間に思い入れなんかねぇよ。つーか、鬼人種にそういうの期待するな。よっぽど人間が好きの変わり者でもない限り、俺たちにとって人間なんてただの栄養源だ」

 月夏の乾いた声が夜の街に溶ける。

「俺たちは戦うために生きている。それ以外のものなんて余計なものだ。俺たちとお前らが手を組んでいる状況ですら奇跡みたいな話だよ」

「ふぅん、なんか退屈ですね、鬼人種って」

 あっけらかんと翼は言葉にした。


「そんなに長く生きられるのに他のことに興味が持てないなんて、なんか勿体ないですね。私が何百年も生きられるんだったらいろんなところに行っていろんな人と出会っていろんなものを見るのに」


 というか、と翼は続けた。

「うちの学校の制服着たいから転入してきたんですからあんま説得力ないですよ」

「うるせぇな。服は栄養源じゃないだろ」

「でも制服を作ってるのも、人間ですよ」

 翼の言葉に月夏は押し黙る。何かを思案するように、夜空を見上げた。それを見て翼はここぞとばかりにニヤつきながら畳み掛けた。


「あれ? 効いちゃいました? 反論できない感じですか?」

「栄養源の戯言なんかまもとに聞くわけないだろ」

 しつこい翼に軽く返して月夏は足を進めた。

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